周防大島での日々4月2、3日

わたしたちが上陸し、数日を過ごすことにななったここ屋代島は瀬戸内海の西に浮かぶ大きな島、古代から大島と呼ばれていたらしく、周防国の大島ということで、昔から通称 周防大島とよばれることが多く今も周防大島と言ったほううが知名度はあるし町の名前は周防大島町と呼ばれている

九州や四国に近いけどまだ本州の一部で山口県の一部なのだ

瀬戸内海の島で淡路島、小豆島についで3番目に大きな島で、金魚のような形をしているから金魚島とよばれることもあるらしい

縄文時代や弥生時代の遺跡もあり、万葉集や日本書紀にも登場するので、古代から海の交通の拠点だったのだろう、半島や浦や津や入江や砂浜が多く、舟を停泊する場所には困らなかったからだろう

わたしたちが昨日3人で漕いだとき、途中にはたくさんの砂浜があったので、万一疲れたり荒れて漕げなくなったときに避難できる浜があるので何も不安なく3人だけで航海することができたのだった

すこし前置きがながくなったけども、

昨日4月1日ここ周防大島を半周するようにして島の南海岸にある大きな片添ヶ浜にわたしたちは上陸した

4月になった途端に急に人がいなくなってしまい、この日この砂浜に隣接するキャンプ場のロッジを一部屋だけ借りてアンクル含めて4人だけで宿泊した

このキャンプ場の係の若い男性がアロハで、彼の存在もこのキャンプ場に4日間も宿泊した理由でもある、彼は仕事の合間に体験でヴァアも漕ぎに来てくれてkokuaまでしていってくれたちょーナイスガイだ、

江田島でお世話になった ”だんだん”といい、kokuaで貸し切りで宿泊をさせてくれた平戸ゲストハウスkotonohaさんといい来年も必ず泊まりたい宿だ

歩いていけるところに温泉もあり、明日は雨の予報もあるということでわたしたちはこの場所に数日間ステイすることになる、一番の理由はアンクルとわたしがともにこの場所というかこの島を気に入ったことが理由だ、

こんな感じで古代の舟で旅をしていた海人たちも、それこそ遣隋使や遣唐使で中国や朝鮮や東南アジア地域、アメリカやハワイに向けて旅をする帆船も、風待ち、潮待ちでこの島に立ち寄り、数日どころか数ヶ月滞在し、その高貴な人たちが島の女性と出会い、たくさんの種を落としていったのだろう、そんなことを勝手に想像していた
事実このあとわたしたちが訪れる西日本の大陸に近い島々にはそういう伝説が数え切れないほどに残っている
事実わたしの母方のルーツがある平戸や生月の祖先は源平合戦で敗れた平家の落ち武者という話しと同じくらいに、風待ち潮待ちで訪れた奈良や京都のみやびな人たちがご先祖さまだったりする
そういう話はやまほどあるのだ

港、港に女がいる、という昭和のころまでの船乗りの自慢話を思い出した

ニイハウ島出身でカウアイ島で幼少期を過ごしマウイの星とよばれるまでになったサモア系のポリネシア人で76歳 アンクルKimokeoと航海しているのだけど

世界中の島や砂浜を知り、Honu (海亀)をアウマクア(日本語で守り神みたいなもの)とするアンクルもこの島を気に入り、ここにainaを欲しいと何度か口にしていた、ainaとは一般的には大地とか地球のことだけど、ここでは土地のことだ、不動産物件だ


このままアンクルも数ヶ月滞在したていたらきっと種をおとしていただろう

とにかく日本列島の島々には、世界中いろんなところから航海していろんな海洋民族がやってきている、そういう人たちがわたしたちの祖先なのだクプナなのだ、だから日本人のDNAは類をみないほどに特殊なのだという人類学者もいる

この日は風がつよかったけども、ちょうどわたしたちが上陸した浜は風がかわせるので急遽マラマホヌア交流会をやることにした

マラマホヌア交流会とはビーチクリーンをしながらヴァアの体験をすること

昨日Pilialohaで漕いでる途中に、宮島の赤鳥居の横で偶然出会った渡し船体験の兄さんから教えてもらったこの島の人に電話してその人が予約してくれてこのキャンプ場のロッジに宿泊することに急遽なったほど、
これから先もほとんどの宿は当日数時間まえに予約をして宿泊している

