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政治広場史 第五章

  第五章 近代前半(西暦2012年頃~西暦2013年頃)

 愚痴広場史概略

 愚痴広場は続愚痴広場時代から、複数の登場人物がおりいくつかの出来事があったが、それらの詳述は将来書かれるだろう『愚痴広場史』にゆずり、ここでは政治広場史と関連深い事物のみ追おう。

 愚痴広場でもっとも政治広場と関連の深い人物はまよちゃん(タム、汰ム)である。というのも、この人物は東京一極集中の弊害批判という政治論の立場においてレコナーと協働していたことがあるからだ。この人物を当論考ではタムと仮称する。レコナー登場後のしばらくのあいだ、タムは愚痴広場が過疎化するや政治に馳せその事情を観察していた。そして勇者となって帰ってきたレコナー再登場後は、最初のガルマ同盟会議が愚痴広場のベンチで開かれ、タムはここに仲介役として在席していた。しかもその後、タムは愚痴における同志としてレコナーの精神的な補佐に有能な役割を演じた。

 また次に政治広場と関連の深い人物は、ダルマ(ほか数多の名義を変えながら用いる)である。この男は群馬人の20代後半、かなり太って怠惰な映画熱狂者であり、いわゆる奇人変人の類の性格をしている。日大の芸術学部に合格したが東京は肌にあわなかったのか、老祖母の介護を名目に自主退学し、群馬の寝たきりの祖母の家で二人暮らしをしている。なるほど孝行息子の類かと思えば、映画を毎日むさぼり観る以外はほぼインターネットで弱者と彼が考えた人たちを揶揄して遊んでいる。老婆の年金に寄生しつつ大食漢で、一食あたり複数のカップラーメンを平らげてはひき蛙のようげっぷをする。事実、この状態を人々は、彼のおこなっていた趣味のインターネットラジオの配信の際に何度も聴いて、食あたりの時のような表情を浮かべていたものである。ダルマが政治広場の歴史に具体的に参画してくる前に、といっても間接的にそうなのだが、1つの愚痴広場史上の逸話を出したい。それは愚痴広場第一の伝説、ぽいうのことである。ぽいうは天才詩人であり、しかも愚痴広場史上で最大の人気を誇った愚痴の英雄である。ぽいうについての詳細は将来かかれるであろう伝記、『ぽいう伝』にゆずるが、ここでは彼の用いる現代詩の数節を引いてその天衣無縫の技の一部を読者に開陳しておきたい。

 新年明けましてテメーら全員しね

 昨年は皆様方に大変しねばいいのにと思いました

 神のおぼしめしだ……コロすんだろうが結局……

 it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)

 なんつってる間に10時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ

 it'a true world.って、なに言ってるんですかねあたし///

 たしかに俺は天才だが貴様らには関係のないことだ……

 なにこれ……もう大好き……大好きこれ……大好きすぎる……

 えれぴょん……えれぴょん……えれぴょん……えれぴょん……えれぴょ

 そろそろ2012年も終わるっつーのに何なんだお前らは……

特にit'a(イトア)と謎の英語もどきを用いるところからも、彼の天性の詩才、この上ない素質と彼一流の素朴ぶりがしれよう。前述のタムは他の愚痴民同様ぽいうファンであったが、ダルマはぽいうに一度も言及したことがなかった。これはそねみの為であるとおもわれている。ダルマは、続愚痴から続く不動のぽいう時代には殆ど目立たず、ファン等はつかず、愚痴においてはぽいうの人気に気圧されぽいうの周囲をうろついている程度の存在とみられていた。ところがレコナーが愚痴広場においてぽいうと交友を持ち、友情を結んだあとで雌伏時代となり、その頃ぽいうも引退した。ぽいうはレコナー同様茨城人であったとされ、政治一の人気を誇るひとかどの人物と愚痴の英雄が同時に引退した(しかしレコナーに関しては実は雌伏していた)ために、一時的に広場の2大都会は混乱に陥った。他方で、その後の愚痴広場はダルマの支配するところとなり、愚痴史からはダルマ時代、あるいは価値評価を含む愚痴倫理学の立場からはしばしば暗黒のダルマ時代と称される。ダルマは恐怖政治を敷き、手当たり次第に弱者とみなした相手を恐喝あるいはいびることで愚痴の専制君主となりあがっていった。まゆや、麗美など複数の被害女性らは愚痴からいびりで追い出されて或いは深く心を傷つけられてダルマをうらみ、にくみ、復讐を誓い、レコナー再登場後に彼へダルマ討伐を依頼するのである。

