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坂東八平氏 坂東武者の存在

本記事では、後北条氏が相模国から関東へ勇躍した背景を「坂東」という地域特性から少し考えてみたいと思います。


後北条氏の始祖・伊勢盛時(一般認知は北条早雲、出家後は早雲庵宗瑞)は、室町末期に伊豆国・相模国に所領を得たばかりで、関東管領の上杉氏や坂東で代々所領を守ってきた諸勢力からすれば、いわば「新参者」「余所者」「侵入者」です。
伊豆から勢力を伸ばして相模国西部の大森氏を攻略し、小田原城は後北条氏の居城となりました。そういう意味で小田原城は、後北条氏にとって「始まりの城」であり、「終わりの城」でもあります。

【結論】
今川氏の客将であった初代・早雲、今川氏と同盟者となった二代・氏綱によって西からの脅威は無く、相模国を中心とした関東支配の方向性が決まったように思います。
三代・氏康以降も、山内・扇谷の両上杉氏や坂東八平氏・坂東武者といわれる名族の勢力が強く、武蔵国や下総国など坂東の中心部に本拠を移すことは難しかったのでしょう。
この逆作用によって「間接統治」「支城ネットワーク」など、後北条氏の繁栄を支える領国経営策が生まれたともいえます。


ただ、明治以降に残っていた小田原城の建物・石垣は、残念ながら関東大震災(1923)で全壊してしまったため、現在の美しい小田原城は1934年以降に復元されました。



■相模国の特長(ウィキ要約)

(1)相模国の主なエリア
・相武国造(さがむ:相模川流域、県中央部)
・師長国造(しなが:酒匂川流域、中村川流域、県西部)
・鎌倉別(かまくらわけ:鎌倉地域、三浦地域)


小田原は、(1)の酒匂川流域になるので師長国造のエリアにあたります。
国名の語源は諸説あり、古代の身狭上(むさがみ)や佐斯上(さしがみ)が由来とする説などがあるようです。

源頼朝が鎌倉を本拠地として以来、武士の聖地=鎌倉、相模国=鎌倉幕府という認知が全国に知れわたりました。
その後、北条義時が実権を握り、北条氏による執権が相模守となり、副執権である連署が武蔵守に任官される体制が続きました。

(2)地域分割
相模国は9つの郡に分かれます。

【足柄上・足柄下・餘綾・大住・愛甲・津久井・高座・鎌倉・御浦】

後北条氏の治世においては、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)に分けて統治されていたようです。


1333年に鎌倉幕府の執権・北条氏は一族郎党ともに滅亡します。後醍醐天皇・足利尊氏を中心とする建武の新政後に「鎌倉将軍府」、室町時代には「鎌倉府」が置かれ、長らく関東の政治の中心は「相模国(鎌倉)」でした。
1428年の「永享の乱」によって「鎌倉府」は下総国の古河へ移り、相模国は政治の中心の座から外れてしまいます。

室町時代後期から戦国時代に後北条氏が小田原城を本拠地として関東に勢力を広げ、1590年の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となったのです。

(3)主な国人
鎌倉時代初期の頃、佐伯経範が秦野に移り住んで波多野氏を名乗りました。
その後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが興こりました。

足柄上郡:松田氏(後北条氏の重臣)、大友氏
足柄下郡:大森氏(小田原城の旧主)、曾我氏 ※風間氏もあったとされる説あり

■小田原の特長(ウィキ要約)


小田原市サイトより引用


①古代
小田原の「中里遺跡」は、先史時代における大規模な集落跡です。縄文人と渡来人が共存共栄した痕跡があり、大変貴重であり、
暮らしやすい立地だったという証拠の一つと考えられます。
地名について古い記録では「こゆるぎ(小由留木)」といい、のちに「小田原」という地名として定着したという説があるようです。



ブラタモリ⑤より
・小田原には「東京軽石層」という地層が広がっており、小田原城はその地層から成る尾根の上に建てられた
※ということは八幡山付近に最初の城郭があったと考えられるので、初期の小田原城は山城だった?