マラマホヌア交流会をやることも昨日の夜に決まったこと、

もちろん事前の告知もなし、知り合いもいない、誰もこないだろうと思っていたけども、
島の情報網はさすがで、数人の子供たちと大人たちが遊びにきてくれた、
今回のボヤージングはまさに導きで動いていると感じる

事前に言ってくればよかったのに、とか

教えてくれたらよかったのに、

という声も聞こえるけど

愛と祈りの航海というのは、そういうもの、

それでいいとわたしはおもうのだ、

目に見えない自然界や天界と共鳴しながらやることなのだから

そのマナともいいエネルギーというかその周波数にあった土地や人とつながり、導かれてすすむものなのだ、

わたしたちが語りかけ、呼びかける相手は、

時空をこえて祖先の魂や

先祖の霊や

地球という生命体そのものなのだから

古代から長い悠久のときを
人はそういう目に見えない存在を大切に意識しながら生き旅をつづけていたのだから

人間の脳やデジタル世界が計算するつまらない計算や
欲や計画や下調べや、
それこそ周知や根回しはまったく必要ない、

そういうものは結局は大切なピュアな心や魂を曇らせることになる

このアロハのマナに引き寄せられ、
アンクルに引き寄せられ、
Pilialohaのワンラブの波動と周波数が合い、
そこに魅力を感じる人だけが数人集まるほうが結局はパワフルなのだ、

母なる地球の嘆きに耳をかたむけることができない
”烏合の衆” はこの愛と祈りの航海には必要ないのだ

だってわたしたちの人間の社会以外、
自然界と宇宙はそんなリズム、そんな法則で動いてるんだからね

漕手がいなければ海を独りで漕ぎ進むだけなのだ

それが天地自然がもとめてることなのだから

それがPaddle for Mother Earth であり

E hoe pu me ke aloha であり

ヒロシマ・ナガサキ祈りの航海であり

マラマホヌアなのだ

ただね、こういう考えがあるということ、
こういう価値観がこの世界には存在していて、そんな世界観のなかでたくさん今も生活している民族がこの地球上にはたくさんいるということを日本人に知ってもらいたいから、できる範囲で発信はしていくつもりだよ

それもわたしのクレアナ(使命)

このnoteの文章はわたしが海を漕ぐことからしりぞき、死んでから、孫たちの子供たちや、今後わたしの意志をついでこの母なる地球のために海をなでるように漕ぐ人たちの指標になればと思い書き綴っているのだ


だからだれもが喜びそうな情報や動画だけを観たい人たちに向けてかいているわけじゃないので、だらだらと長くて読みにくいかもしれないけど 許してね

さて前には漕ぎ進まなかった2日間、何をしたかというと
記録のためにメモ帳を見ながら書いてみた

4月2日(火)
数秒ごとに色が変化する美しすぎる日の出E ala e からスタートした

マラマホヌア交流会を片添ヶ浜でやり島のちいさな子供たちと交流

美味しいカンボジア料理をランチで食べた

いつもコンビニのパンとかだったから、、、
最高の贅沢に感じた

道の駅サザンセトに行った、
キャンプ場に導いてくれた方にお礼を伝えた

そして夕方、Pilialohaを漕いですぐ近くの浜まで行き体験ヴァアにきてくれた子供の親が経営する丘の上の小洒落たカフェdeコスタリカにいった
久しぶりに美味いコーヒーをいただいた

そのすぐ近く隣の浜にある厳島神社分社に海から参拝


4月3日(水)
この日は大雨で、ぎゅうぎゅうのロッジで午前中は過ごす

温泉もお休みで残念がるアンクル

車で来てた仲間が帰ってしまったので車もなくて、困っていたところ
カフェdeコスタリカさんの紹介で有り難いことに島の修理工場に車を貸していただくことになり念願の日本ハワイ移民資料館に大雨の中見学に行く

ここ周防大島町はハワイのカウアイ島と姉妹都市で古くはハワイへの移民がたくさん出ている島なのだ

アンクルも懐かしそうに昔のカウアイの写真やビデオに見入っていた

それもあって2007年にホクレアはここを訪れているのだった

ホクレアの大きな模型とともにナイノアの写真も飾ってあった
(インスタで動画みれるよ)

