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馬鞍山

 
 今回の香港・深圳滞在は、域内のキリスト教会取材が主目的となる。
 そのうえで自身の抱える障害は主に2つ。

 ひとつには、広東語も北京語も喋れないという困難。

 ふたつ目には、(社会的ポジションとしての)信仰をもたないという困難。

 これらはぼく個人が一方的に抱えている困難で、したがって乗り越えたければ勝手に乗り越えろという話に過ぎない。しかも乗り越えて何の得があるのか、常識的に考える範囲ではよくわからない。ただ取材相手からみても「そんな人間がなぜわざわざこの場に?」という立ち位置だからこそ持てる視点視座はたぶんあり、この《はず》への賭けがどう出るかも自分次第だ。そしてわからないからこそ価値を素朴に感じてしまうこの変態性を生きるのは、どうも自分の役割の一つであるようだし、それならそれで構わないので流れにまかせる。長いものには積極的に巻かれていきたい。できるだけ艶やかに。


 ↑Replyed from the HK habitant



■中華基督教會香港區會合一堂 馬鞍山堂


 沙田のスタバでは、待ち合わせた編集者上司およびM牧師との挨拶もそこそこに、タクシーを駆って北上、馬鞍山の住宅街へ。郊外のそのまた郊外に位置するこの土地では、そびえ立つ高層住宅棟のどれもが比較的新しい。馬鞍山堂はこれら住宅棟群のただなかにあり、ロータリーの円弧に沿って関連の幼稚園や教会堂が並んでおり、恐らく都市設計の段階からこの合一堂がコミュニティの中核を担わされていたことが窺える。

馬鞍山堂360°写真 @google map: https://goo.gl/7JV1GM

 教会員は約600名。この数は、香港の教会としては中規模とのこと。教会名に合一堂とあるのは、プロテスタントの四教派合同により運営されているからで、所属する牧師は現在五名。未成年担当が二、大人が二、引退世代が一と、牧師の担当が世代別に分かれている点は興味深い。この配置からもわかるように、教会員の構成は若年層に寄っている。教会員全体の数も微増傾向にあるといい、この点は教会員の減衰と高齢化が危惧される日本のキリスト教会の現状と大きく異なる。



 案内をいただいた林廣雄牧師は、2014年の雨傘運動の展開を目撃して「多くの教会が社会の変化に向き合えていないと感じた」と語る。それまではふつうに会社員をしていたし、牧会的な働きは会社の中においても可能と考えていた。しかし香港雨傘運動をきっかけに、彼は牧師の道を歩み始める。

 訪れた夕刻はたまたま青年礼拝(Youth fellowship)の会合があり、香港中文大學の学生が7,8名集まっていた。彼らと林牧師を囲み、聖書を読む時間を少しもった。聖書は広東語=繁体字版だが、ぼくらへの配慮からディスカッションの半分は英語で行われた。軽いアイスブレーキングの時間もあり、香港や台北で学生たちとこうして終夜をともにした日々が懐かしく思い起こされもして楽しかった。



 そう、あとから振り返ると、この小一時間が個人的な体験としてはけっこう響いた。居合わせた香港中文大學の学生たちの醸すムードが、ぼくの無駄な気負いを解除してくれたというか。よく知っている、かつて慣れ親しんだ香港の大学生たちそのものだったんだよね。こちらだけが、むやみにおっさん化してしまった感。日本の大学生に比べると、今も昔も輪郭がくっきりして、人格的にも成熟してけれどフランクに砕けている。要は都会的、そりゃ都市だけで成立しているような生育環境なんだもの。

 そしてこのことは、今日でも教会員が微増していることとも関連する。実際林牧師によれば、一度教会員になった人間でも、中国返還以降の香港社会が見舞われる激しい変化のなかで、気づけば信仰が疎かになってしまうことについて、負い目を感じがちなのだという。とにかく一度切迫感を抱えると、体感的にも街ごとのしかかってくる土地なのだ。
 それとはべつにM牧師の通訳が、広東語どころか英語すら使う必要を感じないレベルで優秀なことが発覚。「主な困難」、半分消失。\(^o^)/


 ところでこの「激しい変化」、日本も対岸の火事ではまったくないんだよね。香港は現状、直面する困難が日本よりもずっと大きい。貧困問題ひとつをとってもそうだろう。たとえば高齢者世代を襲う年金生活の苦しさ。その背景にあるのはもちろん、中国本土経済の興隆だ。いずれ資本は移動する、やがて労働価値は平準化する。局所的相対的に右肩下がる流れが、流れのなかにある個人へは相対的貧困の形をとり襲い来る。香港を呑み込み、台湾を。そして韓国東南アジアと続く流れがいずれ日本へ至るのは、言うまでもなくすでに既定路線だ。

 それはそうと林牧師の雰囲気や物腰が、大学時の二年先輩だった某秀才氏を想わせ懐かしかった。秀才氏は在日韓国人でロシア語とロシア事情に通暁しビサンツ美術の専門家となり、対岸にウラジオストクを臨む新潟の美術館に就職してのちTBS世界遺産の監修クレジットで見かけたのが最後になる。彼は自身のルーツの向こう側に、草原の道を越えて黒海へとつづく奥行きを観ていたのかもしれない。そしてわが実家の本棚には、彼から借りパクしたままの本が一冊どこかにある。だからなんだ。
 元気だろうか。



 

 
 

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