・「東京軽石層」は約6万6,000年前に箱根火山の噴火で形成されたもの

・小田原合戦前に完成した「総構」の土塁にも利用された「関東ローム層(粘土質)」の地層もある

・「関東ローム層」とは、約1万0,000年前から関東地方の西側(富士山・箱根山・愛鷹山など)と北側(浅間山・榛名山・赤城山・男体山など)の諸火山の噴火後に関東平野に堆積したもの


②中世
先述の波多野氏は一族の居館として「田原」に波多野城を築き、その支城として「小田原」が設置されたという説もあるそうです。
平安時代末期、小田原の南西を流れる酒匂川のほとりで源頼朝と平家方において「石橋山の戦い」が行われました。(小田原にもいずれかの武将の陣がおかれていたかも?)

③戦国時代
関東では「永享の乱(1438~1439)」「享徳の乱(1455~1483)」などの騒乱が相次ぎ、いよいよ室町幕府の統治の及ばない状態となりました。
すなわち古河公方(足利氏)、関東管領・上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏などの諸氏による群雄割拠の時代です。


小田原城は後北条氏の二代当主・氏綱から五代当主・氏直までの約100年の間、関東王国の中心地として発展した栄光の歴史があります。
※小田原城は早雲が攻略しましたが、早雲自身は伊豆の韮山城にいることが多かったそうです

小田原征伐の後、後北条氏は大阪・狭山に移封され、小田原は江戸時代に徳川譜代の諸藩や幕府領・旗本領として「小田原藩」が置かれることになりました。
やはり、江戸城や関東の「西の守り」としては箱根・小田原などが重要であるという認識だったのでしょうね。陸路だけでなく、相模湾・東京湾など東海地域における水路の要衝(良港)でもあります。

■武士の源流(ウィキ要約)

武士の興りは、第50代桓武天皇・第52代嵯峨天皇の皇統よりそれぞれ分派した平氏・源氏からです。その後、平安時代の「滝口の武者(9世紀頃)」「北面の武士(11世紀頃)」「西面の武士(13世紀頃)」を経て、「京武者」「軍事貴族」となっていた流れがあります。
同時に在京ではない平氏・源氏から分派した庶氏が地方で「在地領主」および「荘園管理者」として着実に力を持ちます。


■坂東八平氏(ウィキ要約)


「坂東」とは、関東地方の古称です。もともとは大和朝廷のあった畿内から東側は「東国」と呼ばれ、さらに足柄峠・碓氷峠などの山(坂)より東側が「坂東」とされました。

「平氏」とは、高望王(桓武天皇の子)の系譜を引くと称する一族です。9世紀末に上総介として下向して土着し、坂東の豪族となり「桓武平氏」と呼ばれます。

『太平記』などの軍記物に「坂東八平氏」と「武蔵七党」が併記され、『貞丈雑記』などでは上総、千葉、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の「八氏」があげられています。
なお、『貞丈雑記』の八氏は、高望王の子のうち、誰の子孫であるか諸説があり、平氏系図に混乱があるため確証がないのが現状のようです。

のちに源頼朝を支えて鎌倉幕府・執権となる北条時政は、高望王から5代目にあたる平直方(生没不明)の末裔(坂東平氏の嫡流)とされます。
佐竹氏・佐々木氏など源氏に縁の深い豪族も坂東にはいましたが、その後の北条氏による鎌倉幕府(得宗体制)、ひいては後北条氏の坂東支配も受け入れたのは、父祖より代々血涙を注いできた「土地」を守ろうしたからではないでしょうか。「一所懸命」の誇りを感じます。

後北条氏の領国経営の特長の一つに「衆」があります。これは支配エリアを「家臣団」としてまとめる軍制です。「小田原衆」「伊豆衆」「玉縄衆」などの一門の直轄領、「松山衆」「滝山衆」「鉢形衆」など元の領主の名跡を継がせる間接統治でもありました。

