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ロバさんと竪琴

フランス中央山塊、
オーヴェルニュ地方の
小さな村の教会に
そのロバさんはいた。

大学に入って一年目の秋、
新学年の履修登録会場には
先輩たちが詰めていて
新入生に必修や選択科目を紹介、
ついでに有益な(?)助言も。
—―《美術史Ⅰ⦆は中世建築。
 近所の教会を見に行ったり、バスで遠出したり
 現地見学…… 遠足が口頭試験のかわりだよ。
 これに登録したら?
—― 試験のかわりに、遠足?
 じゃ、その…… 建築にする!

十一月初めの秋休みが終わると、
新しい学年が本格始動。
《美術史Ⅰ⦆も、遠足で始まった。
秋も終わり近く、
大学のあるクレルモン=フェランから
四十分ほどバスに揺られて
サン・ネクテール村へ。

サン=ネクテール Saint-Nectaire といえば
オーヴェルニュの葡萄酒 ”Saint-Pourçin” とよく合う
セミハードタイプのチーズのことだとばかり思っていたのに
緩やかな稜線が連なる山間の村には、
十二世紀に建立されたロマネスク様式の教会が
樹々にうずもれるようにして立っていた。

建物の平面図やら断面図、それに
建築用語満載の資料片手に
教会のまわりをウロウロしたあと
先生に引率されて堂内を見学。
ロマネスク建築のアーチ、梁や天井
専門の先生のご説明も、猫&子猫に小判。
へぇー、この石、十二世紀からずっとここにあるんだ……
そんなことを思いながら、壁や柱を触っている。

先生はランタンで照らしながら
「柱の上部を ”柱頭” といいます。
浮彫が施されていますが、見えますか?
建った当時は彩色されていました。」
( 先生のお声がよく通る。 建物が共鳴箱! )
「ほら、あそこ、いまも
当時の色彩が残っているでしょう?
浮彫は、キリストの受難や黙示録の物語、
それに【オーヴェルニュにキリスト教を広めた】
聖ネクテールの伝説も、向こうの柱頭にあります。
こちらから回って、行ってみましょう。」

学生たちは、あっちキョロキョロ
こっちキョロキョロ。そこに
誰かの小声が大きく響いた。
「ねえ、あそこ見て。
ロバさんが竪琴、弾いてる」

どうして聖堂でロバさんが竪琴?
ぼんやり考えているうちに、先生も、先生を囲んで
熱心にノートを取っていた真面目猫たちも
さっさと内陣を見て回って、そのまま
どこかへ行ってしまった。

            🎵

ロバさんと竪琴は、「猫に小判」と似た意味の
古代ギリシャのことわざ「ロバに竪琴」。
”ローマのイソップ ” パエドロス
(Gaius Julius Phaedrus、BC14?〜AD50?)が
一篇の寓話に仕立てた。

ある日、道端で竪琴を見つけたロバさん、
ひずめのついた前足では弦を爪弾くこともできず
ため息まじりに「弾ける人が弾いたら、
きっと美しい音が出るだろうに……」
竪琴をまえにロバさん、口ずさんでいたかも
♫♩ もしも竪琴が弾けたなら、とか。

六世紀、運命の転変をまえに
”竪琴を弾けないロバ” でいてはいけないと
詩人哲学者ボエティウス(Severinus Boetius、480-524/5)を
励まし慰めるのは、彼の精神の養母(やしないおや)
美しい貴婦人、擬人化された<哲学>。
(絶筆『哲学の慰め』Ⅰー4)

心打つラテン詩文を遺したボエティウスは
十八世紀の歴史家ギボンに「最後のローマ人」と呼ばれる。
また別の誰かは「最初のスコラ学者」とも。

            🎵

中世へ、時は流れて
ロバさんと竪琴が柱頭を飾った十二世紀、
西欧は温暖期の真っ只中、戦争も収まり
人々は田畑を拓いて農業に励み
食糧は充ち足り、人口が増えて
農村も都市も発展した。

クレチアン・ドゥ・トロワ描く
若い騎士ペルスヴァル が早春の野から
聖杯を求めて冒険の旅に出たように、
時代は熱心に聖遺物を求め
人々は聖地巡礼を志してエルサレムへ。

