先がない(のかもしれない)

明確に気づいたのは去年だった。自分が終わった恋愛を人より引きずるタイプだと。終わった恋愛を引きずるのは去年に始まったことではない。今まではみんな自分と同じぐらい引きずるものだと思っていたのだ。

きっかけは友人に悩みを打ち明けたことだった。悩みというのは僕は以前から日記をつけていたのだが一時日記の文面が同じ所をグルグル回っていたことだった。気づいたら以前付き合っていた人との印象深いいくつかの思い出をローテーションさせて何度も繰り返し思い出しては書いていたのだ。

さすがにおかしいなと思ってどうしたらいいか相談したところ、「とりあえず日記をつけるのをやめろ」と言われた。僕にとって日記をつけるのはやめられる性質のものではないので何の解決にもならなかったが「普通そんなに終わった恋愛のことを引きずらない」と言われて、自分が人より終わった恋愛を引きずるタイプなのではないかと思い始めた。

実際、それとなく身の回りの男性にきいてみると多くの人間があまり引きずっていなかった。というか終わったことは、終わりかたの良し悪しにかかわらず、蓋をして思い出さないようにしているようだった。蓋を開けるのは他人に恋愛遍歴を披露するときぐらいだったようだ。それに比べて自分はどうだろう。同じ思い出がローテーションを組んで回ってしまう。

しかも話は終わった恋愛に限定されない。始まっていないものすらローテーションに入ってきてしまう。一時期、好きな人と連絡先を交換してメールでやりとりしていたことがある。連絡先を交換した頃には彼女と会う機会は全くなくなっており、完全にメールでやりとりをしているだけだった。僕はやりとりがある程度続くと彼女の気に触るような発言や答えづらい、答えたくない質問を振ってしまい、返信が来なくなるというのを二度繰り返した。

返信が来なくなるたびに今までの彼女とのやりとりを何度も見返しては思い出し笑いをかましていたのだ。こういうことを書くと友人たちが僕の写真フォルダを狙ってくるので書きたくないのだが、しまいにはメールを開くのが面倒になってほぼ全文をスクショして写真フォルダに入れた。今も入っている。こうして終わった恋愛やまだ友達でもなんでもない人とのやりとりについて繰り返し思い出すのが日課になっていた時期もあった。

同じようなことをやっている人があまりいないとなると次に気になるのは何故こういうあまり人がやっていないことに自分が熱中しているのか、ということだった。しかし考えてもすぐにはわからなかったし、当時はなんなら周りの人間がみんなおかしいんだぐらいに考えていたから深く考えるようなこともなかった。周りの人間が何故おかしいのかなんて僕には難しすぎるし、究極僕とは関係のないことなのであまり興味がなかった。

一見何の関係もなさそうだが今年の三月になって、以前付き合っていた彼女と再会し「養ってあげるよ」と言われたことで話は進展した。

「養ってあげる」と言われた当初、彼女が本気で言っているのか冗談なのかよくわからなくてだいぶ混乱した。本気ならまずいことになった、という話だし冗談にしたってキツイよ、と思っていた。あまり高収入な職業に就かないだろうからとカネが要るだろ、と足元を見られたわけだ。

僕は混乱し始めると妄想が止まらなくなる性質でこの時も例外では無かった。「何故今結婚相手を決めなきゃならないのか」とか「もっと色んな人と交際したいし遊びたい。ここで終わりなんて嫌だ」とか「自分が本当に一緒にいたい人がどんな人なのか時間をかけてじっくり考えたい」とか「しかしヒモ主を確保した上で自分のやりたいことするのも悪くないな」とか「ヒモになれば安パイって考えてる僕クズだなあ」とか、彼女が本気で言っている前提で妄想を膨らませた。冗談なら何の意味もない妄想を。

全く冗談きついぜと笑いが止まらなくなることもあれば、遊べなくなるのが嫌で涙が出ることもあった。気持ちの浮き沈みが激しかった。

こうして浮沈を繰り返すうちにふと気づく。あいつに養ってもらうのを了としても、養ってもらう前に言っておかなければならないことがある、と。(彼女が本気で養う気がある前提に戻っているのでどうかしている。ふと気づいたとはいうものの、別段冷静になったわけではなく単に混乱が今までとは違うエリアに入っていっただけだと思う。こうして書いている瞬間だって冷静ではないかもしれない)

