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第9回【牙を剥く虎狼の国】その2【刎頸之交】最強に挑む男たち


 英主・昭襄王しょうじょうおうの元、虎狼の如く諸侯を蹂躙するしんのライバルとして鎬を削ることになるのが、武霊王ぶれいおうによる軍政改革・胡服騎射こふくきしゃを成功させた北の軍事大国・ちょうです。

  紀元前299年、趙では武霊王が生前に退位したため、その息子が恵文王けいぶんおうとして即位しました。せい孟嘗君もうしょうくんが秦の宰相になった年ですね。
 そして紀元前294年魏冄ぎぜんが秦の宰相になったこの年に武霊王が沙丘さきゅう事件で死亡し、恵文王の親政が始まります。

へきまっとうする

 紀元前283年、趙は廉頗れんぱという将軍をせいに派遣し、廉頗は斉軍に大勝。陽晋ようしんという城を攻略します。
 この前年にえんの名将・楽毅がくきが招集した合従がっしょう軍が斉軍を撃破しているので、趙の派兵も燕との連携であったと思われます。
 この戦いで諸侯の間に廉頗の勇名が知れ渡ったとありますのでかなり大活躍したことがわかります。

 同年に趙の恵文王はの宝・和氏かしへきを手に入れました。
 璧とはぎょくを使用した装飾品です。玉とはヒスイやトルコ石、コハクなど不透明の宝石をの総称です。中国や日本など東アジアでは、玉は金や銀よりも価値のある宝石とされていました。将棋も金将や銀将より玉将が価値がありますからね。
 その高価な玉の中でも特に上等なものを磨き上げて作られたのが、和氏の璧でした。

 この秘宝が趙にあると聞いた秦の昭襄王は、秦の15城と和氏の璧を交換しようと使者を送りました。
 昭襄王の提案を受けた趙では議論が行われました。和氏の璧を差し出したところで、秦が約束を守るとは限らないという意見が、趙上層部の共通認識だったようです。楚の懐王かいおうが秦に騙され幽閉の身になっていることは周知の事実であり、秦を警戒するのは当然のことでした。
 だからといって提案を拒絶すれば、強大な軍事力を持つ秦と敵対することになります。
 城を渡すなら璧と交換し、城が手に入らないなら璧を失うことなくまっとうし趙に帰るという困難な完璧帰趙かんぺききちょうのミッションに立ち向かったのが、繆賢びゅうけんという宦官の食客だった|藺相如《りんそうじょ》でした。

 和氏の璧を携えて藺相如は昭襄王と対決します。
 昭襄王の対応が軽薄で誠意がないと見抜いた藺相如はそれを激しく指摘します。更に15城の引き渡しが口約束で守る意思がないと判断した藺相如は密かに和氏の璧を趙に返し、自身は秦に残ります。
 和氏の璧がすでに趙に持ち帰られたことを知った昭襄王は当然激怒し、藺相如を殺そうと考えます。しかし、和氏の璧が既にない以上藺相如を殺してもなんの得もない。むしろ趙との関係が拗れるだけだと思い至ります。それより藺相如ほどの度胸と弁舌があれば、趙に帰れば出世は間違いなく、将来のために藺相如に恩を売るのが今は最善手であると判断します。
 こうして藺相如は無事、趙に帰国します。この和氏の璧を巡るやり取りの中で、昭襄王を一喝した際は怒りのあまり髪の毛が逆立ち冠をく程であったため、このときの様子から『怒髪天をつく』という言葉が生まれました。

冷静な頭脳と熱い心の持ち主・藺相如

澠池べんちの会

 紀元前279年、趙の恵文王は昭襄王に招かれ、澠池べんちで会見を行います。この会見には大臣にまで出世した藺相如も同行していました。
 宴席で昭襄王は恵文王に対してこのように発言しました。
「趙王は音楽が得意だと聞く。私のために琴の演奏をしてくれませんか」
恵文王が琴を奏でると昭襄王は記録係を呼んで言います。
「今日、秦と趙の王が酒を酌み交わし、秦王の命令で趙王が琴を演奏したと記録するように
 昭襄王の思惑は、恵文王のメンツを潰して秦が趙より格上であると国際社会に知らしめることでした。

