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中国史ぷち講座

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美作市作東B&G海洋センターで行った『中国史ぷち講座』の欠席者・復習者用テキストデータです。お気軽にご覧ください。
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記事一覧

第10回【始皇帝】その3【天下統一】新しい世界のかたち

 紀元前247年に秦王として即位した嬴政は親政を開始すると積極的に他の六国への侵略を開始します。  初めに紀元前230年に内史・騰の攻撃により韓が滅亡します。そして紀元前228年、名将・李牧を喪った趙が王翦によって攻略されます。  紀元前227年に燕の刺客・荊軻による秦王暗殺未遂事件を受けて、翌紀元前226年に王翦が燕を攻撃します。燕は壊滅的な被害を受けますが、秦の矛先が他国へ向いたため紀元前222年までなんとか存続します。 魏の滅亡と対楚戦  紀元前225年に王翦の子・

第10回【始皇帝】その2【飛龍乗雲】最後の強敵たち

趙の守護神・李牧  呂不韋の失脚により秦王・政の親政が本格的に始まります。  紀元前236年に王翦、桓齮、楊端和らが趙を攻めて9つの城を攻略。紀元前234年と翌紀元前233年には2年続けて桓齮が趙を攻撃し戦果をあげます。  しかし、紀元前233年の遠征で桓齮は趙の将軍・李牧と司馬尚と河北省晋州市の西にある肥で戦い敗北してしまいます。史記や資治通鑑では桓齮は敗走したとありますが、戦国策ではこの戦いで戦死したとあります。大敗と言っていいでしょう。  人気マンガ・キングダムでも

第10回【始皇帝】その1【奇貨可居】史上最大のもうけ話

 秦の昭襄王は在位53年と長きに渡り君臨し続けました。在位期間があまりに長かったため、後継者候補だった王子たちも何人かが昭襄王に先立ってしまうということもありました。  紀元前265年、最終的に安国君と呼ばれる嬴柱が太子として選ばれることになります。昭襄王はこの時60歳を越えており、後継者である安国君にも既に20人以上の子供がいました。必然的に安国君の後継者、つまり次の次の秦王の座を巡り様々な駆け引きが繰り広げられることになります。  安国君の正妻・華陽夫人に子供がいないとい

第9回【牙を剥く虎狼の国】その3【流血成川】殺された四十万人

便所の屈辱  中央集権的な国家運営を行っていた秦ですが、当然貴族が存在しなかったわけではありません。昭襄王の即位に功績のあった魏冉は特に強大な権力を誇りました。  昭襄王即位後30年以上も権勢を恣にした魏冉とその一門ですが、当然終わりの時はやってきます。新たに魏からやってきた范雎が王権を脅かす者として、昭襄王に魏冉一派の排除を進言しました。  魏冉は自身の領土拡大のために軍事行動を起こすことがあり、昭襄王の生母で魏冉の妹である宣太后も政治に口出しするなどしていたため、彼ら

第9回【牙を剥く虎狼の国】その2【刎頸之交】最強に挑む男たち

 英主・昭襄王の元、虎狼の如く諸侯を蹂躙する秦のライバルとして鎬を削ることになるのが、武霊王による軍政改革・胡服騎射を成功させた北の軍事大国・趙です。   紀元前299年、趙では武霊王が生前に退位したため、その息子が恵文王として即位しました。斉の孟嘗君が秦の宰相になった年ですね。  そして紀元前294年、魏冄が秦の宰相になったこの年に武霊王が沙丘事件で死亡し、恵文王の親政が始まります。 璧を完うする  紀元前283年、趙は廉頗という将軍を斉に派遣し、廉頗は斉軍に大勝。陽

第9回【牙を剥く虎狼の国】その1【蚕食鯨呑】帝業の始まり

 春秋戦国時代は秦の始皇帝の統一を以って終わりを迎えることは誰もが知るところです。しかし、天下統一事業は始皇帝一代で成し遂げたわけではありません。  商鞅を登用して強国の礎を築いた孝公。張儀や司馬錯など文武の人材を使いこなした、孝公の子・恵文王。そして、恵文王の子供で始皇帝の曽祖父にあたる昭襄王の時代に秦一強の時代に突入します。  偉大な征服王・昭襄王のもと獰猛かつ狡猾に他国を蹂躙する姿はこう呼ばれました。 『虎狼の国』と。 兄・武王の死  戦国史の最重要人物のひとりで

第8回【斉の明暗】その3【火牛之計】逆襲の戦神

 不世出の名将・楽毅によって大国・斉の領土はわずか2城のみとなりました。しかし、楽毅の侵攻によって眠れる獅子が眼を醒まします。  そして、両雄の戦いは意外な結末をもたらし、戦国時代は新しい局面を迎えます。 無名の男  田単という男はその名前からわかるとおり、斉の王族の出身です。しかし田氏は傍系の者も多く、田単は首都・臨淄の市場で働く小役人に過ぎませんでした。  転機となったのは紀元前284年に発生した済西の戦いでした。斉軍の敗北を知った田単は安平という町に避難しました。

