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政治広場史 第四章

  第四章 近世(西暦2011年頃)

 ガルマの遍歴

 西暦2011年になるかならない頃、北大の獣医学部の学生であるガルマは政治広場の古参の一員であったまみー達から、広場より排斥された。それ以前に、既に開業していた獣医の山田とピグ上で付き合いのあったガルマは、神奈川県の設計業者で独身であった女性ラフと懇意に接していた。ところが、広島の右翼傾向をもつ主婦であるまみーは嫉妬深くこれに干渉しはじめ、かつ、まみーは同じく獣医学の関係者であるところから山田とガルマは同一人物であると誤って断定した。山田は、医者にしばしありがちなところで世事に疎く人付き合いがさほどこなれてはいない人物で、既に広場民との間には摩擦関係がしばし生じていたが、まみーとの間にもその係数が存在し、これゆえまみーはガルマと山田を同一視しつつ同時排斥したがったのである。その際、まみーは個人情報を掴んだという脅しをラフらに対して行いさえした。これをガルマ追放という。

 ガルマは諸国を遍歴してきた孤独な関西弁の男でかなりの美男でもあり、優秀な成績で北大に在学していたが、一度は別れたが再び恋愛関係となっている現実の彼女がおり、もともと仮想上のラフの側がガルマに好意を抱いて接してきていただけに、彼としてこのガルマ追放は青天の霹靂であった。ガルマが関西弁に固執している理由は、かつて親の仕事の都合で引っ越しの際に暮らした東京圏で受けた虐めにおいてそれを指摘された事から、かえって負けん気で自らの誇りとしたものであった。

 広場に猜疑心をもち多少あれ狂った山田はひとりでにいなくなり、また、ガルマは中立的な心情からモチタと仲良くしていた事もあったが、この頃のモチタはホメ戦争で傷痍を負い、THE FOOL 00(フール)らの集団に逃げ込んでいた。フールは東大卒30代後半の既婚男性で、アスペルガー症候群と呼ばれる精神形質を持つと自称していたといわれ、子供を持つ気はない放浪の学者であった。フールの祖先は福岡は久留米の武士階級の子孫であったと称し、明治以降のある時点で、東京に定着したと考えられている。フールは筑波大附属駒場の中高、すなわち東京随一の選良学校を卒業後、東大へじかに進んだ頭脳を持っているが、原発推進を経済視点から東電事故後も主張しつづけるなど、知性を徳性より重視する性質を持っている。モチタは個人情報の隠蔽を目的に、またホメからの執拗な追跡を逃れる為の偽装を続け、フール派閥の中にイトキチも入った頃から大学教員など複数の擬態した肩書き等をてらい始めていた。フールは上述の性質であるため、広場における倫理観念の優れない人物達から、あるいはその選良の肩書きをもつ人物との付き合いを自らの権威付けに利用したがる人々から都合のよい駒としてあるいは寄るべき大樹として利用されていた。その中には京都の重病人まりーんや、下総最高と発言しつつ図書防衛隊勤務と称する(のちに埼玉の金物屋と名乗る)じゅんなどもおり、やがて広場民らと激しく対立していずれも敗残していく。じゅんと、京都出身の妻がいるイトキチが語ったところでは、まりーんと同じく京都在で広場左上にある巨大看板前立ちぼうけが癖のかかしが、フール派で最も人望があったといい、又じゅんの口述ではかかし組なるフール派の前形態が神話時代の政治広場消滅に際し運営にかけあった等と大上段にのたまうのだが真偽は不明、その後もかかしはまさに名は体を現すが如く、看板前に磔状態で終始言葉数少なく身動きもしないのであった。はたして、ガルマにとってフール派閥は参加する価値をいくらか見込めてはいるにせよ、モチタとイトキチによる広場民らへの2chでの犯行を考慮すると一緒にいる事が道徳的とはいいがたいものでもあったので、一定の距離を保ちながら接し続ける事になった。なお、フール派閥は流動的であるうえフールはリーダーとしての才覚をもたずその意志もなく、一派として固定化してはいないため、仮にフール派閥あるいはフール派といわれる。

