【書きおこし】清水晶子「学問の自由とキャンセル・カルチャー」

 twitterで話題になっている清水晶子の講演「学問の自由とキャンセル・カルチャー」の書きおこしを作りました。講演内容の検討に役立てていただければと思います。私自身の見解については、後日またnoteに別の記事を書きたいと思っています(書きました)。
 かなり長いので、内容に応じて小見出しをつけました。区切り方が不適切な点や、その他お気づきの点があれば、ご指摘いただければと思います。

質疑応答の文字起こしを見たい方はこちらを。

講演内容

はじめに

 はい、ご紹介ありがとうございます。清水晶子です。えー、もうそのまま入っていきますが、えっと本日はですね、本日は学問の自由とキャンセルカルチャーというタイトルで報告をしたいと思います。少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
 えーとですね、学問の自由というところから行きたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。大学、一般的にはですね、大学だったり研究機関とかっていうものが、政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり、まあ経済的な権力であったりといったところからの圧力を受けることなく、さらに言えば、個々の研究者が大学当局だったりとか、大学の経営陣ですね、あるいは、多数派の社会的通念、経済的な要請などからの不当な干渉で抑圧を受けることなく学問的良心とか手続きとにしたがって真理を探究する自由というふうに考えることができる。で、たとえばですね、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるのですが、これによると学問の自由という原則は学術コミュニティーの構成員すなわち研究者・教員・学生が倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由、と定義できる、というふうにされています。学問の自由というものは基本がここにあるという風に考えると、フェミ科研裁判における学問の自由の主張というのは、ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分という風に言うことができる、という風に思います。で・・・・・・、

(フロアから「声が小さい」という声があがり、対応する)

 で、えーっと、残念ながらですね、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保証されてきたものではない。だからこそですね、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました、で今世紀に入ってからの、過去20年に限定しても・・・

(ふたたび声の大きさに関して対応する)

 で、過去20年に限定してもですね、2000年代前半のフェミニズム・女性運動へのいわゆるバックラッシュというのがありまして、ここでは与党・自民党のプロジェクトチームにおいてジェンダーという語、それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。で、2014年には、いわゆる従軍慰安婦問題を取り上げた、広島大学の研究者の授業というのが、先ほども産経新聞出てきましたけどここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるという風にしてして、産経新聞に抗議をする声明を出すという事態になったりもする。もちろんさらに記憶に新しいのは2020年、日本学術会議の会員任命拒否ですね、つまり当時の菅内閣総理大臣が日本学術会議が会員候補者として推薦した6名、推薦したうちの、ごめんなさい、6名の任命を拒否した、というかしなかった件、ですよね。任命拒否については憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるという風にして、2011年(2021の誤り?)11月に日弁連が日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書というものを総理大臣に提出している。これらの事例での学問の自由というのは、この重要性ですね、この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだとという風に考えます。
 で、その前提をですね、ご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、もう少し強く言うとどう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。今申し上げたように、従来はそして一般的には学問の自由というのは国家とか強力な宗教団体・経済団体、多数派の社会通念や経済的要請などなどの圧力を受けることなく、研究者の社会的通念、えーっとあの、手続きですね、研究の手続きに則って、真理を探究する自由を指すという風に理解されています。その意味ではですね、学問という自由という枠組みは、力のある人たちとか、多数派にとって都合が悪い、あるいは利益にならないというだけの理由で研究教育を抑圧したり、不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。ところがですね、この学問の自由の主張が全く別のベクトルで利用されることがある。すなわち、差別的抑圧的な考察や言説に対して、政治的経済的に力のない側、社会的少数者の側からなされる批判や異議申し立てを「これは学問の自由の侵害である」とする風にする言説というのが見られるようになっている。
 これはですね、日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、「何を言っているんだ」という風に思われるかもしれません。けれども、法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。で、結果としてですね。フェミニストとして学問の自由を考えるに当たって、私たちは、一方では、フェミ科研裁判のように、国家による学問の自由の明白な侵害というものと戦わなくてはいけない。けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、抑圧された側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して、警戒をしなくてはならない。学問の自由をめぐっては、フェミニストには現在そういう、いわば「両面での戦い」というものが要請されている。この現状は忘れるべきではないと思います。
 実はですね、今日私からお伝えすべき論点はそこに尽きているので、ここで報告を終わってもあんまり問題ないっていう感じなのですが、ちょっと流石にそれでは簡便すぎるので、このあとの時間を使ってですね、マイノティの、こういうタイプのマイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される学問の自由の侵害という枠組みですね、この言説というのが、具体的にどう現れてきたのか、これがまあ非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。

