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ディランを楽しむ5枚 2枚目

「ブラッド・オン・ザ・トラックス」(1975)

音楽が個人の表現である以上、個々の表現には大なり小なりプライベートが反映される。ポップソングはその傾向が強い。ポップソングがポップソングとして成立する主たる要因がシンパシーなのだからある種当然といえば当然ではある。

ジョン・レノンとヨーコ・オノの関係は様々なストレスとジョンの浮気により1972年以降冷え込んでいく。1973年10月、ヨーコはジョンとの別居を決意、ジョンはLAに追放される。この間、いわゆる「ロスト・ウイークエンド」と呼ばれる時期、ジョンは別居前にほぼヨーコ不参加で「マインド・ゲームス」を、ヨーコ完全不在の中で「ウォールズ・アンド・ブリッジズ」「ロックン・ロール」という3枚のアルバムを制作する。ジョンは確かにヨーコを「ロスト」したわけではあるが、その「ロスト」が表現への渇望を呼び、音楽家、ポップソングライターとしての力量、本気を取り戻しており、「ウォールズ・アンド・ブリッジズ」というソロキャリアにおいての屈指の名作の誕生という結果をもたらしている。そして1974年の再会、ショーンの誕生を経て満たされたジョンは音楽を必要としなくなり、子育てに入る。

ディランにはサラというパートナーがいた。二人の間には4人の子供がおり、のちにミュージシャンとなるジェイコブの誕生に際し”Forever Young”を作る子煩悩さを見せる。しかし、ディランの浮気によりサラとの関係が急速に悪化したのが1974年あたりからとされる。

この「ブラッド・オン・ザ・トラックス」はまさにその時期のレコーディングに当たる。ザ・バンドとのツアーを終え、当初はマイク・ブルームフィールドを招いたレコーディングを行うも、「なんも教えてくれないままに勝手にギターを弾いて歌うディランに付いていく、という奇妙なセッションでね。キーも同じ、延々と同じような曲を何曲も。で、覚えられないからディランが呆れてしまってさ」というマイクは当然解雇。更に別バンドを招いたものの同様な理由で解雇。まさにミックスド・コンフュージョンな状況下で、それでも(例により)短期間で録音を済ませたものの、弟に「これ、売れないと思う」と言われた瞬間、発売をキャンセル。弟の人脈で集めたバンドで再録音を行い、最終的にこの1枚となる。発売された後のディラン「オーバーダブとかやりたくなかった」。嘘をつけ。斯様にディランの発言は信じてはならない。

上記のように完成に至るまでの混乱は、作品そのものの完成形にも大きく影響する。「ブートレグシリーズⅠ〜Ⅲ」によって蔵出しされた「売れない」と断じられたテイクのささくれ立ちは、おそらく粗雑な録音だけの影響ではない。妻を失いかねない危機に立ったディランは、録音初期、明らかに苛立ちをぶつけている。殆どが逆ギレといえるそれは、リテイクによって悔恨の念として録音し直される。ジョン・レノンは逆ギレと許しの懇願と惜別の言葉を全て並べたが、ディランは逆ギレを悔恨に置き換え、一枚のアルバムを惜別のレターに変える。

If you get close to her, kiss her once for me
Always have respected her for doing what she did and gettin' free
Oh whatever makes her happy, I won't stand in the way
Though the bitter taste still lingers on from the night I tried to make her stay
("If you see her say hello")

77年、ディランとサラは離婚。

さて、このアルバムを2枚目に置くのは理由がある。上記のような混乱した状況ながら、ディランが真面目に録音をやり直した結果、上質なものに変わっていること(実はとても珍しい)。曲が全曲メロディアスであり、他人のカバーを介さないでもディランが素晴らしい作曲家であることが一発で理解出来ること。そして何かと気難しいとされ、よく分からない神格化をされがちなディランも、パートナーに振られたらメソメソ泣く、どこにでもいるヘボいおっさんであることが分かるところである。作曲家ディラン、メソメソ泣くディラン。ディランを聴く上で欠かせない要素が詰まっているこの作品は、カッコいいディラン(「ハード・レイン」)を経た後に聴くことで、感動が倍加する。



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