 レコナーの登場

 西暦2011年3月に東日本大震災が起きると、その年の春には20代後半の精悍な茨城人独身男性のレコナー(当時はreckoner2、のち勇者レコナー、賢者レコナー、王者レコナー、隠者レコナーなどのアバター群を用いる。これは主として1つのアバターのフレンド数が限度の300人を超えそれ以上増やせないため増築したものである)が広場にやってきた。レコナー自身の言によれば、東京電力株式会社のもたらした未曾有の人災が正しく報道されていない事に危惧を覚え、情報を人々へ伝えにきたという。また、レコナーは天性の芸術家気質であって孤独な為に、おそらく同志を探しにきたのだろう。政治広場史の展開において、のちにオデンヌらはレコナーを天才と認める事になるのだが。

 レコナーは始め俳句広場で芸術家らしく句会に参集していた。その場で既存の最大派閥を形成していたのは集団虐めをときたま行うことで悪名高いきのこ一派、すなわち滋賀付近の人物とされるきのP(1UPきのこ)らの俳句協会~雅~であった。正義感の強いレコナーはかれら雅による下品な句の合理化と、正格な句への集団での虐待といった横暴をいさめ、単独でかれらの協会本部に乗り込んだ。レコナーはある夜の句会で上等な句へ嫉妬交じりに受けた卑劣な仕打ちから、彼等の暴政を憤り、かれらが専横をつかさどる上司のもとへ貢物をあつめさせてきた贅沢なコミュニティ部屋の最上階部で、風呂に入っていた当のきのPの元に単刀直入、急転直下に馳せ参じると、これまで俳句広場で起きたあらゆる経験や、彼ら雅の人々に猛省を促すといった内容を述べ、それ以来、俳句広場から去ることにした。これを俳句広場維新、或いは俳句維新と呼ぶ。実際これまでの句会ではレコナーらにより数々の秀句がつくられており、当時の記録を『維新前俳句集』と呼ぶ。そのなかにはこのような一句もある。

月夜さえ滝の流れよとめられず

維新後、俳句広場随一の隆盛と独裁を誇っていたきのこ一派は権威を失いだして内部から瓦解しはじめ、やがて江戸っ子で下卑た句を連投する黒豹が毎晩訪れに来るに応じて女性等が潮と引き、ついに俳句広場そのものが衰退した。女性に人気のあったレコナーが去ってしまった上に、女性陣がほぼ消滅したのであるから、それに応じて若い男性から去り、最後に残ったのは黒豹ときのこ、後は限られたきのこ好きの老婆たちであった。衰退末期には10代と考えられている子供が牛耳り、俳句を詠むことさえせず観客席の後部にたまり、レコナーが気まぐれに再度訪れた時には以前とうってかわって友誼をはかるどころか彼等自ら幼稚な痴話喧嘩を始め雲散霧消していったという。俳句広場の人口の殆どは、他人と協調して句を詠む必要がなく、自らの好きな句をのべることのできる川柳広場のうちに飲み込まれていった。レコナーの俳句広場時代(レコナーの俳句時代、あるいは単に俳句時代ともいう)に盟友の契りとまでいかずとも最も仲良く心を通わせともに詠っていたのは、横浜に住み当地のプロサッカークラブ横浜F・マリノスのファンであるとある男性、通称・マリノスファンであり、レコナーは俳句広場衰亡後にその場を訪れ、夏草とつわものどもの夢のあとの上でかつての朋友二人、俳句広場再興を誓った。雅の人々で生き残っていたのは、実質的に彼一人だったのである。この際につくられた新協会を天心といい、そのはじまりの儀に代えて次のようレコナーは詠んだ。