二代当主・氏綱の頃に武蔵半国、駿河・下総の一部を攻略し、三代当主・氏康はいよいよ関東中心部への進出を強めます。
先述の「坂東八平氏」のうち相模に拠した大庭氏・三浦氏は既に無く、秩父氏一族(武蔵)・上総氏一族(上総)・千葉氏一族(下総)・長尾氏(武蔵・越後)が残ります。
長尾氏は関東管領・上杉氏の家臣でもありましたので、山内・扇谷の両上杉氏との対立は避けられないものととなりました。

相模を安定させるには小田原城からみて北西の古河公方(足利氏)や北に位置する関東管領・上杉氏と対抗する必要があります。そのためにも、「坂東八平氏」を糾合することは、同時に相模の外縁部にあたる武蔵・下総などに領地(防衛拠点・緩衝地帯)ならびに領民(徴兵・労役・税収)を得られることになります。これは二代当主・氏綱に課せられた「使命」だったのではないでしょうか。

■坂東武者(ウィキ要約)

「坂東八平氏」とならび、平安時代末期から室町時代初期に武蔵国を中心に分布していた中小武士団を「武蔵七党」と称されます。
丹治、私市、児玉、猪俣、日奉、横山、村山の七つの「党(同族的武士団)」をさすことが定説で、「坂東武者」とも呼ばれます。

9世紀末から10世紀にかけての東国は、群盗があふれ、商業運送に携わる人々の反乱が相次ぎ、馬を自由に乗りこなす人々が現れていたと記録されています。
彼らは、朝廷に献上する馬を飼育・管理する「牧」の管理者でもありました。主な牧場は秩父牧、小野牧、阿久原牧などです。「騎馬武者」のイメージはここからきているのかも知れませんね。

10世紀なかば、朝廷は、これら有力者を群盗に備える「軍事組織」としても整備していきました。彼らは現地で田畑開墾を進め、「在地領主」として次第に専業武士となっていきました。
鎌倉時代の初めに源頼朝に従った中小武士団は、ほとんどが武蔵国の独立武士団で、これがのちの「坂東武者」の原形と考えられます。
独立武士団を束ねる在地領主は、鎌倉幕府成立後、御家人や北条氏の御内人となる者もいました。



坂東のあった関東平野は日本最大の面積ですが河川や湿地が多く、実際の耕地面積は少なかったはずです。独立武士でもある「在地領主」を完全に従えるのは難しく、坂東に直轄地が少ない守護や大名などの為政者は、苦慮したと思います。そこで書面などを交わして「在地領主」を束ねる「盟主」のようなポジションで支配せざるを得なかったのではないかと想像します。

ちなみに後北条氏の始祖・伊勢盛時(伊勢家)は、「伊勢平氏」に由来しているといわれます。二代当主・氏綱以降の発給文書にも「平●●」と署名している記録もあります。坂東においては「平氏ブランド」は何かと都合が良かったのかも知れませんね。

三代当主・氏康(1515~1571)の頃に上野・上総の一部、下総半国、武蔵も平定しました。
実質的に「坂東武者(武蔵七党)」の盟主になったことになります。また、「河越夜戦」(日本三大夜戦の一つ)で勝利したことで武士の名声を高め、強者揃いの坂東における地位を固めたことになります。
この頃、今川氏・武田氏との関係は拮抗しており、小田原城にとっての脅威は相模・武蔵の外縁部にあり、それらの脅威から空間的にも守られていたともいえます。
しかし、1550年以降は織田氏・徳川氏・豊臣氏が急成長して西からの脅威が迫ります。その前に坂東の中心部(武蔵・下総)を抑えていたのは、後北条氏にとって大きな財産になったと考えられます。


■関東八屋形(ウィキより要約)