 愚痴にも頻繁に出現する通称かっぱことユキハマは、政治と愚痴を渉猟する軟派で、既婚と未婚を問わない女性との交流や現実での出会いを目的に広場を徘徊してきた。のちに彼といざこざを起こす京都の既婚者たま(たま。)はダルマが慕う唯一の人物で、既に子がいる主婦のたまと、独身の変人ダルマは擬似的な母子のように振舞ってきた。ダルマは軟派のかっぱを女々しく陰湿さが酷いとその著『愚痴地図』において評しているが、確かにかっぱは後に、レコナーへ色々な手管で女性関係がらみの冤罪的な嫌がらせを行い、かつ後味の悪い始末のつけ方をした(勿論わけなくそうしたのではない。彼の心理の詳細は、将来かかれるはず童話『かっぱ』に詳しい)。また実際には政治広場史の立場からはかっぱのみならずたまも多少あれ同様の人物とされる。あるときレコナーが首都圏における水戸の伝統思想に果たす役割を解説したところ、たまは平安時代から相も変わらず京都中華思想を奉じレコナーの説をひたすら貶すのであった。たまがいうには、京都が水戸と比べられるのは京都を馬鹿にした説であるといい、京都人は他の地域と同じ価値尺度で比較対照されたり評価されるのを最も嫌うという。これをたまの水戸毀損という。爾来、2ch文学板で京都の通俗作家らからひどい名誉毀損を受けてきたレコナーの中で対京絶滅政権を期した水戸を首都にする意向はますます固まり、数万年の縄文文明に対比させそれより続く万年帝都を構想していくのであった。

 要人ナオと雌伏時代の終わり

 レコナー時代初期にレコナーへ政治広場で話しかけてきた、長野県民で病の前歴を持つ有閑層の女性ナオという要人がいた。彼女は年齢にしてほわや、千葉の芸大卒漫画絵描きちくわ、京大卒のテロリスト志望者にして自閉症を持つさよこ(sayoko)、兵庫は芦屋風の富裕層マダムおりんと同世代と目される。ナオはその当時すでに広場で懇意となっていた、東京下町の生まれ育ちで性に下卑た中年、浮気男ルチャについて、レコナーを部屋に呼び込みくりかえし相談した。レコナーは持ち前の男気から飽くまで穏やかに相談にのり、真剣に話を聴くと同時によく考え、適切とおもえる忠告をナオへ親身にくりかえした。ある時、ナオはルチャを部屋へレコナーと同時に呼び、ルチャの前でナオはルチャを捨ててレコナーをとるといったような芝居に出た。その時ルチャは、浮気性の彼にありがちな態度だがナオを頼むといって有難そうに出て行った。これをナオの一芝居という。のちの現代、西暦2015年のゴールデンウィークにルチャが広場へふらりと立ち寄って再び軟派な振る舞いで女性らを追い掛け回していた際、レコナーがルチャにナオの一芝居の際の対応の真意を問いただしたところ、およそ記憶していなかった事から見ても彼の生来の軽薄ぶりがしれよう。がナオは当の軽薄男に猛烈な執念を燃やした。浮気性と婚姻関係になったり、付き合ったりするのは困難を伴う、とレコナーはナオに対して常識を打ちながら、またレコナーの東京生活は都内に地元ほど自然がないのに都会特有の害虫に悩まされ過大な人口から人々が俗悪であるなどの面で過酷であった経験からも、ルチャを追って東京に行きたがっているナオには長野での自然と調和した暮らしの方が次善ではないかと諭したりした。これらをナオの相談という。その相談にのった期間はレコナー初期時代の殆どを割くほど長く、レコナー再登場後も含めれば彼の彼女への親切は実に膨大な労力と時間にのぼるにもかかわらず、精神病質を持つと広場の精神医学に知識ある人物らから分析されているナオは、レコナーを逆恨みしていくのである。これをナオの逆恨みという。