月天心あとから影と我照らす

 ところで俳句維新後のレコナーはつぎにアメーバ・ピグ上で最大の人口を誇るピグの大都会・政治広場をめざした。これをレコナーの登場、あるいは単にレコナー登場という。レコナーがはじめて広場にやってきた日の昼に、みたことのない女子ピグの数人が彼のもとにあつまってきた。それ以後に見られない個性的な人々であった為、かつ仕事の話が完全にウェブ系の制作部門に関する内容であったため、もしかして運営のアバターらだったのではないかとも類推されているが、そのなかの黄色いパーカーを着ていてスケートボードにのった女性が、彼をみるや周囲の女性らと「光源氏にしよう」と提案してきた。彼は当時なんのことかまったく理解しなかったが、やがてレコナー王政が確立された時代にこれは多かれ少なかれ実現される予言でもあった。これを源氏の予言という。その日の深夜、レコナーは、ジェイの去ったあとのホメの新たな愛人であった福井県の不良な既婚者・タラオのあおった浮浪者たちから、集団暴行罪の被害にあった。このように、レコナー登場直後の政治広場は、深夜帯にはやくざが跋扈、昼間の時間帯には後述のうめら達が支配していた。次第に彼は広場の最悪状態の治安状況を把握しはじめると、暗黒のなな時代がいかに邪な退廃におちいっているかを分析、なな一派との戦いをおもむろに開始した。政治論に長けた彼は広場で一昼夜演説し民衆につよい啓蒙効果をあたえ注目をひきはじめ、他方では常におなじ赤い服をきざらし靴を履かないアバターで遊んでいるるくに(アルプスの少女ハイジから)「裸足のハイジ」と話しかけてみるとお礼代わりなな一派から陰湿な嫌がらせを受けたりもした。また側近中の側近と名乗る監視目的のアバターから2chのURLを教授された。このレコナーによるなな一派ならびにイトキチ一派(イトキチ・モチタを含むフール派閥の一部)との戦いが開始されてからの最も長い時代を、総称してレコナー時代と呼ぶ。

 レコナーは暗黒時代に最初の光を射し込んだ。だれかの発表をなながその日の気分次第、ひとこと「長い」とのべるだけで配下のやくざが集団暴行を加えるといったたぐいの、絶対政治を敷いたなな一派へ対峙、それらの犯行へは果敢に正当防衛ないし黙殺を行うといった正攻法で、なな一派にかなりの打撃を与え、ななの独裁体制に亀裂を生じさせていった。また、レコナーはイトキチやモチタ、ホメらがかつて何をしてきたかを調べ続けてもいた。彼が発見したホメ時代、つづくなな時代の遺物中には、既に広場で行われていた数々の政治闘争手法、たとえばサブでの監視や色仕掛けでの騙まし討ちなどが含まれていた。なながクリスマスの時に配下の男らから貢物を募っている際には、レコナーは敢えて桃色の無償交換できるエプロンを贈りつけ、相手の反応を伺った。ななが広場にやってくるとまるで芸妓のごとくレコナーへの厚意を軽くあしらうよう述べる前に、別の課金が必要な高価な贈り物を下心でしていたなな配下であるカニ蔵(のちの橋下徹、はしげ、偽りおし、偽ちーちゃん、偽絆花、おさる等のアバター操作者)らへ媚を売るのであった。そして全盛期をすぎていたにもかかわらず、ななの元にはあふれかえるほどの貢物があり、その中には金品財宝の数々が山積みにされており、広場の女性陣のみならず多くの貧民から彼女という独裁者は目には見えない憎悪を買っていたことが後の転落で明らかとなるのである。

 レコナーの行動範囲は広く、複数広場に渡って調査活動をつづけていたが、やがてオデンヌ派閥の仕切る主張広場にも足を踏み入れた。ここで軍鶏やたたし、オレンジ、BEらが得意の排除行動を仕掛けると、女王オデンヌも部下の刺激に感じレコナーへ最大級の集団虐待行動を開始した。かつての博愛の神の面影はどこへやら、主張では黄色と呼ばれる貴人のみが真実無罪のレコナーをただひとり群れにさからって擁護する正義の如くであったが、この時ばかりは黄色もレコナーへのオデンヌ派閥からの集団排除行動を防ぎきれなかった。この一連のオデンヌ一派による主張からのレコナー排除行動をオデンヌ・レコナー戦争あるいは単に主張広場のレコナー虐待事件という。なおこの際、たたしはレコナーが発言した事のない「乙女憲法」という意味不明な揶揄の語を用い、レコナーを攻撃してきていた。また、たたしの闖入においてこの語が頻出されてくるのだが、このたたしが誘導する冤罪攻撃の全体を、政治広場史において偽りの乙女憲法という。

