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「才能がない」ことに絶望したとしても「やりたい」を優先していい

「才能」

この言葉に悩まされてきたのは、決して僕だけではないはず。

・才能なんて関係ない。努力だ。
・努力だけではどうにもならない。才能だって必要だ。


最近、この二つの価値観がSNS上でぶつかっています。

僕自身、才能のなさを実感してトップレベルになることを諦めたことの筆頭がサッカーだ。

あれは中学3年生のとき。

地元にJリーグのユースチームがあったので、高校年代から加入するべくセレクションを受けた。

当時、僕はJリーガーになることを目指したいたからだ。

結果は玉砕。

地元でちょっと評価されているくらいの実力で受かるほど、Jユースの世界は甘くなかった。

なまじ、それまでの僕はあまりライバルがいない環境下でポジションを確保してきたところがある。

もちろん、そのことに甘えたつもりはなかったし、チームにおいては「いないとまずい」くらいにはもちろんなってはいた。

だけど、そこまでだったのだ。

セレクションに来た他の人たちは、明らかに自分よりも体格に恵まれ、高い身体能力を有し、優れた技術を持っていた。

「井の中の蛙大海を知らず」とはまさにこのことを言うのだろう。

あっさりと僕はプロになる夢を諦めた。

というより、中3にして何となくわかってしまったのだ。

己の才能のなさというものを。

僕はゴールキーパーだったのだけど、よくよく冷静に分析してみれば、

・身長は170台前半
・身体能力的には中の中くらい
・手はむしろ小さく、女性よりも小さいケースもあった
・ちょっと筋肉があるくらい

GKをやる上で、まず身長的にしんどい。手が小さいのもハンデと言わざるを得ない。

生まれ持ったカード、つまり才能において、僕は圧倒的に足りていなかったのだ。


だけども、僕はサッカーをそのあとも大学まで続けている。

割と、人生の時間の大半はサッカーに費やしたと言っても過言ではないほどだ。

プロになれたわけじゃない。
当然、お金だって稼いでない。

もっと他に学ぶべきものはあったかもしれない。

観る人から観れば、僕がサッカーに費やした時間、努力は、「才能もないのにそんなことに時間と労力を使っていて、なんて無駄なんだ」ということになるのだろうか。

プロになれるわけじゃないんだから、どこかで辞めさせてあげるべきだったんだ。

そういうことなんだろうか。


一面から見ればそうかもしれないが、僕が実際にそう言われていたとすればどうこたえるか。

「ほっとけ」

の一言じゃないだろうか。

才能がないことなんて、とうの昔に知っているし、何ならJリーグのスタッフに「不合格」の烙印を押されているのが僕というサッカー選手だったのだ。

才能のなさなんて、言われなくても誰よりも知っている。

おそらく、何をやるにしたって、「才能のなさ」を指摘されてきた人たちは、言葉にせずともどこかで才能がないなんてことはわかっている。

才能がないなんてことはわかっている。
だけど、それでも目標をもって頑張っている。

この姿を、「非合理的」「無駄」と冷たく言い放つことは確かにできるかもしれない。

だけど、本当に見るべきはそこじゃないだろう。

「才能がないなんてことはわかっている。それでも、努力せざるを得ないと思わせている何かがある」その「何か」をこそ、大切にすることではないだろうか。


スポーツはある意味では分かりやすいかもしれないが、仕事ではなかなか才能というのはわかりにくいところがある。

「強み」を知りたい人が多いのも、結局は自分の才能が何なのかわからないことから来ているんだろう。

才能があることに時間や労力を投じたほうが効率がいい、こういう考えが根っこにはあるように思う。

だけども、結局そんなものはやってみないとわからない。

やってみて、時間をかけてみて、コミットしてみないと、向き不向きなんてものは結局わからないでしょう。

努力が嫌われる世の中になり、効率や生産性がないことは悪とさえ言われるようにもなっている。

だけど、才能があるかないかはわからないけれど、とにかく頑張ってみる。

自分を動かす何かがある。


才能や強みがないことにいじけて結局何もしないのなら、自分の「やりたい」を信じてひたすらにやってみる。

才能や強みがないのはわかった。

で、だからどうしたい。

やりたいのか?やりたくないのか?

きみの本心は、一体どこにあるだろう。


▼君の「才能があるかはわからないけど、やりたいからやっている」ことをぜひ教えてほしい。必ず返信します…!!▼


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