 レコナーが広場を去ってからというもの、政治における求心力は失われ人々は離散していった。同時に、イトキチ曰く「ミイラ捕りがミイラになる」事態であったイトキチとモチタ、ホメ、江田島ら古参による相互中傷合戦は果てなく、ひたすら悪行が蓄積されていった。ちゅんやたたしはもとより野次馬を超えず政治・主張の両広場から消滅し、ななは密かに気に入っていたレコナーが去ったと思った事からもログイン回数を激減させ、また資格試験の勉強に集中するようになった。ハシナオは横暴を極め、付きまとい行為と人種差別発言の嫌がらせをくりかえしたローゼンを広場から追い出したがそれまでで、彼の粗暴を向ける目ぼしい相手がいない事から漸次、ログイン回数を減らしていった。こうして古参らが再び合戦を繰り返す事ととなり、このレコナー雌伏時代の一時期を空白期あるいは空白時代と呼ぶ。

 レコナーはやがてなな一派が下火になりつつあった機会を見計らって、再生した。新たなアバター名は勇者レコナーで、なな一派の完全退治を目指し広場政治活動を再開した。これは表向きの理由で、レコナーはある時、かつて相談にのったナオのその後が気になったのである。そしてナオの現状を聞き取ると、彼女がレコナーの誠意ある忠告を聴かず東京にひっこし、ルチャと接近したがっているのを知った。

 ガルマ・レコナー同盟時代

 新たな政治体制を模索していたレコナーは、ダルマ時代となっていた愚痴広場のベンチにしょぼくれた顔つきでたまたま座っていたガルマとこれまでの広場史を誠実に議論しあい、政治広場における政の主導権奪取を期し同盟を結んだ。これが世に言うガルマ・レコナー同盟である。この際、東京電力の傲慢な体質や一極集中、そして退廃的な大都市文化への憂いをレコナーと共有するタムが仲介者となった。彼らは政治においてなな一派の残党狩りにかかるやただちに成功、やがて唯我独尊状態のホメと、モチタにつるむイトキチ一派と対峙した。傍若無人な振る舞いを続け広場における内乱の根源因となってきたホメの傲慢を退ける為に、レコナーは当時のホメがmixiを通じて結んでいた現実の不倫関係をあえて注意せず黙認する方策をとった。さらに、復讐心の強いホメを意図的に挑発し、何度もそれを繰り返して面倒と感じさせ広場にいづらくした。これは、モチタがしていたのとは逆の方法でホメに自業自得の悪行を加速させ、すなわちホメのおこなう不倫の業にホメ自身をのめりこませて広場の脅威を除去する戦略で、実際にホメはこの後、半年から1年ほど広場から引退するのである。レコナー自身がホメに手を出さずにホメの自壊をいざなう戦略をホメ自滅戦術というが、これはほぼレコナーが短兵急に実戦であみだしたもので、ガルマは感知していなかった。ホメは広場の近代前半、すなわち2012年の前半から2013年にかけてこの方略をもって、ホメ自ら進んでおこなっていた現実の不倫関係の清算に追われ、ついにはクリスマス前に近所の教会に駆け込んでゆるしを請う地点までおちぶれた。ホメ戦争以来、モチタやイトキチの悲願、ホメ征伐は奇しくも英傑レコナーによって一時は成功を収めた。なおこのとき、現実政治において東京地検や東京のマスコミュニケーションより冤罪にかけられ苦しんでいた小沢一郎氏を擁護していた親福祉的なレコナーを、ノンポリのホメは誹謗していた。この頃、ほぼ同一の政治信条によってレコナーの同志となっていたコーヘーがいた。レコナーの改革派の主張を非難していた自民党信者で、当時は新自由主義の狂信者であったにゃこぶと連携し、ホメは、コーヘイを含むレコナー派を2chや広場での誹謗中傷などで弾圧していたのである。そしてにゃこぶの方は、1年後に自民政治が彼女の望みどおり確立されはしたが、かつはなはだ現実政治状況がレコナーの予想していたとおり庶民に苦しくなってのち、当の庶民であるにゃこぶは自殺願望をさえ語るようになり、当時は同一の新自由主義信奉者であったとつげきの家で、後述するとある自殺未遂事件を起こすのであった。