 レコナー時代初期

 レコナーは数ヶ月から半年間に渡る政治広場とその周辺調査によって、ホメとなな暴政ならびに、それ以前の経緯によるモチタ・イトキチらの連帯関係の概要を理解していった。

 ある時、レコナーは彼の同年齢のハシナオから広場で話しかけられた。レコナーははじめ、彼が旅行で訪れた岩手の某旅館で撮影した写真をアメーバ・ブログに掲載していた。ある幸運から偶然彼が泊まる事になった特別室、かつて高村光太郎が宿泊したその部屋から見た、雪の降りつもる山あいの写真を。ハシナオは福島県は二本松市の出身である。彼の故郷でみた雪の光景と程度あれ似ているその写真にいたく感動したハシナオは、レコナーに親しみの念をはじめおぼえたのだろう。それからレコナーの祖母は福島はいわきの人で、彼の家の墓もいわき市内にあり、ハシナオの出自をみるとふたりは意気投合するかにみえた。ところが、画業を主とするレコナーの美術家気質は、作曲業を主とするハシナオの音楽家としてのそれと調和するどころか、ある時点で互いに抽象的な不協和音を奏で出すことになった。といっても、その原因をつくったのはハシナオによるねたみである。学芸を好むレコナーは政治論をもっており、彼は東京一極集中の解消に対して最善なのは、皇居を人口密度の低く発展可能性の高いより北部にもってきて政商分立の都市構造を築く事だと考えていた。またレコナーは福島原発事故を大変憂いており、というのも彼の卒業した磐城高校は、磐城国(福島県浜通り)の名のとおり福島原発周辺の地域で最も有名な旧制高校であったし、思春期をいわき市へ毎日通学しながら過ごした彼にとって福島原発近辺の海辺の高台やら会津若松やらで美術部長としてキャンプをおこなったりした経験からも、その一帯は半ば地元同然だったからである。その上、レコナーの住む北茨城から福島原発のある浜通り世界はすぐ隣できわめてちかく、福島同様の人災被害をみずからも受けたが茨城県側である彼の地域の個々人では東電からも政府からもなんのつぐないも受けていなかった。つまり福島人のハシナオなら彼の疑問や悲しい思いを共有できると踏んだのである。こうしてレコナーはハシナオと遷都を論じるつもりで、ハシナオの誘いに応じてハシナオの部屋へ向かった。ところがそこでハシナオはレコナーの遷都論をきくや否やいきりたち、レコナーを罵倒しながら追い出した。ハシナオは音楽系短大卒の人間で、建築系専門学校卒かつ通信制大学に属するレコナーとその時点の最終学歴においてはほぼ同じだったが、保守思想に固執するハシナオにとって、レコナーの皇居をも動かす大構想は土台から理解不能であったのである。

 政治思想上で亀裂の入った二人の友情であったが、ハシナオが自製の音楽をアメーバ・ブログにアップしていくに連れて、レコナーがハシナオの才能を認め、賞賛した結果、ハシナオの頑固な心は再び緩和されるかにみえた。しかし、レコナーは自らのホームページにアップロード済みの自作の音楽を、ハシナオが創作活動の参考にできると考えハシナオへ紹介してみたところ、レコナーの音楽作品を聴いたハシナオは再び発狂してレコナーを罵倒し始め、広場でのストーカー、嫌がらせ目的の付きまとい人とまで化した。主に古典的なピアノ楽曲の創作手法を師とする教授から習ったハシナオにとって、自力独学で前衛音楽を創作していたレコナーの作品群は、ハシナオの信じるたぐいの保守的な音楽芸術への冒涜と感じたか、さもなくば理解不能であったとされている。これらの実例からも、ハシナオは保守傾向の人物であるとわかるが、その程度はなはだしく、広場においてなな一派の傀儡ローゼンと激しく対立した。理由は、ローゼンの祖先が韓国人だからであった。ハシナオにとって韓国籍であれ帰化者であれその末孫であれ国内から排除すべき人物と考えられ、それが高じて彼は、韓国におけるソウル大学卒を含む選良層であるローゼンの家柄を慮らず、在日韓国人系への人種差別主義的な排斥運動を広場で開始した。しかもハシナオは、彼にとって不都合な人物を迫害する方法論としてそのひとが在日韓国人であると虚偽の断定を当の排除したい人物へ行う慣習を、インターネット上から学んでいった。同じく保守傾向の江田島はこれに加担し、ハシナオとともにハシナオが排除しようとした先進的・前衛的な傾向のあるレコナーを、2chや広場でホームページから確かめた実名などをあげつらいつつ集団虐待し始めた。さらに、この集団虐待へ、なな一派との対立があったレコナーを排除する目的で、ロジコが参戦してきた。