関東八屋形(かんとうはちやかた)は、室町時代の関東において、第三代鎌倉公方・足利満兼が就任するに際し、公方を補佐する関東管領・上杉朝宗の提案による「屋形号」を称する事が許された有力大名をさします。

具体的には、以下の大名が八家となります。
【宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏】

いずれも旧来の名族であり、これら八家は鎌倉公方を支える守護を出す家柄として定められ、自家の領土内における強力な支配権も与えられました。
後に関東八屋形の支配権は鎌倉公方の介入も容易には許さないほどになり、関東騒乱の要因となったと想像します。
この騒乱の隙をついて後北条氏が関東に勢力を拡大する中で、扇谷上杉氏・山内上杉氏と衝突や同盟を繰り返しながら支配体制を構築していくのです。


なかば搾取されていた坂東領民からすれば、「治安維持」と「土地・利水保証」をしてくれれば、領主は関東管領上杉氏や旧来名族でも国人でも、誰でもいいわけですよね。
むしろ色んな利権が絡んで課税が増え、長引く戦乱と自然災害で疲弊していたのが実態ではないでしょうか。

こういった背景の中、「貧民救済」と「軽減税率」で「領民ファースト」を掲げる後北条氏は、新領地を家臣団(衆)に取り込みながら坂東一円に勢力を拡大します。さらに「支城ネットワーク」を構築して防衛力を高めるなど、安定した領地経営ができたことは容易に想像できます。

四代当主・氏政(1538~1590)の頃に下野・常陸の一部、上総半国、下総も平定しました。官位としての武蔵守・相模守はありませんでしたが、実質的に「坂東覇者」の地位を確立したことになります。
関東八屋形の名族は武蔵・下総の外縁部にて割拠しており、これらを糾合したことで坂東の守りは完成に近づき、小田原城を中心とする支城ネットワークも構築されました。越後・甲斐・駿河からは山脈にも守られ、北の伊達氏など東北からの南下勢力も無い状況でした。
しかし、時代は織田氏を引き継いだ豊臣氏が動かしていました。豊臣秀吉は朝廷をはじめ近畿・北陸・東海を掌握し、ついに「小田原合戦」(1590)にて小田原城は終焉を迎えるのです。。。

後北条氏が没したのち、坂東は「関東」「関八州」として徳川家康が支配することになります。後北条氏の領地・領民がそのまま「徳川幕府」の基盤になったといっても過言ではありません。
また、江戸城ではなく小田原城が徳川氏の本拠だった場合、地名による時代呼称でいけば、【鎌倉→室町→安土・桃山→小田原】となっていた可能性もあったのではないでしょうか(笑)


関東の特殊性について、こちらの記事もお時間あればご覧ください☆


■二代当主・氏綱が「酒吞童子絵巻」の製作を指示した意味

(1)伝承の経緯

「酒呑童子」のお伽話を「絵巻」または「絵詞」にした資料は複数現存しています。歴史の教科書でも狩野派の作品の一つとして取り上げられています。

そのうち、「サントリー本」として現在はサントリー美術館に収蔵されている「酒天童子絵巻(三巻)」があります。

これは、後北条氏が所蔵していたもので、五代当主・氏直が豊臣秀吉に処断された際、氏直から離縁された督姫(徳川家康の娘)に預けられました。
のちに督姫が池田輝政のもとへ再嫁する際に持参し、因州池田家(鳥取藩)に伝来したのです。

(2)酒天童子絵巻とは

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/data/detail?id=626

デジタルアーカイブとして閲覧できます。

サイトより
(上巻)縦33.1cm 全長1751.4cm 
(中巻)縦33.1cm 全長2098.7cm 
(下巻)縦33.1cm 全長2789.1cm

・源頼光と家来の四天王が鬼神・酒天童子を退治する物語を描く。
・「小田原北条氏」の二代目・氏綱の発注によるもので、狩野派の二代目・狩野元信とその弟子が絵を製作し、豪華な描写が目を引く。
・酒呑童子の棲家は「丹波大江山」、「近江伊吹山」の二系統に分かれ、サントリー本は「伊吹山系」のなかで現存最古される。