ポリティカル・コレクトネス

 報告タイトルにもなっている「キャンセル・カルチャー」というのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広くですね、文化活動全般に対して使われていますが、学問の自由がその射程に含まれることもまた間違えはない。ただ、2010年代から・・・・・・、の後半ですね特に、急速に広まってきたキャンセル・カルチャー批判についてお話をする前に、その文脈というかその前身とも言えるいわゆる「ポリティカル・コレクトネス」ということについて少し確認をしていきましょう。
 「ポリティカル・コレクトネス」という語自体は、元来、共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、左派のあいだの、なんというか、内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。ところがですね、これアメリカの文脈ですが、ところが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、そして1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり』っていう、ここらへんを契機として、各種メディアなどにおいてポリティカル・コレクトネスをめぐる議論というのが湧き起こる。で1991年5月には、当時のですねジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアですね、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチでポリティカルコレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容なものである、不寛容さだ、というふうに言及するに至ると。
 現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、もっぱらポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とか、そういうことをイメージされるかもしれませんが、そもそもですね、ポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場を、その主要な場のひとつとしていました。80年代、1980年代、アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など、新しい学部やプログラムの設立、それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシュアル・ハラスメントへの対応の開始、コースとかカリキュラムの見直し、などが一気に進んでいくことになります。これらは全部具体的な制度的変更なんですけども、それと同時に、大学における教育というものが暗黙の前提としてきた性差別、人種主義、ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
 こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、それはあんまりアメリカの広く一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。これを「アメリカ的価値の根幹に関わる思想と言論の自由の危機」として提示することで、保守派側が、一般の注目と関心を引きつつ、「伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだ」と描き出すことに成功します。
 実際ですね、当時先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。「合衆国全土で言論の自由が攻撃されている。この国土において、不寛容さが増大していること、論争を解決するに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心を持つべきだ」と。1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア、共和党政権はですね、たとえば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのをはっきり足踏みさせた政権です。またHIVSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応でLGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。人種主義に関して言えば国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、このミシガン大学演説の翌年、92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きている。にも関わらず、この演説では政府共和党によるそういう長年にわたる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側の差別に対する不寛容、その差別に対する不寛容が、暴力だ、抑圧だ、というふうに名指していく。つまり、右派が持ち出したポリティカル・コレクトネスというのは、大学という特定の組織が生み出したセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに対抗することを目的とした取り組みというのを、逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような思想・言論への検閲であるかのように見せる、非常に巧妙な言説戦略だったと風に言うことができます。
 この枠組みはですね、既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす。むしろ「多数派こそがポリティカルコレクトネスなる強権的な弾圧というものから言論の自由を守って戦う非抑圧者なのだ」という風に主張することに成功したわけなんですね。

学問の権利法案(ABOR)