あるいは、サンチアゴ・デ・コンポステーラへ。
聖ヤコブの聖地まで何通りもの巡礼路が整えられ、
道沿いにはロマネスク様式の教会が
次々に建てられていく。
ル・コルビュジエ(1887-1965)のいう
まさに「伽藍が白かった時」。

当時、西欧は
ユダヤとりわけアラビアの碩学と接し
イスラームの知的探求の豊かな成果を通して
古代ギリシャ・ローマとあらためて向き合っていた。

修道士たちは、ラテン教父は言うに及ばず、
ギリシャ教父もギリシャ哲学も
アラビア語を経てラテン訳で読み、テクストを筆写、
羊皮紙写本の硬質な手触りのページごとに
細密画を配し装飾文字の輝きで彩った。
こうして流布し始めた書物のなかには、
『哲学の慰め De Consolatione Philosophiae』や
同じくボエッティウスが著した
『音楽教程 De Institutione Musica⁺』も。
                   ⁺ 2023年11月に邦訳が出ました。
                     (講談社学術文庫、伊藤友計 訳)   

献堂されて間もないサン・ネクテールの聖堂へ
近くから遠くから巡礼の猫たちがやってくる。
堂内に入ってきたのを一段高いところから
<説教台>が目ざとく見つけて
さっそくお説教。
「巡礼の猫たちよ(エヘン)
竪琴が弾けないロバのように
自分の限界をわきまえて
いつも謙虚であらねばなりません。」

猫たちは小首かしげて
「……???」

            🎵

サン・ネクテールの柱頭に見た
ロバさんの竪琴は、たぶん
十一、二世紀の写本によく登場する
プサルテリオン。

プサルテリオンは、もともと
アッシリアやバビロニア、レヴァント古代の楽器。
リラやハープは弦を弾いて音を出すけれど
プサルテリオンは、弦をプサロオ(つまむ)だけでなく、
手や撥などで叩く奏法があったとも。それなら
ロバさんがヒズメで叩いても演奏できる……?

紀元前一世紀、ユダヤ教の聖典が時を経て
ほぼ現在のかたち(ほぼ旧約聖書)に編まれ
当時、東地中海一帯で使われていた
”共通ギリシャ語 koinē” に翻訳された。

共通ギリシャ語訳が広まるにつれ、
身近にあったプサルテリオンに合わせて歌う
ヤーウェへの讃歌が、いつのまにか
「プサルモス psalmos」 と呼ばれるようになって
…… プサルモス、psalms、詩篇。

ダヴィデ王と宮廷の楽師たち、十一世紀、『詩篇』写本の挿画より
中央がリラを手にしたダヴィデ王、左下がプサルテリオンの奏者。
( ロラン・ドゥ・カンデ著『世界の音楽の歴史 Histoire universelle de la musique』)               

            🎵

プサルテリオンの時代の前も後も
西アジアから地中海一帯の農村や市井で
ロバさんは、力仕事の頼もしい味方。
忍耐強く、粗食に耐え、病気知らず。
畑を耕したり、大きな臼を回して粉を挽いたり
荷物や人を運んだり。

そんなロバさんは、
旧約の民にとって古来
権威(ちから)ある者の乗りもの。

異邦の支配者らは
神の救いを待たず
専ら自らの力を頼み
駿馬を駆っては、荒々しくも
馬上の高みから民を睥睨する。
しかしヘブライの民のもとを訪ねる
彼らの王の乗り物は、ロバ。

娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、歓呼せよ。
見よ、お前の王がお前の所に来られる。
その方は正しく、救いをもたらし、
柔和で、ろばに乗って来られる。
雌ろばの子、子ろばに乗って。
               ゼカリヤ書 9. 9          

フランシスコ会訳 『聖書』

紀元一世紀、ユダヤの民は
帝国ローマの軛から解放してくれるはずの
彼らの王を待ち望んでいた。

[…]祭りに来ていた大勢の群衆は、
イエスがエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。
そして、叫び続けた。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
 祝福があるように、イスラエルの王に。」
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。
次のように書いてあるとおりである。
 「シオンの娘よ、恐れるな。
 見よ、お前の王がおいでになる、
 ろばの子に乗って。」
               ヨハネによる福音書 12. 12-15              