 その頃、広場ではふぐが複数人と対立していた。ふぐはひらがな文体を駆使する年齢不詳の人物で、愚痴広場と政治広場を往復しながら様々な人物らに絡んでいた。フールの言によれば、「誰でも一度はふぐの被害にあう」とされ、特にふぐはアメーバ・ピグをはじめて間もない初心者に向かって何らかの難癖をつけるか、発表席で発表中の人のあげあしをとることが得意であった。ふぐは福島原発事故時には既に広場におり、やはり発表中であった岡山県の女長老・ごまさぶれ(通称ごま、あるいはレコナー曰く「吉備のご老公」)へ噛み付いた。実際のところ、ごまさぶれは日本史における薩長藩閥意識をひきずる中国地方の変人であった。そのときは発表席から、大津波と大地震、そして世界最悪レベルの原発事故による放射能被害と三重苦にあっている福島県の人々へ、数々の暴言を吐いていた。ごまは、蛤御門の変という日本史上にある過去の事件への怨恨から、天災に加えた人災で疲弊し弱りきった福島の被災者らをここぞとばかり虐待していたのである。それどころかごまは職業でもあるスピリチュアルの相談、ありていに言えば心理学や占術などの精神分析を濫用して当の地震を、彼女の信奉する長州藩(山口県)に敵対してきた歴史的な災厄の結果であるとのべていた。ふぐ(ふぐは性別不詳ゆえ、以下、彼彼女と代名する)の学校において彼彼女は細かな知識を問われたこともあり、単にあげあしとりの目的ばかりではなく、発表者の持っている知識の年頭月尾を指摘するのが彼彼女の真義であったが、このときばかりはふぐの堪忍袋もはてしなくきれ、ごまさぶれを「ごみまみれ」と呼び捨てながら最大級の反抗を期した。このとき以来、ごまとふぐは天敵関係となり、これを政治広場の伝統芸能の1つである、ごま・ふぐ戦争(ごまふぐ戦争)と呼ぶ。また、ふぐはちゅんという兵庫県出身で大阪在の男が発表席からイエスキリストを装うアバターで発表中に、いつもとおなじく、発表者へ噛み付いた。その際、ちゅんはふぐの暴言のうち「しねばいい」といったことを問題視し、発表席と最前列の切り株の席(広場は発表席を含め前部が切り株の席、後部がベンチでできている)のあいだで激しい応酬が交わされていた。そこにレコナーが訪れると、レコナーはふぐの怒りがイエスの偽装をおこなっているちゅんの矛盾に向けられていることをさとり、浦島太郎の物語のよう、ふぐをかばってやることにした。こうしてレコナーはふぐの代わりにちゅんへ謝り、ふぐを許してやるように頼んだ。するとちゅんは「見たかふぐ、これが人の情けというものだ」といい、その場を去った。ところが、ふぐは次の日にはすでにレコナーへの恩を忘れたかのよう、レコナーの発表中にも構わずいつものようあげあしとりで攻撃しはじめるのである。その上、ちゅんもこのレコナーのふぐ救済事件(或いは単に浦島事件)をすぐに忘れ、あろうことか上述のハシナオ・ロジコのレコナー虐待集団を自ら誘導していくことになるのである。