 ポリティカルコレクトネスをめぐって提示されたこの図式、すなわち、既存の差別や抑圧への批判を、「それこそが自由の侵害である」として批判したこの図式は、このあと現在に至るまでとりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています。
 たとえば、デイヴィッド・ホロヴィッツによる学問の権利法案、ABORというんですが、これは学問はあらゆる問題について政治的に中立の立場を取るべきであり、学問の自由とは常に複数の観点が提供される環境において成立するという風に主張します。これだけ見れば、リベラルな多文化主義的な主張かな、っていうふうに思いかねないんですが、ホロヴィッツの主張はそれが、これが先ほどの庵逧先生の発表ともちょっとつながるんですけど、それが当該の学問領域においてどれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、特定の問題について異なる見解があるならば、議論の双方の場(?)を教えるべきである。実際にそういうような授業になっているかどうかを、授業内容を調査する仕組みというのを大学は作るべきだ、という風にホロヴィッツは主張する。
 このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるかいなかに関わらず、たとえばナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、そういうものをですね、正当な主張の、学術的に正当な主張のひとつとして教えるべきだ、そういう議論なんですね。だから何が学術的な裏付けのある議論であるかについて学術的コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、ABORは学問の自由を唱えつつ実態としては学問の自由を侵害していると言うことができる。ABORはですね、リベラルあるいはレフトの価値観に大学が乗っ取られていると、ねえ、だといいなと思うんですが、でも乗っ取られている、大学は乗っ取られている、それとは異なる、つまり保守派の主義主張の学生や研究者の学問の自由が侵害されているから、それを守らなければならないという構えを取っています。

プロフェッサー・ウォッチリスト


 ただ、その構えが実はただの口実でしかない、学問の自由というのがただの口実でしかないということが、たとえばですね、もっとあと、2016年に、「ターニング・ポイント・USA」という、これ学校とか大学で保守派の価値観を推進することを目指すアメリカのNPOなんですが、ターニングポイントUSAというのが「プロフェッサー・ウォッチリスト」というのを作っていまして、これを見るとよくわかる。プロフェッサー・ウォッチリストはですね、教室において保守派の学生を差別し、左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録する、ということを目的としています。このリストはですね、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものを当然誘発することになって、先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合ですね、AUPはこのリスト自体が学問の自由への脅威だというふうに批判している。ABORから10年以上経って出てくるプロフェッサーウォッチリストというのは、ABORとは異なってですね、最初から学問の自由というのを活動の根拠として打ち出していないんですね。それにも関わらずそれ以外の点、つまり「リベラル・左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派の学生を守らなくてはいけない。これが学問の自由の擁護である」。そういういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されている。
 ブッシュシニアのミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、差別や抑圧をめぐるこういう「逆転の構図」というのが、ここでは重要な働きをしている。ポリティカル・コレクトネス論争からプロフェッサー・ウォッチリストまで30年近くあるわけですけど、学問の自由というのがどう使われているのかというと、「差別とか抑圧への批判、あるいは対抗の言説が、その言説に同意しない、差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだ」「そういう考えを持つ人々を差別するのだ」という形で抑圧側と被抑圧側を逆転するある種「支点」の働きを担ってきたわけなんですね。

オルトライトとオンラインの男性主義

 抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルトライトと呼ばれる新興右翼、右派ですね、あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
 もちろんですね、「マイノリティ」を鍵かっこつきの「私たち」の背後にある敵というふうに認定する。その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で当該のマイノリティへの抑圧や暴力を、それを正当化していくという、その形というのはですね、もちろんその以前から、たとえば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて、広くですね、見られてきたものではあります。9・11の同時多発テロのあとですね、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラム・フォビアの暴力というのはこういうものだったわけですし、あるいは70年代・80年代に、同性愛者、とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、当時は「性的捕食者」ですね、「セクシュアル・プレデター」っていうんですけど、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散源として非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックなんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
 じゃあオルトライト勢力やオンラインミソジニーアカウント群を巻き込んだ2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす的な(聞き取れない)に認定するだけじゃなくて、マジョリティ側が、力のある側が自分たちを「差別されている」「抑圧されている」あるいは「自由を侵害されている」という形で、はっきりと「私たちこそが被害者である」「被抑圧者である」という形で語り始める点にあると言えるかもしれません。