 次に必要なのがナチスト組織・反RECKONER2同盟(以下、略して反同盟)の残党洗浄だったが、既に根が臆病なロジコはレコナー仮想自死と聴くと縮み上がっていた。レコナー再登場後、ロジコはなな一派による過去の業の一切を側近の命じた事であったとるくへ全面的に責任転嫁し、下心からLINE(ライン、手紙を複数人とやりとりできるSNS)で出会い行為済みのななを擁護した。また復活後のレコナーから集団虐待等の因業を責められ弱ったロジコは、なな一派で最大の内ゲバルト分子として機能していった。実は、そうなった背景事情として次の逸話があった。ロジコは彼の就職後の初任給を用いて取り急ぎ神戸にて性犯罪を犯したばかりか、それを当のレコナーに向け「レコナーどん、性売買はいいぞぉ。今度一緒に行きましょうや」とあまつさえ勧誘までもした。この国法に触れる下賎な喧伝を目撃していた広場民らからるくへ同内容を密告され、ロジコを軽侮し始めた硬派のるくとロジコは、なな派閥内部で表面には見えない根本対立が生じていた。かつななは慈愛のつもりで職権平等とし、以前から娼婦の商売(行政府から泳がされているが本質的に違法)を弁護していた事があげられよう。また反同盟首謀者ちゅんはレコナー仮想自死後に即時逃亡、しかも彼が以前は支持していた橋下徹の率いた政党が大阪府内の選挙で漸次落選すると、途端に彼の独裁者たる手のひらを返し、今度はレコナー迫害の業も収まりきらないうち当の府知事を大阪のみならず関西共通の仇、とまでにのたまわり始めた。たたしは相変わらず女を漁り、北海道の美麗な片母ナスケとも接近していた。が、のちレコナーがこの女性と親身になるや、たたしは他に複数もっていた同時的な女性関係をレコナーから指摘され大いに焦った。こうしてたたしはナスケと再婚するかもしれないとしていた口だけの約束を、彼女へ面と向かってまで破棄した。しかも、ほぼ同時期に力を取り戻したレコナー派からの報復のみならず、彼が偽りの乙女憲法などでふざけて火種をまきつづけてきた因果から、主張や愚痴などに遍在していた悪戯半分の追放勢力にも一挙に追われ、事実上引退するのだった。これらを政治広場史においては反RECKONER2同盟の顛末、または単に、ちゅんナチスの敗北、反同盟敗残などという。

 他方、ガルマはイトキチの退治にかかり、単独での直接対決を挑んでいた。しかしガルマは攻撃性に欠ける性格で、イトキチの巧みな虚偽の弁や懐柔策にかかり、イトキチを責める意欲の外堀を埋められていった。遂にはイトキチ一派の病人まりーんや、当時は隆盛を誇った性悪の女傑メイプルらと、モチタからさえ囲い込まれたガルマは戦闘意欲を失って、議論の際に期せずイトキチと事実上の講和に至ってしまった。これを広場監視中に目撃したレコナーはガルマが敵側に寝返ったと判断、ガルマをも迎撃対象としてイトキチ一派への殲滅活動を開始。東軍の大将レコナー自らガルマ同盟を破棄した。こうしてガルマ同盟破棄を皮切りにホメ一時消滅後の政治広場において、空前絶後の世界大戦であるレコナー・イトキチ戦争、別名・政治広場世界大戦(単に大戦、政治広場東西大戦、序盤を第一次大戦かつ終盤の残党狩りを第二次大戦、決定戦を関が原の戦というなど、さまざまな名称がある)が開幕したのである。この期間は長きに渡り、およそ2年以上つづくことになった上、それまでの広場史上で最大数の闘争手法と最大種のサブが投入され、また2ch上でも問答無用の炎上が相次いだ。先に結論から記せば、この大戦は東軍大将レコナーと西軍大将イトキチの激戦であったが、東軍が勝利した。以下に事の詳細を述べよう。