ナイノアに海のことを教えたという日系人カワノ ヨシオ 通称ヨシもここ大島の出身だった

厳密に言うと隣の沖家室島の人だったらしい

このことに関しては、また時間をさい明日文章にしたいと思う



1885年の第一回の官約移民の3分の1はここ大島から出ていて、官約移民時代を通してなんと3900人がこの大島からハワイに渡っているのだ、それほどこの島は江戸時代から人口が多くて山ばかりで稲作に適した平地がないこの島では飢餓がでるいほどに貧しい時代があったということでもある、

余談だけど、、、
かつては『芋くい島』とよばれた時代もあったのだ島の貧困をすくったのはみかん栽培だということで、みかんがすこぶる美味い
かつては丘という丘、すべてがみかん畑だったらしい


そういうこともあり明治初頭に多くの島民がハワイに出稼ぎとして移住していったのだろう
そして今でもハワイに親戚をもつひとが多いらしい、そういうことでハワイとのつながりもありアロハ!という挨拶は普通に島の子供たちに通じるし、役場はアロハを夏服としているし、いたるところにハワイの旗やアロハの文字が書かれている、ハワイ柄の郵便ポストもある

フラも盛んで島の子供たちの習い事のナンバーワンはフラらしい、

『アロハもありフラもあり、砂浜もあるけどヴァアがない』


てアンクルは何回も口にしていた、わたしも同感だ

昨日のヴァア体験にきてくれた女の子のフラの練習を見て子供たちと交流するために夕方車を走らせて街にある町役場までいった、大島というだけあったこの島大きく横に長いのだ、

子供たちは可愛いフラとアロハの笑顔でアンクルとわたしたちを出迎えてくれた、これもPilialohaワンラブ号がつないでくれた縁なのだ、宇宙の法則なのだとつくづく思うのだ

そして夜暗くなってからは、お母さん世代の大人のフラのレッスンにグリーンステイながうらにお邪魔した、この場所には最初宿泊する予定の場所だったがこの近くの砂浜に上陸しなかったのでできなかった施設だと気づいた

このご縁はわたしが以前からメールでやり取りしていた人の奥様からのお誘いで行くことになったのだけど

部屋に到着するなり感動した!!

みんながMalama  Maui というTシャツを着ていたのだだった

アンクルも凄く喜び涙ぐんでた、

そしてLahainaのことを歌った有名なハワイアンソングLahaina Lunaをアンクルのために踊ってくれた、

アンクルがマウイの星だということを知ってたのだ、

なんとフラの先生はアンクルと同じ年76歳だった、
アンクルは遠い兄弟姉妹に出会った気分で喜んでいた

この曲をフラをみながらわたしも涙が自然と流れてきた

コロナで4年中断し、昨年の秋に満をきしてこのヒロシマ・ナガサキをこいでつなぐ愛と祈りの航海をやろうとしたところ、8月8日のマウイ火災のニュースを見て思いとどまったのだ

誰もが知ってると思うけど、ラハイナはかつてのハワイ王国の首都

そのラハイナの素敵な街はすべて燃えて失くなってしまった、

そのことはこのNoteでも以前書き留めたので興味がある人や知らない人は読んでほしい

その火災を機にわたしたちはクラブのオハナたちと協力してヒロシマ・ナガサキをやる代わりに被災したマウイの人たちのためにMaui Strong 募金活動を始めたのだ

今もそれは続いているんだけど、、

そしてイベントとして葉山でE hoe pu me ke alohaという名前で募金のためのレースをやった

実際にわたしがE hoe pu me ke aloha というハワイ先住民の言霊を日本で使ったのがこのマウイ、Malama Maui のためだったのだ

Malama Maui マラマ マウイ とは 直訳したら

マウイに寄り添い マウイをいたわり マウイを愛でる


アロハを込めてわたしたちが海を漕ぐことで、海と空でつながった対岸の島、マウイのラハイナにその愛の波動は伝わると信じて葉山でそのあとに訪ねた小笠原父島、母島でも海に愛をつたえながら、海を撫でながら漕いだことを思い出したのだ

大好きだった思い出深いラハイナのシーサイド、サンセット、木漏れ日、バー、さまざまな街の景色が走馬灯のようにフラのメロディーとフラガールズの舞とともにみえてきたのだった

  














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