キャンセル・カルチャー批判

 そういう語りの、今のところ、このあともたくさん出てくると思うんですが、今のところ最新の形が、いわゆるキャンセル・カルチャー批判というものになります。キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは2010年代後半のことで、したがってですね、だから数年なんですよね。
 キャンセル・カルチャーの意味とか語法も現時点で完全に固まっているとは言いがたいところがあります。実際ですね、たとえば辞書の定義を見ても、ケンブリッジ・ディクショナリーだと、「社会あるいは集団とりわけソーシャルメディアにおいて自分を傷つけ侮辱する」、これ「オフェンド」という言葉ですが、「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、あるいはその人の支持、その人への支持をやめたりする振る舞い方」というふうに定義している。それに対して、もうひとつ別の辞書、有名な辞書で、メリアム・ウェブスターなんかを見ると、「不同意を表明したり社会的な圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、このキャンセル行為というのは、公にとりわけソーシャルメディアにおいて特定な人や組織への支持を撤回することなんですが、「集団でキャンセル行為を行う実践」という風にしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
 また、ビューリサーチセンターによる2020年時点の調査では、リベラル寄りの人々は、キャンセル・カルチャーというのはある人に自分の言論に対する責任を取らせるためのアクションと捉えがちである、捉える傾向が強い、それに対して保守派に寄っていく人ほど、同じキャンセルカルチャーを検閲であるというふうに捉える必要がある、ということが明らかになっています。つまりある人々が差別的であったり暴力的だったりするなど、社会的・文化的に問題があると思われる言動を取ったときに、放置しないために取るアクションだ、というふうに考えられているものが、より保守的な別の人々にとっては、これがつまりキャンセル・カルチャー批判の文脈になるわけですけど、そちらの人々にとってはそれが集団での圧力とか、検閲とか、っていう形で理解されている。言い換えれば、キャンセル・カルチャー批判という形でのキャンセル・カルチャーってのはそもそもの最初からしばしば多数派である「私たち」、鍵かっこつきの「私たち」の言動を差別的とか抑圧的などと非難することで、私たちの言動を検閲する、抑圧する、あるいは私たちを差別する圧力というふうに定義される、することができる。だから先ほどからお話ししている「逆転の構図」を含み込んだ用語というのがキャンセル・カルチャーだと言えると思います。

ハーパーズ・レター

 保守派によるキャンセル・カルチャー批判の事例というのは、とりわけ2020年代になってからは、ほとんどもう枚挙に暇がない。毎月のように何か出てくるんですが、時間がないのでここでは学問の自由に関わる、そしてもうもっとも知られた例を挙げておきたいと思います。これ何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。これ一般的には「ハーパーズ・レター」と呼ばれるんですが、公開書簡なんですけど、この公開書簡はですね、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置づける一方で同時に、まあ右派はまずいと、だけど同時に左派のあいだにも異なる見解に対する不寛容が蔓延しつつあるという風にして、より開かれた議論の必要性を説くんですね。
 ここの中、「不寛容」とかそういう表現が先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と用語として微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、とにかくですね、ただまあこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけども、この公開書簡、たとえばノーム・チョムスキーとかサルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなどの非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、この公開書簡、なんでもない、わりとどうでもいいというかふつうのことを言っているように見えるにも関わらずですね、公開されるとすぐにキャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡であるという形で、人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
 実際のところですね、ただこのレター自体を、公開書簡自体を見ると、「キャンセル・カルチャー」っていう用語は、それどころか「キャンセル」という用語も一度も使われてないんですね。じゃあなんで批判が来るのかっていうと、けれども、ここ(スライド)にあるんですけれども、「人種的社会的正義を求める強力な抗議運動や、とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など社会におけるより一層の平等と包摂を求める声というような必要な過去の精算」、この精算というの「レコニング」という言葉を使うんですが、これが「同時に」、それは必要だと、だけど「同時にそれが開かれた討議と差異に対する批判を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまう」というふうに言うと。この表現がですね、とりわけブラック・ライブス・マターを通じて「レイシャル・レコニング」っていう人種的な過去の精算ですよね、の盛り上がりを迎えていた米英両国においては、人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす、キャンセル・カルチャー批判の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
 同時にですね、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた言語学者のスティーブン・ピンカーであるとか、ハーヴェイ・ヴァインスタインの弁護を引き受けたことで学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった法学者のロナルド・S・サリバンであるとか、このレターの、公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言論に批判が集まっていた作家のJ・K・ローリングとか、そういう人たちが名前を連ねていたということも、もちろんこの公開書簡がキャンセル・カルチャー批判の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
 この書簡はですね、先ほどちょっと申し上げたようにたとえば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている、同時にネオコンサバティブの論者であるたとえばフランシス・フクヤマみたいな人も署名しているんですね。つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。にも関わらず、先ほどから申し上げているように、実際にはより若手の研究者とかライターから強い批判が出る結果になった。なんでか。おそらくこれはですね、後者にあたるより若いマイノリティの人たちというのは、学問の自由とか言論の自由の擁護というのが、近年では力のある地位にある人々が自分たちの差別的抑圧的な言説の責任を問われたときに、その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっているということを感じ取っているのに対して、フクヤマにしてもチョムスキーにしてもある程度地位が固まった、えらい人たちっていうのは、その事実をあまりきちんと把握できていなかった、ということではないかと思います。

