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Linda McCartney「Wild Prairie」

リンダ・ルイーズ・イーストマンは1941年、ニューヨークに生まれる。父親はロシア系ユダヤ人にして弁護士、母親は服飾業を営むという経済的に恵まれた「お嬢様」環境。4歳の誕生日には父親であるリーが音楽出版関係の仕事をしていた縁を使い、バディ・クラークに娘への曲を作ってもらう(後にジャン・アンド・ディーンもカバー)。

https://youtu.be/SAvMqIU1QZU

そんな「お嬢様」は、家族で乗馬を嗜む環境で育ちつつも、ロックンロールに魅了される好奇心旺盛な子どもとして育つ。学生時代には妊娠をキッカケに学生結婚、しかし1年持たずに離婚。次の恋人がカメラマンだったことからカメラに魅了され、大好きだったロックンロールミュージシャンを撮るフォトグラファーの道に進む。

"Mother's Little Helper"のリリース記念パーティーに潜入し、撮ったブライアン・ジョーンズの写真が、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの目に止まる。エプスタインはジョーンズの写真を買い取り、ビートルズの新作パーティーに招く。

新作パーティーの数日前、リンダはアニマルズの面々とロンドンはバックオネイルズクラブに足を運ぶ。そこに居合わせたポール・マッカートニーが一目惚れし、リンダを口説く。数日後、ブライアンに招かれた「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の発表パーティーで初めてリンダはビートルズの写真に収め、その後解散までアビーロードスタジオでビートルズを撮り続ける。解散直前には名前がイーストマンからマッカートニーに変わる。

ビートルズ解散後は公私共にパートナーとして必ず2人は行動を共にする。自宅もスタジオも、ステージも。元々はフォトグラファー。音楽の素養は皆無。たどたどしい鍵盤の運指、定まらないコーラスの音程に対し、評論家や同業者、時にバンドメンバーからも厳しい言葉が浴びせられる。しかしポールはリンダをパートナーに据えることを止めることはなかった。

「彼女の声が大好きなんだ。僕の声にも合うしね。」

リンダとポールは共に作る音楽はもちろん、聴く音楽も共有した。リンダはレゲエに魅せられ、ポールにもレゲエを教える。ポールのキャリアに時々オフビートが繰り出されるのはリンダへのサービスでもあった。

同時にポールはリンダの歌を据えたレコーディングを断続的に行う。1970年代からウイングスはもちろん、リー・ペリーによるプロデュース作まで。しかしポールはプロデューサーとして、リンダ単体での歌は変名(スージー・アンド・レッド・ストライプス)でのリリースと、ウイングスでの1曲に止める。自身の歌へのコーラスとして機能することと、単体でのそれは別とジャッジしていたのだろう。そしてリンダ自身がミュージシャンとしての野心を持たなかったこともまたその理由だと思われる。

しかし、その現実的なジャッジを覆す事態が起こる。リンダは乳癌に蝕まれ、一時は手術で持ち直したものの、肝臓への転移が発覚する。残された時間を勘案し、1998年3月18日、ポールとリンダは息子のジェームスも参加させたレコーディングを行う。タイトルは英語俳句を趣味にしていたリンダらしいフレーズが据えられる。

The Light Comes From Within
https://youtu.be/LXHF56KWn4A

1998年4月18日、ポールと4人の子どもたちはリンダに最期の感謝の気持ちを伝える。

"最後に私はこう言いました。
「君はあの美しいアパルーサ馬に乗っているんだよ。素敵な春の日だ。僕ら、森の中を馬に乗ってかけてるんだよ。ヒヤシンスは咲き乱れているし、空も澄み切って青い。」
私がまだ言い終えないうちに、彼女は目を閉じ、そっと去って行きました。"
(バリー・マイルズ「ポール・マッカートニー/メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」)

ポールは失意の中、録り貯めた音源をまとめていく。ジャケットにはポールが写したリンダの写真を据え、ウイングス時代の楽曲やスージー・アンド・レッド・ストライプス名義の曲も含めた16曲がセレクトされる。レゲエやオールドタイミーなロックンロールをこよなく愛したリンダらしい楽曲が並ぶ中、"Love's Full Glory"のような明らかにポールの手が入ったと思われる質の高い楽曲も顔を覗かせる。

そしてアルバムを締める曲は、ポールがリンダに最期に伝えた言葉を示す楽曲がポップな響きで鳴らされる。リンダはアパルーサに跨り、翼を広げて飛び立った。

Appaloosa
https://youtu.be/nMztYweZbs4



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