 またこの頃、もかP(Mude、ミューデ、むーで、むで)が政治広場にやってきた。彼女は静岡人だが高卒後単身東京へきて、ひきこもりがちではあるが様々な集会にでたり、都会の自由を保護者からの仕送りの範囲内で楽しんだりしていた。彼女はもと寄席広場の人間であったが、初心者に親切でまわりの悪意から救済する意向のあるレコナーから、政治広場で、たまたま声をかけられた為に広場に定着することになったのである。もかPは最初こそ素直にレコナーへ応答していたが、彼女はまわりに流されやすい人物であって、次第にフール派閥にくみこまれていった。もかPはかかしが自らを看板磔にくるや矢庭すりよったり、イトキチの横に行って馴れ合うふりをしつつ広場民の陰口に同調したりしていたが、とつげきによる東大講師としての肩書きの微妙な偽装を含む女性かどわかし、あるいは俗語でいう軟派な振る舞いに幻惑された。このとつげきによる政治広場の伝統芸能の1つである女性への軟派な現実での出会いを目的にした誘惑の活動を、大量に害虫をひっかけていく商品、ごきぶりホイホイにたとえてとつげきホイホイと呼ぶ。とつげきホイホイには後述されるよう、広場におけるとつげきの肩書きや権威による擬態を見抜けない数知れぬ女たちがかかっていくのである。広場民は陰に陽にこのたぐいの女たちをおろかであるとみなしていたが、それをしらないのは人々から忠告を受けないほど信用が薄く、飛んでホイホイにかかりくる女たちの方である。実際、のちに重要な働きをすることになる北海道の賢女snowなどはこのわなへ一顧だにせずとつげき自体を生理的な拒否反応のごとくに避け、彼女以外でもナオやyuriのよう比較的賢い傾向の女性はややはやいうちにそこから離脱する、と政治広場史を通読すれば理解できよう。ところでもかPはとつげき傘下となり、不道徳を愛する奇矯なとつげきを擁護しながら、レコナー含む広場民らを揶揄したり、とつげきが行うその種の蛮行を見守ったりしていたがやがてはモチタやイトキチに懐柔され意識的ないし無意識にフール派閥と群れつつも、広場単位の衆愚とともに、レコナーへの陰湿な攻撃を行うようになっていった。なお、アメーバ・ピグ上は禁じられているとつげきの異性との出会い系の策謀にみずからかかって、あるいはもかP当人の言では「既知の統計学者」(筆者注・実際は、賭博に使われる遊戯である麻雀の研究家)であるとつげきの講座をみにいくという名目で会いに行ったのも、一人もかPだけだったが、女を遊び相手としかみないとつげきから素気無く冷たくあしらわれた為、彼女は決して美女ではないと考えられている。またもかPの趣味はボーイズラブと呼ばれる同性愛の漫画を習慣として購読する事であるところからも、その体が喘息もちでしばしば臥せりがちであるところからも、心身の実態がしれよう。もかPの親は低学歴であったといい、彼女はこれを気に病み必要以上に知的にふるまおうとするが、これらの衒学的態度はフール派閥との親和性を高めるのに一役も二役も買った。

 レコナーの隠れ蓑あるいはレコナー雌伏時代

 ちゅんは大阪において政治をとっていた橋下徹府知事の支持者であった。他方レコナーは芸術家であり、表現の自由を信奉していたが、橋下徹は当時、彼の府政への揶揄を掲載した週間朝日の記事を実質的に弾圧していた。レコナーは発表席などでこれを鋭く指摘、言論自由権から寧ろその記事の間違いを指摘し訂正を命じるか、最大の場合でも賠償を取るのが正しい対応で、橋下徹が府庁に雑誌の担当者を呼び出して叱責した等の威力妨害的な対応は、政治監査装置としての報道表現自体を萎縮させることとなり決して賢明ではないと述べた。これだけきくと正論におもえるかもしれないが、ちゅんにとって橋下徹の絶対主義政治こそが憂える大阪の現状を打開する唯一のみちのりであるから、当然、レコナーの主張がいくら正しくともそれをうけいれることはできなかったと考えられている。ちゅんにとって橋下徹府政がいくら独裁政治であろうと、かの中途段階を支持するべきだというわけだ。ここに行政論上の対立が生じるまでは読書子らにも理解の範畴だろうが、おどろくべきことにちゅんは、レコナー虐待集団のコミュニティをみずから結成誘導し、レコナーへの広場全体での弾圧までもあおりはじめた。このナチズム集団を反RECKONER2同盟と呼ぶ。この暴虐の過度はたたしの闖入で決定打となった。たたしは偽りの乙女憲法を使い、レコナーを他のあおられた衆愚とともにありとあらゆる方法で虐待し続けた。その最盛期には30人が満場において、レコナーただ一人が他の30人からの一方的な集団虐待に徹底防戦、苦闘していたという。30対1においてはさすがの英雄的気質のレコナーといえどもひとたまりもない。いうまでもないことかもしれないが、イトキチやモチタ、フール派、またホメならびにオデンヌ一派までもその集団虐待に参戦しはじめた。ここにおいて、レコナーはある方法をおもいついた。偽死である。レコナーはわざと自らのアカウントを削除し、さも彼ら虐待用の同盟からの集団虐殺という犯罪活動で死んだかのようにそれをみせかけることに成功した。レコナーは実質的に匿名化したサブアバターで広場を監視しながら、その後の広場の様子を見届けた。これをレコナーの隠れ蓑といい、ここから初期のreckoner2アカウント以後に彼が新たな本アカウントとして勇者レコナーを復帰させるまでの時代を、レコナー雌伏時代、あるいは単に雌伏時代と呼ぶ。