サラ・アーメッドの指摘

 この枠組みをですね、非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるサラ・アーメッドです。2015年のブログ記事でアメントはガーディアン紙に掲示された、これ別の書簡なんですが、これも公開書簡です。「個人に検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。この公開書簡はですね、英国でのいくつかの例を取り上げつつ、トランスジェンダーについて、あるいはセックスワークについて、特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、大学で沈黙させられているという風に主張するものでした。
 ちょっとここわかりにくいんですけど、イギリスの2015年の、英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でもいわば「多数派の側」になります。アーメッドはですね、公開書簡で取り上げられている例というのが、実際には特定の見解を理由とした検閲だったり「ノープラットフォーミング」、ノープラットフォーミングっていうのはですね、これイギリスの運動なんですけど、イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れがたいと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかですね、そういうものを公開する機会そのものを提供しないっていう、そういうものがノープラットフォーミングと言われるんですが、ただアーメッドはこの公開書簡で取り上げられている例が実際には検閲とかノープラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、にも関わらずこれをあえてキャンセル、検閲、口ふうじ、ノープラットフォーミングという形で主張することで、どういう効果が目指されているのか、という風に問います。
 これ(スライドに移された文章)、アーメッドの引用なんですが、「誰かがノープラットフォームにされたというために、そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、口を封じられたことについて延々と話をしていたりするときに、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは権力のメカニズムなのだ。つまり、検閲された口を封じられたっていう主張それ自体が、検閲された口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされている。だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされること、ということはここではむしろ求められている」。キャンセルされたいんですね、どっちかっていうとね。
 次の引用ですが、「自分が常に抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。侮辱的な」、これ「オフェンシブ」ですね、「言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで我々の自由が制限されるのだ、というその証拠を望んでいるからなのである」。だから、キャンセルされるとキャンセルされた人ということでどんどん力があつまるので、むしろキャンセルされたい、キャンセルされるためにより侮辱的な、よりオフェンシブな言葉が発せられるという、そういう仕組みができている、というのがアーメッドの見立てなんですね。

おわりに

 学問、あるいは言論の自由というものを支点とした抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、あるいは道具としての学問とか言論の自由の利用っていう。今日の報告ではですね、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた要素というのを、ざくっと見てきたわけですが、その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された、口を封じられた、という主張が、実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している。(聞き取れない)の時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだっていうことになります。だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済、あるいは社会規範の要請などから学問の自由というものを守ると同時に、現代の、今2022年時点の学問の自由というのが諸刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを忘れてはならないと思います。
 最後にですね、こういう自由の濫用というものをサヴァイブするために、アーメッドが提唱した戦略を引用して私の報告を終わりにしたいと思います。「この書簡は、」先ほどの公開書簡ですね。「この書簡はフェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。ところが、トランスフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと、討議あるいは対話をするとしたら、討議や対話はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが生き延びる戦略になりうるのである」。
 ありがとうございました。



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