兵庫県立歴史博物館
デジタルアーカイブとして閲覧できます。



(3)登場人物と「坂東」の関係性

「酒吞童子絵巻」のベースとなった『大江山絵詞』で描かれるのは、①源頼光と家来の②四天王(平貞道・平季武・坂田公時・渡辺綱)が鬼神・酒天童子を退治する物語です。

①源頼光(948~1021)
頼光は藤原道長(966~1028)と時代を同じくする平安時代中期に活躍した「京武者」「軍事貴族」であり、源氏三代(摂津源氏)の棟梁です。
頼光は道長に仕えて京で名声を高め、弟・頼信(968~1048)が上野介として上野国などで活躍しました。中でも有名なのは甲斐守在任時に「平忠常の乱」(1031))を鎮圧したことです。
また乱の後、坂東武者(平氏、秀郷流藤原氏など)は源氏と主従関係を強めていく中で、頼信の嫡男・頼義(988~1075)平直方(生没不明 高望王から5代目)の娘と婚姻します。直方は坂東平氏の嫡流であり、のちに北条氏・熊谷氏らの先祖になったといわれます。

②頼光四天王
『今昔物語集(1120年代以降の成立)』において、渡辺綱を除く三名(平貞光・平季武・坂田公時)は、「東(=坂東)」で活躍していたことが評価され、源頼光を警護する郎党に採用されたそうです。
これは、暗に三名(平貞光・平季武・坂田公時)が坂東の「兵(つわもの)」である事を示します。

平貞光(碓井貞光 954~1021)は生まれが相模国碓氷峠付近とされ、のちに三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったといわれます。

平季武(坂上季武 950~1022)は坂上田村麻呂を祖とする坂上一族とされます。坂上田村麻呂は桓武天皇(平氏の祖)の忠臣であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めた「武士の祖」でもあります。

坂田公時(956?~1012?)は生まれが駿河国と相模国の国境である足柄峠とされ、20歳の頃に頼光の家来となった際、「坂田金時」と改名したといわれます。「金太郎」のモデルになった人物でもあります。

また、渡辺綱(953~1025)は武蔵国で生まれ、父は武蔵権介だった源宛です。 綱が生まれた時に宛は他界していたため、母方の縁で摂津国西成郡渡辺で育ち、渡辺綱と称します。のちの渡辺氏の先祖になったといわれます。


(4)「酒吞童子絵巻」の意味



「酒吞童子絵巻」は、後北条氏の二代当主・氏綱の発注によって1522年頃に狩野派の作品として生まれました。
なぜ氏綱は「酒吞童子絵巻」を作らせたのでしょうか?


小田原市サイトより引用

1つ目は、氏綱が鶴岡八幡宮をはじめ、寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿・相模六所宮・伊豆山権現などの再建といった寺社造営事業を盛んに行って「文化興隆」に力をいれていました。これらは、武家の聖地たる鎌倉の荒廃を憂いていた早雲の悲願でもあったようです。
また再建にあたっては、高僧・工匠・商人など著名な文化人との打合せや交流もあったと思われるので、「酒吞童子絵巻」を披露して芸術話に花を咲かせていたのかも知れません。そして、後北条氏の「文化性の高さ」をアピールしたかったのではないでしょうか。

2つ目は、相模を安定させるためにも「坂東八平氏」(武蔵・上総・下総)を糾合することが氏綱の使命だったと考えると、「支配力」に「名声」を追いつかせるため、「平氏嫡流」をアピールする必要がありました。
「酒吞童子絵巻」は、平安の御伽噺から源平が「坂東」を治めたことを思い出させ、兵(つわもの)としての「平氏」を語らせるのに最も適していたのではないでしょうか。また、それを所有していることで「平氏嫡流」を暗示できるわけです。このように、氏綱は後北条氏の「正統性」を示したかったのではないでしょうか。
上図の年表にもあるように、氏綱は1541年に没しますが、この頃には戦国大名の代表格である今川義元・武田信玄・上杉謙信は青年期を迎えています。三代・氏康は彼らと刃を交えることになります。