 藺相如は進み出て昭襄王に言います。
「趙王は秦王が秦の音楽に精通していることをご存知です。ここは秦王も打楽器を演奏して、お互いに楽しまれてはいかがでしょうか」
 ムッとした昭襄王はこれを拒否しますが、藺相如は
「どうぞ、どうぞ」
といった体で楽器を持って昭襄王に近づきます。
「今、私と秦王の距離はわずか5歩です。どうか私の首を切り落とし秦王に私の血を降り注がせていただきましょうか」
これは別に自殺志願をしているわけではなく、言外に
いつでも秦王に危害を加えられる距離まで近づいたぞ
という脅しです。当然直接的な脅し文句を使えば立場が悪くなるので、このような回りくどい言い方をしたわけです。
 藺相如の暴挙に驚いたのは昭襄王と秦の警護兵たちです。警護兵が藺相如を殺そうとすると、藺相如は警護兵たちを睨みつけ、叱りつけてしまいます。余りの迫力に秦の人々はオロオロするだけでした。
 仕方なく昭襄王は楽器を一度だけ叩きました。すると藺相如も趙の記録係を呼んで言いつけます。
「今日、秦王は趙王のために楽器を演奏してもてなしたと記録せよ

 藺相如の機転と度胸で、趙の国際的立場は保障されたのです。

刎頸ふんけいの交わり

 藺相如は趙第一の人物と目されるようになりましたが、それを面白く思わない男がいました。廉頗です。戦場で功績を上げて出世した廉頗にとって、外交の功績で出世した藺相如に対して怒りを隠しませんでした。
 「もしも藺相如に出会ったら大恥をかかせてやる!」
 この話を聞いた藺相如は廉頗を避けるようになりました。

 ある時外出中に廉頗の馬車を見た藺相如は、見つからないように隠れてやり過ごすということがありました。この行動に対して藺相如に仕える人が不満をぶつけます。
「私は藺相如さまを慕っております。しかしあなたは同列の廉頗将軍相手にビクビク怯えて逃げ隠れしています。情けないやら、恥ずかしいやら。私はあなたの元を去ろうと思います」
藺相如は彼を引き止めるでもなくひとつ質問をします。
「お前は廉頗将軍は秦王よりも脅威だと思うか」
「そんな事はありません」
そして藺相如は答えます。
「私は外交の場で秦王と渡り合ってきたが、何故今更廉頗将軍を恐れるのか。
 思うに、秦が趙を警戒しているのは私と廉頗将軍が力を合わせて秦に対抗することだ。今、私と廉頗将軍が争うような事は避けなければいけない。私は自分のメンツよりもこの国の事を優先したいのだ

 人づてにこの話を聞いた廉頗は藺相如の邸宅を訪れます。廉頗は肌脱ぎになってイバラを背負った状態で藺相如に対面します。肌脱ぎの状態は当時の感覚で言えば、本来かなり屈辱的なポーズだったようです。
心根の卑しい私は、ようやく藺相如殿の寛大さを思い知った!
藺相如も廉頗を受け入れ、以降この2人は
この人になら、くびねられても悔いはない
とさえ思えるほどの友情が芽生え、無二の親友のことを『刎頸ふんけいの友』といったり、その友情関係を『刎頸の交わり』と呼ぶようになりました。

