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諏訪の町と製糸産業

諏訪の町は、多摩の山々をこえて山梨・長野方面にドライブに行く時に通る町だった。
絹のことを調べたり、登山をするようになってから、この町は通りすがりの町ではなく、目的地として訪れる場所となった。

夏、霧ヶ峰に登って、諏訪湖の方面を眺めると、湖面がきらきらと輝く湖を中心として穏やかに広がる街並みに、人の気配を感じてほっとする。そんな諏訪の町と生糸と蚕の物語を今回はお話していきたい。

諏訪の文脈マップ

諏訪の湖 天龍となる 釜口の 水しづかなり 絹のごとくに  
                            与謝野晶

山から水は降りて…まずは霧ヶ峰へ

コロボックルヒュッテではコーヒーとケーキが食べれるので、
神々のアフタヌーンティー気分を味わえる。


上の写真は、霧ヶ峰の登り口にある山小屋「コロボックルヒュッテ」から霧ヶ峰の方面を撮ったもの。霧ヶ峰という名前の通り湿気に富んだ山で、しんと冷え切った外気と霧の立ち込める様は静謐さそのもの。今はビーナスラインで簡単に車で上がって来れるけれど、その昔、この山の上で急に開けたこの場所まで徒歩で登った人々が、この地を天上の世界であると想像をはたらかせたのもわかる気がする。7月ごろにはニッコウキスゲが咲き乱れ、一面を華やかに彩る。

山岳信仰の場としては有名な霧ヶ峰、その山々の麓にある諏訪大社と霧ヶ峰は深い関わりがある。霧ヶ峰には、諏訪大社の奥宮社が置かれ、かつてはここで神事が行われたとされる。水の神を祀る諏訪大社は、清い豊富な水を地上へもたらす霧ヶ峰の山々を敬い畏れる人々の心に触れ、長くこの土地で大切に信仰されてきた。

この諏訪地域で古くから暮らしを支えてきた養蚕と製糸産業は、豊富な水源と純度の高い水を必要とする。ありがたい水を供給してくれる山々と、その山に住まう神々を信仰し、時には怒りを買わないように人々は、霧ヶ峰の環境を大切に育んできたきたはずだ。それが故に、この諏訪の製糸産業は、水神である諏訪大社への信仰と、それによって守られてきた資源があったがゆえに生まれた産業でもあったとも言えるのでは私は考えていたりする。

麓の村々と山をつなぐ…諏訪大社


長い冬の中で培われた養蚕と製糸

諏訪の町は盆地にあるので、夏は暑く、冬は寒い。夏の暑い時期に蚕を育て、その蚕が育んだ生糸を紡ぎ、冬の間に織物をする。野菜や食料も夏の間に育て、冬は農閑期となる。一毛作の土地の暮らしを支える副業的な仕事として、養蚕と生糸生産の技術は育まれていった。また、この養蚕農家が、生糸(商品)にしがたい繭を真綿にして紡ぎ、紬を織ったので諏訪周辺では、上田紬、松本紬、飯田紬など紬の産地として名を馳せるようになった。

現代では、手仕事としての織物というと暮らしを支える経済的柱、生業ではなく、余暇に行う趣味的な意味合いで捉えられることが多いが、かつての諏訪を始めとする信州のエリアでは、そんな生優しいことはいえない状態であったのだろう。信州や新潟の塩沢紬など、技巧的な織物、広く工芸的と言われる作品を産んだ町は、冬が厳しい土地が多い。その冬を乗り越えるために、その技術力を工芸的レベルまでに高めることが、暮らしと生に直結していたからかもしれないと、思われてならない。

片倉工業の創業と生糸産業の興り

片倉工業といえば、群馬県の富岡製糸場で有名だろうが、片倉工業(旧片倉組)の創業者である片倉市助は、ここ諏訪の岡谷で製糸業を創業した。日本屈指の生糸生産量を誇った同社の創業の歴史を伝える建築物として女工たちが労働の汗を流した「片倉温泉」が今も当時と同じ姿で存在している。また、当時の製糸産業を伝えるため「岡谷蚕糸博物館」が開設され、今も少量の生糸生産を続ける「宮坂製糸所」が併設され、実際の製糸工程が見学できるようになっている。

私が行った日も糸出しのデモストレーションをしていた。

諏訪の岡谷では、かつて片倉組だけでなく多くの製糸工場が軒を連ねていた。近郊の村々から集まられた女性たちがここで女工として働いた。休暇の日には、この諏訪のまちを出歩き、それはそれは賑やかだったようだ。記念館に飾られている当時の写真を見ると、その賑やかさが伺い知れる。ただ、彼女たちの聞き書きを辿ると、その暮らしは楽しい事ばかりではなく、境遇の厳しさを知ることになる。

当時の貧しい山がちな農村地域の状況と、この国の経済重視の政策が彼女たちを工場へ駆り立て、工場へと囲い込んだ。そして彼女たちが作った生糸はその後、甲州街道を通り、横浜の港から海の彼方へ運び出されていく。彼女たちの存在とその苦労は、その海の向こうでそのシルクを纏う人々に伝わっていただろうだろうか。おそらく、彼女たちの手がけたシルクの多くは、どこの誰が紡いだのか、知られることもなく遠くへ遠くへ運ばれていったのではないだろうか。

20世紀に入ると、生産の場は朝鮮、そして中国大陸へと移っていく。それと同時に、諏訪の町からは生糸工場が消えていった。

現代においては、バングラディシュなどの国々で近郊の農村から集められた女性たちが工場で働いている。まるで、かつて諏訪に女工たちが集められたように。彼女たちの中には「技能実習生」として海を超えてまた日本に働きに来ている人々もいる。

どこかで女工哀史が歴史の一部になったころ、またどこかで女工哀史が生まれる。この労働と搾取の連鎖は今も続いている。

諏訪の工場は今も閉ざされ、静まり返っている。

諏訪を起点に始まる、日本のシルクロードを辿る旅

個人的な諏訪との思い出をここに書くと、フィンランド留学から帰国した夏、家族とドライブに出かけた時、最初に車を降り立ったのは諏訪大社だった。千葉の実家を出て、八王子から甲州街道を通り、諏訪に立ち寄った後は中山道を岐阜方面に抜けて、奈良井宿から飛騨高山へ抜けていった。今、改めて考えるとこの時辿った街道は、かつては製糸が運ばれ、女工が歩いた日本のシルクロードだったようだ。この記事を挟んでいる「私的妄想シルクロード」というマガジンで、このシルクロードについて少しずつ書いていきたいと思っている(甲州街道も歩いてみたいという夢がある)

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