第8回【斉の明暗】その2【先従隗始】進撃の軍神

 東方の超大国として春秋戦国時代のメインプレイヤーの一角を担っていたのが斉です。紀元前300年ごろ全盛期を迎えた斉でしたが、一人の名将によって滅亡寸前まで追い詰められます。  弱小国・燕の将軍・楽毅。世界史上最高峰の名将はどのようにして超大国を蹂躙したのでしょうか。 子之の乱  現在中華人民共和国の首都は北京ですが、春秋戦国時代の政治・文化の中心地は黄河流域で、現在の北京周辺は辺境の地でした。  北京周辺を支配していた燕は周王朝のに連なる家柄でしたが、辺境の中小国として記

第8回【斉の明暗】その1【鶏鳴狗盗】華麗なる王族の功罪

 周の伝説的軍師・太公望や春秋五覇の一人桓公と大宰相・管仲の時代を経て強国として君臨し続けたのが斉です。斉は戦国時代の序盤に家臣である田氏に国を乗っ取られてしまいますが、田氏の斉・田斉もまた経済力を背景に繁栄しました。  そんな斉の絶頂期にひとりの英雄が出現しました。 田氏の繁栄  田氏は斉の王族であり、斉の要職は彼ら一族で占められていました。孫臏をスカウトした田忌もそうです。  田氏は非常に多産であったため、多数の田氏が官職に就くことで斉国内の支配力を強めていきました。

第7回【割拠する群雄】その3【胡服騎射】英雄王の栄光と悲劇

 商鞅の改革以降発展を遂げる秦に対して、魏と楚は脱落していったのはお話したとおりです。  秦への対抗馬として鎬を削ることになるのが趙です。元々趙は北を異民族が多く住む地域に接し、人口でも経済でも他の七雄に劣る弱小国でした。しかし、ひとりの英雄王の出現が世界の歴史を大きく変えていきます。 辺境の小国  紀元前325年、趙では武霊王が君主として即位します。史記にはこのときは年少であったため、先代からの遺臣・肥義の支えがあったとされています。  当時の趙はかつて晋だった地域の北

第7回【割拠する群雄】その2【合従連衡】戦国一の嫌われ者

 戦国時代は熾烈な外交戦が繰り広げられた時代でもありました。特定の国が特に強大化した場合、他の国が連合してこれに対抗する外交戦略を合従、強国と積極的に同盟を結ぶ外交戦略を連衡と言います。この時代に活躍した弁舌の達人たちを縦横家と呼び、その筆頭は秦の宰相にもなった張儀という人物です。 俺の舌はまだあるか?  張儀は紀元前373年頃魏の国で生まれたと言われています。商鞅より17歳ほど年下で、張儀が仕えた秦の恵文王より17歳上なので、ちょうどこの二人の真ん中ですね。  張儀は若

第7回【割拠する群雄】その1【囲魏救趙】天才軍師による華麗な復讐劇

 戦後時代最初期の覇権国だった魏ですが、人材の流出によりその力は衰退していきました。特に商鞅が秦に仕官したことは魏にとって大きな痛手になりました。  そして商鞅とほぼ同時期流出したもう一人の天才により魏は致命的な大敗北を喫します。 旧友の裏切り  魏の文候の孫・恵王には龐涓という将軍が仕えていました。龐涓は旧友の孫臏という人物を、就職先を紹介してあげようと言って魏に招きました。  しかし、魏にやってきた孫臏を冤罪で投獄し、顔面に入れ墨をして両足を切断しました。孫臏の軍事の

第6回【三晋の成立と魏の盛衰】その3【商鞅変法】最強国家の礎

 魏は名君・文侯の死後、優秀な人材が他国へ流出してしまいます。その中でも最も致命的だったのが、後に秦を覇権国へと押し上げる商鞅でした。 商鞅の経歴  商鞅は紀元前390年に衛の国、現在の河南省で公族の一人として生まれました。呉起が楚で命を落とす9年前です。ちなみに衛は呉起の故郷でもあります。  衛の公族出身であるため、衛鞅とか公孫鞅とも呼ばれます。正確には商鞅という名前はずっと後になってからの名前なのですが、ここでは商鞅で統一させていただきます。  商鞅は故郷の衛ではな

第6回【三晋の独立と魏の盛衰】その2【吮疽之仁】魏の隆盛と秦の受難

戦国最初の名君  魏駒の子供・魏斯は周から正式に諸侯として認められたため文候と諡されます。この魏の文侯は戦国時代最初の名君と言われる人物です。  文侯の優れていた点は優秀な人物をよく起用したことです。忠義の名将・楽羊、孔子の孫弟子で合理的な政治家・西門豹が代表的な人物です。特に重要なのは中華史上初の成文法を定め、後世の政治システムの手本となった李克。そして、武廟十哲の一人に挙げられる天才兵法家・呉起でした。 異能の天才  呉起は元々国外である衛の出身者でした。故郷では自