 2人の活躍は目覚ましく、刎頸の友となった年に廉頗は斉軍を破り、その後も斉や魏に連戦連勝を重ねました。そして藺相如もまた斉との戦いで功績を上げました。

藺相如と廉頗は親友の代名詞

脱税を許さない男

 そして、藺相如と廉頗に並び称されるもう一人の趙の英雄・趙奢ちょうしゃが現れます。

 趙奢はもともと軍人ではなく、徴税の役人でした。
 趙には恵文王の弟で平原君へいげんくんと呼ばれる大貴族がいました。平原君は斉の孟嘗君と並び称される戦国時代の大物政治家です。
 この平原君の身内が脱税をしたことがありました。徴税の役人だった趙奢はこれを厳しく取り締まり、脱税に関わった9人を処刑してしまいました。

 一介の小役人に身内を殺された平原君は激怒して趙奢を殺害しようとします。大貴族である平原君に対して趙奢は堂々と自分の意見を述べます。

「あなたは趙の貴族であるが、今あなたの行いは公共の奉仕を怠って法をないがしろにする行為です。法を蔑ろにすれば国は弱くなる。国が弱くなれば諸侯の攻撃を受けて国が滅んでしまうでしょう。それであなたの富は守られるでしょうか。
 身分の高いあなたが率先して公共に奉仕して法をよく守れば、国内はよく調和するでしょう。国内がよく調和すれば国は強くなり、国が強くなればこの趙が脅かされることもなくなるでしょう。そうすれば尊い身分であるあなたも天下の人々から軽んじられることもないでしょう」

 意見を聞いた平原君は自らを恥じると共に、趙奢の勇気と見識を高く評価しました。平原君の推薦によって恵文王は趙奢に国税の管理を任せたところ、公平な徴税によって趙の国は豊かになりました。

趙奢の子孫は後の歴史にも大きな影響を与えた

閼與あつよの戦い

 紀元前269年、澠池の会見から10年後、秦は趙に攻撃を仕掛けます。秦軍を率いるのは国外出身者である公孫こうそん胡傷こしょうという将軍です。公孫胡傷は紀元前276年の華陽かようの戦いで、魏冄や白起はくきと共に、趙・魏連合軍と戦い大戦果を上げた人物です。

 公孫胡傷は趙の閼與あつよという趙の都市を攻撃します。閼與は趙の首都・邯鄲かんたんのすぐ西にある都市です。距離的にはすぐ近くなのですが、太行たいこう山脈が間にありました。そのため邯鄲から閼與へは山と山の間にある狭小な道を通過する必要がありました。

 恵文王は廉頗や楽毅の息子・楽乗がくじょうに意見を募りました。
「邯鄲と閼與の間の道を封鎖されると突破は困難であり、閼與の救援は絶望的である」
返ってきた返答はこのように悲観的なものでした。
 しかし、趙奢だけは
「狭い道での遭遇戦は、ネズミ同士が小さな穴で1対1で戦うようなものです。より勇敢な方が勝ちます」
と、積極策を進言しました。
 恵文王は趙奢に閼與救援の指揮官に任命しました。

 勇敢な意見を主張した趙奢ですが、実際は狭い道での戦いは趙軍が不利だと思っていたようです。
 趙奢は邯鄲を出てすぐに防壁の建設に取り掛かります。閼與はおろか、途中にある狭い街道の入口よりも更に手前です。
 この動きに秦の公孫胡傷は
「趙は閼與救援を断念して、閼與陥落後の邯鄲への攻撃を警戒している」
と、判断します。そのため、邯鄲方面への警戒を解いて閼與攻略に全戦力を投入することを決断します。
 しかし、それこそが趙奢の狙いでした。警戒が薄れた隙を突いて趙軍は無傷で閼與近郊まで接近することに成功しました。
 軍士の許暦きょれきという人物の進言によって趙軍は北にある山に布陣、秦軍への逆落しによる攻撃を加え見事撃破しました。

 趙奢の決断と、その決断を可能にした趙軍の機動力によって秦軍は手痛い敗戦を喫しました。
 連戦連勝を繰り返し、一強状態であった秦でしたが、藺相如、廉頗、趙奢の3人が健在の間は、趙に決定的な優位を取れずにいました。