僕には子供が欲しいという願望がない。これも性欲がないことと同様に高校の時から感じていた。いやむしろ性欲がないことよりも明確に感じていた。高校は男子校だったのだが、同級生が交際している人間がいる人間もいない人間も欲しい子どもの人数を平気で語り合っていた。彼らは異性愛者らしいが女性とその手の話をするわけではないらしく、女性不在でそういう話が進んでいて「こいつらにとっては女性は子作りのための道具なのだろうか」「これが家族計画策定なるものなのだろうか。家族計画おそろしや」と思っていたし、何故そんなに家族計画を語り合いたくなるのかがよくわからなかった。

面倒なことに自分にも時折順番が回ってきた。「nonakaは子ども欲しくないの?」と。「欲しくない」「何で?」「自分の遺伝子を継いだ人間が生まれてくるのなんて怖くて耐えられない」といったやりとりを何度か繰り返した。これは前回の二股を許した件なんかと比べると周囲の反発は少なく、たいてい「確かになあ。わからなくはない」という反応が返ってきた。わからなくはない、というのが驚きだった。部分的であれ、僕と同じような感覚があの手の質問を振ってくる当人にあるとは予想外だった。それに反発を覚悟して発言しているのに、予定していた反論が見られず拍子抜けだった。

共感してもらえる側面があると気づいた一方で彼らの感覚と自分の感覚が明確に違うことを忘れることはなかった。先ほど「僕には子供が欲しいという願望がない。これも性欲がないことと同様に高校の時から感じていた」と言ったが誤解のなきよう断っておくと、これは単に同じぐらいの時期に上記の二つの欲求がない、と気づいたという話であって二つの欲求の「欠落」の質が同じだということではない。むしろ二つの「欠落」の質は全く違う。

性欲は弱くなっていたが性行為に対する嫌悪感は特段なかった一方、自分と誰かの間に子どもが誕生するというのは想像するだけでも気分が悪い。嫌悪感があるといって差し支えないと思う。自分に由来する人間を見たら殺意が芽生える予感がする。

こう見えても子ども嫌いなわけではない。一緒に遊ぶのは嫌いじゃないし、自意識過剰かもしれないが電車で乗り合わせるとよく目が合うし、大声で泣いていても元気がいいなあ、ぐらいの感覚しかない。必死に自己弁護を図っているみたいだが子ども嫌いなわけではないのだ。自分の子どもでなければ。他人が子供を欲しがるのをおかしいとも思っていない。欲しい人は好きにすればいい。ただ「子どもが欲しいのが当然」と価値観を押し付けられるのが嫌だし怖いだけだ。

先ほど「自分の遺伝子を継いだ人間が生まれてくるのなんて怖くて耐えられない」と言った話を持ち出した。発言は事実だが、今にして思えば遺伝的につながりがあるから耐えられないというのは誤りだ。証拠に、例えば、僕には弟がいるのだが、弟に対してこの手の嫌悪感はないし、弟と誰かの間の子どもが誕生したとしても殺意なんか湧きそうにない。自分と誰かの間の子どもに強烈な殺意を感じるようになる予感がする。

何故こんなに殺意が芽生える予感がするのかを語ると長いので次回に回すが、次回のネタバレを含めて端的に言うと「自分と同じ思いをする可能性のある人間を自分の責任で生み出すのに耐えられないから」かな。(こうやって文章にしてしまうと大したことないな)

「養ってあげる」という発言からここまでの流れをざっと友人に話したところ「以前からそんな感じがしていた」と言われ衝撃を受けた。「フェミニズムには興味あるのに理論は見えても実践が見えてこない」という趣旨のことを言われた。まず、前回も述べたが僕はフェミニストではないのでこの指摘は不正確だ。正直フェミニズムにすごい興味があるのかと言われればそうではないのではないか、と最近気づいた。彼の指摘は不正確なのだ。だがそれでも彼の指摘は鋭かった。

ここでいう「実践が見えない」というのは「理論的にはいろいろと発言するが実際家事をする気ないよね」という意味ではなく「理論的にも発言するし、家事をやる気がないわけではないだろうが、nonakaが自分のためではなく他人にやってあげることが想像できないし、思い描いている家族像が見えてこない」という意味だと彼は補足してくれた。