※1522年の主な出来事
 ・将軍・足利義晴が25年ぶりに官職を任命する儀式を開催
 ・連歌師・宗長が伊勢神宮で連歌会を開催
 ・伊達植宗が陸奥守護に就任
 ・琉球の尚真王をたたえる記念碑完成

先述のとおり、後北条氏の始祖・伊勢盛時(早雲)は、「伊勢平氏」に由来しているといわれます。
伊勢平氏の家系は高望王から三代目にあたる平維衡(生没不明)の末裔とされます。維衡は、藤原道長のもとで活躍して源頼信らとともに「道長四天王」に数えられ、伊勢国に地盤を築いた人物です。

源頼朝を支えた鎌倉幕府執権・北条氏は、高望王から五代目にあたる平直方(生没不明)の末裔(坂東平氏の嫡流)とされます。
ちなみに氏綱の正室である養珠院(名称・生誕不明 1528没)は横井氏の出身です。横井氏は、鎌倉幕府14代執権・北条高時(1304〜1333 北条氏の嫡流、最後の得宗)遺児・時行(1325~1353)の末裔といわれます。
この高時が、少年ジャンプで連載されているマンガ『逃げ上手の若君』の主人公であり、「中先代の乱」(1335)の当事者です。時行の通称は「相模次郎」だったそうなので、やはり「北条氏=相模」の認識は強かったのでしょうね。


秦野裕介氏(ラボール学園歴史講師、研究者、作家)の見解まとめ
二代・氏綱の功績は大きい。永正15年(1518年)、早雲より家督を継ぎ、「虎の印判状(禄寿応穏の印)」を用いるようになった。この印判状のない徴収は無効とし、郡代・代官による領民の搾取を抑止する体制(後北条氏による直接統治)が整えられた。
後北条氏より以前に守護大名などが領民に文書を発給した記録はまだ無いため、戦国大名による領民の直接支配が始まったともいえる。

また、天文7年(1538年)6月、「第一次国府台合戦」にて小弓公方・足利義明を敗り、下総への足掛りを得た。古河公方・足利晴氏とはすでに同盟関係にあり、合戦の勝利によって二代・氏綱は「関東管領」に補任された。
関東管領補任は幕府の権限であり、先の関東管領である山内上杉・憲政が存在していたが、後北条氏は古河公方・晴氏を奉ずることで東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる。
更に天文8年(1539年)に二代・氏綱は娘(芳春院)を古河公方・晴氏に嫁がせたことで、足利氏の「御一家」の身分も与えられた。
これにより山内上杉氏は、長尾景虎(のち上杉謙信)に上杉氏の名跡を譲り、関東管領の奪回を託した。同時に長尾景虎は関東出兵・小田原城攻めを運命付けられたのである。

【結論】
今川氏の客将であった初代・早雲、今川氏と同盟者となった二代・氏綱によって西からの脅威は無く、相模国を中心とした関東支配の方向性が決まったように思います。
三代・氏康以降も、山内・扇谷の両上杉氏や坂東八平氏・坂東武者といわれる名族の勢力が強く、武蔵国や下総国など坂東の中心部に本拠を移すことは難しかったのでしょう。
この逆作用によって「間接統治」「支城ネットワーク」など、後北条氏の繁栄を支える領国経営策が生まれたともいえます。



本記事の投稿により、30ヶ月連続投稿となりました〜(^o^)vイエーイ


参考になったnoterさんの記事















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トップ画面のイラストは、AKISENさんの作品です♫


#つぶやき #小田原城 #後北条氏 #関東 #坂東

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