新共同訳 『聖書』

当時のロバ、とりわけオスのロバは
ときに強健すぎて、家畜としては
従順なメスのロバが好まれていた。
子どもが生まれれば、
仕事ができるようになるまで
母ロバと暮らす。

エルサレムの都に近いオリーヴの山のふもと、
とある村に誰もまだ乗ったことのない子ロバが
お母さんロバのそばに繋がれていた。
そんな小さなロバさんが召されて
王さまの乗りものとなる。
なんと晴れがましく
誇らしい初仕事!

「ろばの子」に乗って
エルサレムに迎えられたのは
王であるキリスト
ヘンデルの『メサイヤ』、
「ハレルヤ」の合唱が頌め歌う
King of Kings、王たちの王。

            🎵

六月の学年末。
《美術史Ⅰ⦆の筆記試験は
先輩たちのノートを借りて下線部だけを丸暗記。
ギリギリで単位取得(やったー!)

軽やかに晴れた日曜日、
大学寮近くの古い街区にある
ノートルダム・デュ・ポールへ。
サン=ネクテールとほぼ同時期に建立された
ロマネスク様式の教会堂には
ロバさんもいないし、竪琴も見当たらないけれど
地下聖堂があって、子猫の秘密のテリトリー。

しばらくいたあと
薄明りの堂内から外へ出ると、
乾いた夏の光が眩い。

あたりには日曜市の屋台がいっぱい。
ぶらぶら歩くうち、風に乗って
ラベンダーの香りが……
どこ、どこ? と探していると
賑わいから少し離れた一角に
荷車を曳いて、灰色のロバさんが
うなじを垂れて立っている。

荷台の大きな木箱には、ラベンダーの蕾、蕾。
開花直前に収穫して茎を扱(しご)いて外した
紫の花の粒。こんなにたくさん!
丘陵地一面に広がるラベンダー畑、
南フランスのオック語 l'Occitanが
遠く近く聞こえてきそう。

古びた木箱から溢れんばかりの蕾の花に
半ば隠れてブリキの計量カップと、
見本なのか商品なのか、
サテンのリボンを結んだ匂い袋もいくつか。
匂い袋、縫おうかニャー。
「匂い袋、二、三個作れる分、計ってください。」

ラベンダー売りのおじさんは、見るからに地元の猫。
八の字口髭をピクリとも動かさず黙りこんだまま、
新聞紙でササッと三角袋(コルネ)を作ると、
花の粒を香りもいっしょにカップですくって計り
ボソッと代金を呟いた。

コインを受け取ると、おじさん猫は
荷台にあった匂い袋を一つ摘まんで
―― ほれ、おまけ......
―― まあ! ありがとう。ロバさんも、ありがとう!
―― どういたしまして、 は? 
 育ちのええロバは、ちゃーんと
 挨拶しゅるもんだで、 アホ……

ニコリともしないおじさんの
ほほえみいっぱいの声音に
灰色のロバさんは心なしか、うなじを伸ばし
大きなお耳をヒクヒクっと動かした。

灰色のロバさんも
お祭りの日には出かけるのかニャ-
プサルテリオンを弾きに<時>を遡って
真新しい石の聖堂(みどう)へ。

            🎵

ここ日本の町中では
あまり見かけないロバさん、
いまも地中海周辺から西アジア一帯では
普段の暮しの一部分。

サントン(”小さな聖者=南仏の土人形)のロバさん。
荷台のかごにはトマトがいっぱい。


そんなロバさんが竪琴を弾く、
天空を巡る星々が奏でる沈黙の旋律
「宇宙の音楽 musica mundana」と
ひそやかに和して。

近代が終焉を迎えたいま
中世はふたたび若い息吹を取り戻し
猫たちのいまここを仄かな光で照らし
巡礼の旅へといざなう。

人の手の温もり残る
石の聖堂(みどう)が道しるべ
灌木と樹々の香りに包まれて
歩いて行こう、トコトコ
愛用の竪琴背負ったロバさんと
小さな声で歌いながら……。

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