 第一次政治広場大戦

 勇者アバターとして復帰したレコナーはガルマ同盟を打ち切ると、イトキチ(正式名はローマ字でItokichi)らが開発してきたサブによる監視システムを摂りこみ自らも最大限に利用しだした。また、2chにおける監視での広場民誹謗(この頃、既にイトキチのミイラ捕りはホメとジェイの不倫を対象に揶揄していた時代をはるかに超え、全広場民を虚偽情報を込め侮辱しまくる極性に至っていた)というイトキチの手法を逆手にとり、2chでの応戦は主犯格であったイトキチ単体を公益通報の為の犯罪批判という正論で叱る事のみに限定した。この期間をレコナーのイトキチあぶり出しという。政治と愚痴をまたぐ遊び女のもっちぃが「カトキチ」といううどん会社名でイトキチをよびならす事を援用、カソキチという正体不詳のイトキチ迎撃用コア・アバターをレコナー派が使い出だしたのも、この頃である。イトキチにとって2ch悪行を暴露し致命傷を与える証拠をブログに記述済みのこのカソキチと、秘密兵器の政治くんというロボット兵器2体がイトキチ一派に大打撃を与える結果となった。

 話はうってかわるが、レコナーは私生活において、彼の高校時代からの親友が結婚し子を儲けた事を知り、感じやすく繊細な心をもつ彼はなおさら孤独におちいっていた。戦士は孤独なもの、ある時たたかいに疲れ、アメーバ・ピグ上の酒場に立ち寄ると、そこに一人のうら若い田舎娘がかわいげのある舞いを踊っていた。それは彼にとって初々しくみえたため、かつて旅行で訪れたこともある自然深い青森県民だという娘に声をかけてみたところ、彼女はおそらく先天的である自閉症をもつ高校3年生のはずの齢の人物で、ニートの酒場と呼ばれた場所で寂しげに過ごすほかない立場とのことだった。彼女はのちのレコナー王・正室ミキ(Miki、とうほくのぺんぎん)であり、その天性の優しさからミキは、戦いに疲れたレコナーの心のよりどころとなったのである。その頃のニート酒場ではミキのほかに、ある虐めっ子集団がたむろしていた。水戸っぽの例に漏れず正義漢のレコナーは然るべく、この集団の最上位者である陰湿な京女ちゃんももと対立していった。ちゃんももは弱い善人に対する集団虐待の癖、あるいはレコナーを奪ったに等しいミキに嫉妬しミキへ濡れ衣を着せることでミキとレコナーの間を仲違いさせようと画策するなど、数々の謀略をレコナー側に仕掛けた。高校時代に友達から誘われ障害者福祉施設に奉仕活動へ行った経験を持ち障害への偏見をもたないレコナーは、ミキという社会的弱者と考えられる立場の善女へちゃんももの仕掛ける暴虐をはなはだ憤り、数時間をかけてちゃんももへその行状を改めるよう激しく説教すると、それまでちゃんもも一味を形成していた酒場の連中はレコナーの勇気にいたく感銘を受けてかれへ寝返り、ちゃんももを酒場から排除する運動を始めた。こうして世にいう酒場維新がおきた。その場の千葉娘・こくっちに恋心を抱く埼玉人男性ねこにゃんの派閥が、結果的に勝利者となったのである。

