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聖女と野の花

早春の野のオオイヌノフグリ は、Veronica persica
ペルシアの ヴェロニカ(クワガタソウ)。 
お散歩ネコたちの鼻先がちょっと触れても
花弁はそよぎ、萌えそめた草に隠れる。

欧州猫の憧れの地ペルシア、
西アジアに生まれた花の
淡い青をイスラームの猫たちは
貴石ラピスで彩色(いろど)った。

西欧中世の装飾写本に
イスラームの遠い記憶

          🍃

ヴェロニカは、伝説の聖女の名。
エルサレムの旧市街、彼女は
<悲しみの道 Via dolorosa>に
現在(いま)も、たたずむ(*) 。
                (*) Via Dolorosa14留のうちの第6留

十字架を担いゴルゴタの丘に向かうキリストに
ヴェロニカは自分のヴェールを差し出し
血と汗を拭った布には聖顔が写っていたと
聖書は語らない、聖遺物にまつわる奇跡譚。

聖女の名の由来は「真実のヴェロvero」+「像イコンicôn」
―— だニャンて、ちょっとこじつけっぽいニャー。
ヴェロニカはギリシア語が起源のラテン語人名、
もとの語はベレニス「勝利をもたらす者」。

ヴェロニカ 🍃 幻想

二千年前の南レヴァント、ヴェロニカは
ローマの属州、文明の要衝シリアに生まれ
手広く交易に携わる人と結ばれて
王都エルサレムで暮らしていた。

大地震から三十余年、城塞都市の再建は進み、
大王ヘロデが始めた神殿増築も成った。
ヴェロニカは幼いころから聞いて育った
聖なることばを思い出す。

≪ あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、
≪ 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、
≪ 自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではない
≪ ぶどう畑とオリーヴ畑を得、食べて満足するとき【……】                                                                                                     (「申命記」6章10‐11 )                   

「食べて満足するとき」ヴェロニカは
与えられたものに感謝しながらも、こうして
物心の豊かさを享受していることに後ろめたさ、
ある種の負い目 を感じていた。

それでも彼女は、商家の内証を切り盛りし、喜捨も欠かさず
老親たちに仕え、近所や親類にも心を配る……その合間には、
織機に向かい色鮮やかな染め糸で花々を織って楽しむ
どこにでもいる平凡な女性だった。

          🍃

ある日、ヴェロニカは親戚を訪ねて
ガリラヤ湖畔の町に出かけた。
朝早くロバで発てば、何とか
日没までには目的地に着く。

着いた翌日、町には時ならぬ人だかり。
奇跡を起こすと評判の 預言者 に
瀕死の愛娘を救ってもらおうと、
町の有力者が願い出たという。

弟子たちを伴ない、群衆に囲まれて
まだ若い師は招いた人の家に向かっていた。
そのとき、ゆらゆらと白い影のように
彼のあとを追う娘がいた。

彼女が患う病の、血の穢れをおそれて
後ずさりする群衆には目もくれず
娘は身を屈めると、華奢な手を伸べ
青年の衣の房に触った。

振り向いた師を見上げた娘は
清やかな光に包まれたまま動かない。
娘は癒された―—
ヴェロニカは確信した。

          🍃

春のときめきを恥じらうかに
花芯をほのかな葡萄酒色に染めて
白いアーモンドの花が咲くころ、
ユダヤの民は「過越祭」を祝う。

モーセに率いられエジプトを出たイスラエルは
異教の神々への隷従から解き放たれ
唯一の神の自由な民となった。
その新生を祝う「過越祭」。

心を整え、感謝の大祭に備えるはずが
王都は早朝からざわついている。
「ユダヤ人の王」のエルサレム入城を
群衆が歓呼して迎えたのは、ついきのう。

それが今日は、同じ群衆が
彼らの王を十字架にかけよと騒いでいる。
家人の幾人かは仕事を放り出して
夜明け前から見物に出かけてしまった。

いつものように織機に向かったものの
何かがいつもと違う―— この町の人たちは
いったい何をしようとしているのだろう?
ヴェロニカは杼を置いてヴェールを着けると、外に出た。

          🍃

エルサレムの街路は入り組んでいるうえに
狭く、上がったり下がったり、階段も多い。
荒削りの石壁に乾いた風が吹きつけ、
罵声と嘲笑が砂塵のように渦を巻く。

―— 来なければよかった。
ヴェロニカが引き返そうとしたとき
群衆に道を空けさせローマの兵が近づいて来る、
血にまみれた青年と彼の十字架を取り囲んで。

ヴェロニカは一瞬立ちすくんだ。
悲しく憤った。相手が誰であろうと、
こんな非道が許されていいはずがない。次の瞬間
群衆もローマ兵も彼女の視界から消えていた。

水香るガリラヤで癒された娘のように真っすぐに
受難の人に近づくと、顔面の流血と凌辱の跡を拭う
一片の布、自分のヴェールを持ち、その手を
師父に差し伸べた。

遠ざかる人の波を目で追っていた
ヴェロニカの手にヴェールが残された。
はるか東方からオアシスの道を来た
幅広の布。

たおやかな重みある絹の織地は
かすかに湿り気を帯び
清やかな光を放っていた ―—
静謐のうちに。

ルオー『聖女ヴェロニカ』

         🍃

マルコも、マタイも、ルカも
病を癒された娘の挿話を
語ってはいるけれど
娘は、無名のまま。

二世紀になって、彼女は
べレニスと呼ばれるようになり、
中世には聖女ヴェロニカと同じ人物と
見なされることもあったらしい。

ベレニス、ヴェロニカ、女性たちは告げ知らせる。
日常の深みで触れた非日常、いのちは
死に打ち勝ったと―— よみがえりの春、
週の始めの朝まだきに。

          🍃

ねこじゃら荘には草の花
ハコベ、カタバミ、ホトケノザ ―—
いのちは小さなもののうちに凝縮し、
それぞれのきらめきとなって発出する。

栄華の極みの王よりも見事に装い
さんざめく野の花たち。黒土の
地面にはペルシアのヴェロニカ、
天空の青の口づけ。

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