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禁忌のあじわい

 “子山羊をその母の乳で煮てはならない” 出エジプト記23章19節

 ある男の死をきっかけに、ベルリンで彼が愛したパティシエと、エルサレムに暮らす彼の妻とが出会う。映画『彼が愛したケーキ職人』はユダヤ教の食物規定コシェルが鍵となり、流麗な音楽が情感の浸透圧を高める秀作で、性的マイノリティのドイツ人がイスラエルで身を忍ばせることの史的な暗喩性が、リアルな隠し味として効く。

 エルサレムの路地にたつ一軒のカフェが本作の主舞台となる。ベルリンでケーキ作りに精を出す若いパティシエのトーマスが、情愛を結んだ常連客のイスラエル人ビジネスマンの事故死をきっかけにエルサレムを訪れる。トーマスは素性を言い出せないまま、ビジネスマンの妻アナトが営むカフェで働きだす。はじめは異邦者への警戒心を隠さなかった周囲の人物たちも徐々にトーマスを受け入れ始めるが、ユダヤ教における食物の清浄規定カシュルートの認定を受けた店の厨房で彼が働くことが、ある日を境に思わぬ波紋を広げてゆく。(なお、カシュルートに適合する食べ物をさしてコシェル/カシェル、英語圏ではコーシャ等と呼ぶ)


"The Cakemaker" https://twitter.com/pherim/status/1066850817888538624

 映画では、外野の人間にはわかりにくいユダヤ圏に特有の文化風習を、説明的描写に堕すことなくドラマの内へ自然に描き込む。たとえば、トーマスがコネでユダヤ教徒向けのアパートへ入居する際には、キッチンでは流し場も食器も肉類用と乳製品用の2つずつを備えることが紹介される。宗教的に厳格な叔父の言いつけを守り、トーマスの作るチョコレートケーキに初めは手を出さない子供の躊躇から、本場ドイツの職人の味を提供するカフェが大盛況を迎える場面への展開などには、エルサレムにおける西洋菓子の受容水準も反映され興味深い。

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 主人公トーマスが「性的マイノリティ」の「ドイツ人」であることも重要だ。まずバイ・セクシャル(同性愛を含み込む両性愛)である点が、イスラエルのなかでもひときわ宗教伝統の色濃いエルサレムにおいて禁忌の対象とみなされるのは言うまでもないだろう。イスラエルでは例年大規模なゲイ・パレードが開催され、LGBTに対し寛容な国というイメージが一般に流布されているが、反面これがパレスチナ政策などによる失地回復を図る政府主導の“ピンクウォッシング”に過ぎないとの批判も強い。トーマスがゲイである可能性など及びもつかない妻アナトや露見後の親族の反応には、同性愛者の存在すら近親には認めがたい住民感情の実態が赤裸々に描かれている。


“あなたたちの食べて良い生き物は、ひづめが分かれ、しかも反芻するものである” レビ記11章2-3節


 それにもまして考えさせるのは、「ドイツ人」であることがエルサレムでもつ固有のニュアンスをめぐるシーンの連なりだ。厨房で働きだしたトーマスへ向けて、周囲の親戚やラビ(ユダヤ教聖職者)らが「ほかでもないドイツ人を」「きみが噂のドイツ人か」と名指すうちはまだ物珍しい異邦人扱いの域を出ない。しかしスーツケースひとつで入居したトーマスが映画の後半、「1時間で準備して家を出ろ」と追い立てられるくだりに至っては、現代ユダヤ人最大のトラウマであるホロコーストの惨劇なしに成立し得ない。

 また本作タイトル『彼が愛したケーキ職人』の「彼」とは冒頭で亡くなるイスラエル人ビジネスマンを指すが、彼の老母が自宅にトーマスを迎える場面も印象深い。彼女はすべてを察しながらもトーマスに対し極めて温厚に振る舞うのだが、年齢から考えて同性愛が今日以上にタブーであった時代を生き抜き、かつアウシュヴィッツ生存者の声を生で聴いてきた世代である。しかも息子のビジネスマンが冒頭でドイツ語をよく話すことからも、ドイツからのユダヤ移民である可能性すら推測される。イスラエル・ラーナナに生まれ現在ドイツに暮らすオフィル・ラウル・グレイツァ監督の撮る本作は、こうして伝統宗教が発揮しがちな排斥性と、ユダヤ文化に特徴的な異邦人への寛容とのどちらをも質実に描きだす。


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 実は本稿を書くにあたり、イスラエル在住の友人女性に筆者は多くを負った。数々の助言への謝意とともに書き記しておくと、彼女によれば未亡人アナトの義理の兄がトーマスに敵対的なのは、寡婦が亡夫の兄弟と結婚するレビラト婚の風習と関係があるかもしれないとのこと。ユダヤ文脈に照らせば、二重にも三重にも噛みごたえのある作品であることが窺える。

 「説明的描写に堕すことなく」と先に本作を評したが、にも関わらずローカルの素材から普遍的主題を浮かび上がらせ得たのは、高度に錬り込まれた脚本ゆえだ。その高みへ表現が届くからこそ、ユダヤ文脈を共有しない観客にも作品は作用する。この意味では、主題の地域性に着目し、不寛容の社会的空気を背景とすることで寛容の価値を伐り立たせる手つきが『万引き家族』『誰も知らない』の是枝裕和監督や、『ロゼッタ』『サンドラの週末』のベルギー人監督ダルデンヌ兄弟らを想起させる。これらの作品群は、各文化風習の厚みに深く根差したギミックが、一度観ただけでは到底回収できないほど多く埋め込まれている点で共通する。映画館の暗がりで雑多な日常をつかのま離れ、こうした各国の良質映画を通じ異文化の育む滋養を存分に味わえること。これらが今日もこうしてもたらされる有り難さを祝して心の糧としたい。そうしてあることは単なる消費行為にあらず、それこそが文化の精髄であり、人間活動の豊穣そのものなのだ。

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