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3.11

あの日、宮城県の公立高校は入試期間の真っ最中で、授業は全面的に休みの日でした。

当時某公立高校の1年生だった私も、その理由で休みでした。
とは言うものの、部活はやってもいいよ期間みたいなのには入っていたので、その日は部活に行く予定でした。

ただ、その日の朝、何かを察知したのか駄々をこねて部活をサボって家にいました。


部活に持っていくはずだったお弁当を食べながら、リビングの隅っこにあったパソコンでネットサーフィンに明け暮れていた瞬間。
キュインキュインと、あの、けたたましいアラームの音が。
その直後に、この世のものとは思えないほどの揺れに襲われました。

宮城県を初めとする東北(感覚的には南東北かな)は、昔から大きい地震が頻発する地域でした。
小学4年の時の担任からよく話を聞いていた、1978年の宮城県沖地震。
小学生の時にも宮城県沖を震源とする地震があり、ちょうど母の実家に帰省していた私たちは慌てて帰ってきた記憶があります。

中総体(中体連という地域もあるのかな?)の応援に行こうと準備をしていた朝、歯ブラシを咥えたまま机の下に潜り込んだ、2008年の「岩手・宮城内陸地震」。

16年という短い人生ではありましたが、その間に何度か大きい地震に遭遇してきました。

ただその時は、初めて命の危険を感じた揺れでした。

昼寝をしていた母親を叩き起し、2人で廊下に垂直に座り込みながら揺れがおさまるのを待ちました。

やめてーーー!!!もうやめてーー!!

じいちゃん助けてーーー!!!

と、亡くなった祖父に助けを求めるほど。


そこから先の記憶は、正直途切れ途切れです。

家から徒歩3分のコンビニで働いていた母親は、必要最低限の荷物だけを持って家を飛び出していきました。
その日からしばらくは、オーナーさんご夫婦と我が家とで交代制でお店番をするように。

翌日に卒業式を控えていたのは、当時小学校6年生だった弟。
母親がすぐ職場にすっ飛んで行ってしまったので、私が保護者として迎えに行った記憶もあります。

父は街中の事務所から2時間ほどかけて歩いて帰って来たと言っていました。

その日の夕方だったかな。
季節外れの雪が降ってきて、「ああ、この世も終わりなのかなあ」と思ったことがありました。

沿岸沿いが悲惨な状況になっていると知ったのは、恐らく2日後ぐらいでしょうか。

幸いなことに家は無事だったのですが、部屋がしっちゃかめっちゃかになってしまったので、片付くまでしばらくは車中泊をして過ごしていました。

情報を得る手段がラジオしか無かったので、常にラジオをつけて生活していたのですが、そこから流れてくる被害状況に、子供ながらゾッとした覚えがあります。

蒲生地区には多数の遺体が打ち上げられているという情報です―

蒲生(がもう)地区とは、仙台市の海沿いの地区で、今回の震災でも大きな被害を受けたところでした。
蒲生地区出身の同級生もいたので、この話を聞いた時一瞬血の気が引いたのを覚えています。
(その子は無事でした)

夜寝る時もラジオをつけて寝ていたのですが、度なる余震に伴う緊急地震速報に眠れない日々を過ごしていました。
そして、その度に車が吹っ飛ぶんじゃないかと思うぐらいの揺れに襲われてました。

その日から1ヶ月ほど、学校は休みになりました。

弟の卒業式も2週間ほど延期になり、中学校の入学式も少し延期になったのですが無事開催することができました。
学校が休みで暇だった私は、(一人にしておくと余震があった時に危ないってのもあったので)小学校の卒業式も中学校の入学式も一緒に出席してきました。笑

休みだった間、しばらくは母親の働くコンビニで値札貼りのお手伝いをしていました。
あのガチャコガチャコとやるあれです。(通じろ)

原発の事故が発生してからは、様々な噂も流れるようになりました。

今日は黒い雨が降るから、絶対外に出ては行けない!
空気中に放射能が漂ってるからマスクをして!

なんて噂もありました。

今となってはそんな噂に……と思うのですが、ただでさえ情報が少ない状況で、まして高校1年という絶妙な頃だったので、私はこの噂を半分信じていました。

「やだ!出たくない!」と寝泊まりしていた車から出るのを渋っていた記憶があります。


それから1週間ぐらい経ってから、徐々にライフラインが復旧し始めてきました。

電気が復旧した直後、久しぶりにつけたテレビではMステが放送されていました。

被災地に祈りを込めて」という趣旨のもと、節電仕様のセットで様々なアーティストが歌のエールを送っていました。

そのアーティストたちの中に、私が昔大好きだったタッキー&翼のお2人が。

この「愛はタカラモノ」という曲を披露していました。

目の前に広がる
いびつな分かれ道でも
君となら 虹が咲く
君が弱気な時 僕が強くなるからね
語りかけて 繋いだ心で

愛はタカラモノ 歌詞より

(合法では無いけどこちらもあります)
(ちなみに、このライブを行った9月11日は彼らのデビュー記念日です)

久しぶりに見る彼らに心を打たれ、少し元気をもらった、当時16歳の私でした。笑

ある日は、母親と弟と3人で、橋を一つ越えた先にあるスーパーへ自転車で行って食料の買い出しに行きました。

その橋は通学路だったので、16歳とめちゃくちゃ若かった私はサクサクと越えることができました。
弟も割とスムーズに越えたのですが、肝心の母親が置いてかれるという……笑

そんな風に楽しみながら、時々やってくる余震に襲われながらも、なんとか生き延びていました。

ガスや水道は少し遅れて復旧したのですが、それまでの間は、母親の友人の家にお風呂を借りに行ったこともありました。
幸いなことに、その家がオール電化だったので、電気と水道が復活してしまえば普通の生活にほぼ戻っていたようです。

また別の日は、少し車を走らせて、父親の当時通勤していた事務所にお邪魔して、給湯室で頭を洗ったこともありました。
(そこで10年後、自分が働くとは、当時は思いもしませんでした)

家も、家族も、仲間も、学校も、故郷も、私はみーんな無事でした。
それでも、様々な人に助けてもらいながらも、必死に生活していたなあと、13年経って改めて感じます。

ただ、周りを見ると、やっぱり大きな被害を受けた友人がぽつりぽつりと。

沿岸地域出身の同級生や部活の同級生は家が流されてしまい、同じ中学から進学した別の同級生は、お母さんがたまた海沿いで働いていて、波に拐われてしまったと聞きました。

直接関わりは無かったのですが、部活の先輩が一人犠牲になりました。
その日、彼女は部活に行くのに親に車で送迎してもらったようですが、その時に車中に忘れた生徒手帳が遺品となってしまった、と後に聞きました。


あれから13年。変わらず私は、あの頃と同じ家に住んでいます。

甚大な被害を受けた│閖上《ゆりあげ》地区は、我が家から車で割とすぐのところにあり、震災前から朝市によく通っていました。

この朝市も、紛れもなく被害を受けたわけで。
しばらくお休みしていました。

一旦内陸の地域で仮復活したものの、震災から2年後に震災前と同じところで復活して、今も元気な声が飛び交っています。

宮城県に訪れることがありましたら、ぜひ閖上の朝市にもお立ち寄りください!
(回し者では無い)

いつものようにまとまりは無いけど、長い長い、私の語りはおしまいです。
乱筆・乱文失礼いたしました。

PS.
サムネは、震災後閖上地区にできたしらすレストランです。
よく考えたら、あんまり閖上で写真撮ったことないなあと思いました。。。

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