よく僕のことを観察しているなあと思う。彼の言う通りだ。僕には「幸せな家庭」というものが想像できない。最後に家庭に曇りのない幸せを感じたのがいつなのか思い出せない。そんな瞬間はなかったのかもしれないし、忘れるぐらい昔のことだったのかもしれないし、何らかの不都合が生じるので忘却されたのかもしれない。いずれにせよ僕の中では家庭は「ただそこにある枷」でしかなかった。僕に僕の誕生を拒否する権利などないのだ。もろもろの事情で我が家にいるのは苦痛でしかないのだが、善悪の判断などさしはさんでも意味はない。ただ受け入れるしかなかった。

しかし、新たに僕自身が誰かと同棲し家庭を築くとなると話は別だ。今と同じような苦痛が再生産されるぐらいなら多少寂しくてもみんなと友人の距離を保って独りでいたい。子どもという形での「再生産」はもちろんのこと誰かと家族として同棲する場合もだ。「幸せな家庭」の築き方はおろか「幸せな家庭」なるものがわからない中で暗中模索を共にやってみる価値はあると思う人間でなければ同棲なんかできっこないし、まだ僕がそういう判断をするのは時期尚早だと思う。人というものを知らなさすぎる。当然自分の家族像なんか見えて来ない。

話が戻るようだが、彼は鋭いが、僕にしてみれば家族計画を語る人間と大差ないように見える。「思い描いている家族像が見えて来ない」と言うからには彼にはぼんやりとでも見えているのだろう。(あんなことを言ったのに僕同様全く見えていないのなら見えていないのなら傑作だよ。自分と同じ匂いがする、と一言添えてくれれば誤解せずに済むだろうに)

僕の雑感だと「家族像を容易に思い描ける人間」は自分が生まれ育った家庭に多少なりとも幸福を感じていて、生まれ育った家庭を下敷きにしている人間が多い。でも僕にはそんなことはできない。なぜできないのかは次回以降に回すがとにかくできないのだ。自分みたいな家庭に対する不幸な感覚を持った子どもを誰かと一緒に再生産するために家庭を築くなんて考えられない。こうしてみると「幸せな家庭」がわからないと言いつつも「幸せな家庭」を志向している辺り、僕もかなり保守的な人間なのかもしれない。

長々と自分の家族観の話をしてしまったが、人に養ってもらう前にこういう話はしておいた方がいいと思う。嘘はついていなくてもこういうことを隠して僕が人と同棲を始めるのは詐欺まがいの行為だと感じる。他の人間は隠すなり隠さないなり好きにすればいい。でも僕は自分がそれをやるのは許せない。

そろそろ本筋につなごう。今回は「何故僕が人より恋愛を引きずるのか」がテーマだった。具体的には、何故「思い出ローテーション」を回したり、メールのやり取りを何度も見返してしまうのか、ということだ。答えは出ている。先がない(かもしれない)からだ。そして先がない(かもしれない)ことを潜在的には強く意識していて、そこに「欠落」を感じ「劣等感」を覚えているからだ。人と恋愛を続けていったときに性交渉や出産、育児も見えて来ないことに「劣等感」を覚えているからだ。家族計画を語る高校生が交際している人間には家族計画を語らないと答えていたことからも、高校生が皆他人と家族計画まで考えながら交際しているかは甚だ疑問だが、おぼろげながら見えているのだろうと思っているのだろう。

僕は性交渉も家族形成も見えていないから「好きな人と一緒に茶をしばいてどんな会話ややりとりをしたか」ぐらいしか考えることがない。そこに僕の恋愛体質も相まって日記で思い出を再生するのがやめられないし、新しい思い出が供給されなくなると、思い出ローテーションをして飢えをしのぐ他ないのだ。考えれば考えるほど気持ち悪い。そんなものに「劣等感」なんて覚える必要なんか果たしてあるのか。ないはずだ。表層的にも論理的にもそう思っている。そんなものに縛られて生きていきたくないと感じている自分がいることはひしひしと感じている。でもどうもそう思いきれていない自分もいるらしい、ということに気づいてしまった。また一つ不幸なことが増えた。

長々書いた割には「何故僕が人より恋愛をひきずるのか」に対する答えは「性欲が弱いことへの劣等感があるから」みたいな安直なものでもはまってしまうので甲斐がないなあ。損した気分だ。

「あの頃の僕を返して」といった気分だろうか

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