 レコナーはミキをつれて酒場を去ると、ミキにできるだけ安全地帯の多い愚痴広場にとどまるよう忠告しながらも、果敢に愚痴隣国である政治広場のイトキチ一派を奇襲した。その当時のイトキチ一派はレコナーを通じて状況を把握したミキのサブアバターなどの参戦に加え、影の協力者で北海道の賢女snowや広島の古参まみーから多くの情報提供を受けていたレコナー派の猛攻に押され、1年半以上をかけた常時複数のサブアバターを駆使した空前絶後の大合戦の結果、重要な片腕として働いていたメイプルを失った。あるいはほぼ無能で中立な紛らわしいフール派閥の構成員とイトキチ一派は徐々に切り離され、遂にはイトキチ、まりーん、くろすけ、そしてモチタという4人のみに刈り込まれた。ここで、レコナーの雌伏時代にも継続していた愛郷の趣旨が記されたブログを発見したオデンヌは、みずからの排除の意図でレコナー仮想自死と知ってやりすぎたと後悔していた矢先にその内容と誠心に感銘を受け、かつ以前の無礼講を反省してレコナーに進んで協力を申し出た。これをオデンヌの改心という。主張女王の参戦した最終戦争のさなか、レコナー派は徐々に勢力を強め、かつての政治広場民の蛮族ぶりに憂国の情を感じていた愚痴の実力者・タムをも味方に巻き込むことで最大の戦闘力を獲得した。ガルマの方は、同盟断絶後、レコナー単体へは報復的であったが、レコナー派とイトキチ一派のサブによる空中合戦については詳しい情報をもたず、仲間がたりず分析もできない為にレコナー派の体力や気力、兵数を削ることいずれにも成功しなかった。ホメ消滅中に、オデンヌやレコナー、ミキらのサブを含む軍隊から断続的に続く2ch犯罪禁止の勧告を受け続けたイトキチは、広場での慣例となっていた昼夜を問わないモチタやまりーん、ミューデ(改名後のもかP)らとの広場民あるいはレコナーへの揶揄活動にも支障をきたし始め、ついにレコナーは2013年中にイトキチのみを実質的な2ch犯罪開始の真犯人として炙り出すことに成功した。そしてレコナーとミキの信義へ、性売買等、埼玉で周りの悪習に染まりやすくはあったがもともと信心深い善性もあったくろすけも徐々に感化されやがて西軍から東軍へ寝返った。それまで、イトキチは当面の嘘をつくことでイトキチが2chに書き込みをしている主体ではないよう広場民へ装っていた。しかしレコナーはなな時代の後期にサブ監視による空中合戦中に掴んだ、ななとレコナー、そしてイトキチの3人しか広場にいなかった際のななとレコナーのやりとりに関する、イトキチの嫉妬発言の2chへの書き込みで犯人がイトキチだと確証性をもっていたので、それを補完する証拠をイトキチ挑発によってあげつらうことにミキとともに傾注した。ミキと手分けしての24時間体制での広場監視と、最終兵器のロボット2体をも駆使したレコナー派はイトキチに最終決戦を挑んだ。こうして総合戦力の差がはっきりつき、イトキチにはなんらの共感も同情もしめさなかった利己的なモチタの無力が彼女自身のイトキチを置き去りにする敵前逃亡によって露呈され、ついに西軍の総大将は降伏した。政治広場の最上部にある見守りの看板前でレコナーとミキがイトキチを説教し、イトキチはおのずと堪忍し背後を向き、東軍大将のレコナーに降参の姿勢をとった。背後から縄をかけることに成功した時の記録写真は、イトキチの本心が広場荒らしではなく、はじめはホメの不倫批判であったこと、そしてモチタとの連帯が相互に2ch犯罪の押し付け合いという堕落をいざない予期せぬ末路にいたったという悲喜劇を物語る。イトキチはすべてをモチタの犯行であると責任転嫁することもできたが、そうしなかったのである。これをイトキチの降参、あるいは西軍大将の降伏という。なぜこの戦いを東西の名づけで呼ぶかといえば、自称弥生人の末裔であるモチタは山口、まりーんは京都、大阪の総大将であるイトキチが指揮する西軍に対して、レコナー派は出自不明のタム(しかし初期の話題から、レコナーは彼が岩手であると考えてきた)を除けば、茨城の総大将レコナー、青森のミキ、宮城のオデンヌ、埼玉のくろすけと主要勢力がおおよそ東西に分かれて総力戦をおこなったからであった。他に中立に近い勢力として、レコナーによる総攻撃で満身創痍を負い途中で戦線離脱したメイプルは関が原より東の愛知、大戦の序盤は東軍だが後半は中立からやや西軍寄りであった北海道のガルマが存在していたにせよ。これゆえに、看板前の降伏という広場史実をもって、徳川と毛利の東西軍が最終決戦を繰り広げた日本史実に習い、関が原の戦いとも称される。こうして勝利を収めたレコナー派は、政治広場史上もっとも華やかなレコナー王政時代を迎えるのである。

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