 レコナーの匿名サブアバターがあいもかわらず広場を監視するさなか、レコナーがアカウント削除と発見した古参の1人、大阪の被生活保護者と考えられている中年女性うめらR(うめら、うめらに、梅ら)は、親切のつもりでハシナオにこの事を告げた。するとハシナオは驚愕し、冷や汗をかきながらうめらを罵倒した。ハシナオは集団虐待をしている己に罪悪を感じていて、己の人格的尊厳に比べて恥辱のあまり我を失いうめらを罵倒したのではない。その際にハシナオが述べたのは、レコナーがその時点でアバター仮想自死を選んでしまうとまるで、ハシナオがレコナーを虐め殺したかのように周りに思われる事で、いや本質的にそうなのだが、ハシナオが広場民から犯罪者視される事をひどく恐怖したという犯行済みの独白内容だった。また、この虐め殺人犯がおちいる部類の抜け出せないおそれへの穴埋めとして、利己の為にそのレコナーのアバター仮想死を非難し且つうめらへは責任転嫁するべく即座に八つ当たりしだしたということなのである。ハシナオがうめらへいいたかったのは、そのような仮想死の情報をうめらがハシナオに教えてくるのはレコナーのハシナオを意図的に罠に落とす策謀に相違なく、レコナーのアバター仮想死も結局うめらのせいであるという子供じみた言い訳、あるいは広場の現実からの当面の逃避に過ぎなかった。ところでこの直前にうめらは、レコナーがのちの西軍イトキチ一派(フール派閥の一部、モチタを含む)とサブアバターで監視し合って空中合戦をしている際に、レコナーの行動意図が理解できず彼を誹謗していた。うめらは広場内の政治には疎くしかも、もともと雄々しいレコナーが好きであったが、かれを誹謗した事のある罪悪感からハシナオに情報提供したのに、なぜか不条理にもハシナオにも誹謗し返されてそののち引退する。これをうめらの引退あるいは単にうめら引退といい、結果として、そのとびぬけた個性から愛されていたうめらは政治広場アバター界において最初の殿堂入りを果たした。うめらの持ち芸は毎朝、発表席にのぼるや「この無職どもが」との恐喝まがいからはじまり、小一時間ぽかんとした表情で彼女の狂態を見守る広場民らをくさし続けて、昼前に煙草を一服する休憩時間をとってから吉野家で大盛の牛丼を食べにいくのがほぼ日毎の決まりであった。これを人呼んでうめらの罵倒芸という。喫煙ばかりか酒を好むうめらは深夜帯にはレコナーの隣のベンチに進んで座るや半ば泥酔状態で、彼に向かいまわりにもきこえるほどの大声でありとあらゆる過去の印象深い出来事を語り続けた。暴走族に属していて様々な暴力にあった事、職場は下層階級のたまり場で筆舌に尽くせぬ過酷な状況でいろいろな虐めも多かった事、会社帰りに大阪のとある川に死体が浮いていた事、バブル時代の大儲けと豪遊、また彼女は4人姉妹の真ん中で高卒の学歴であって、うめらにいわせるとジェットはにわかバイクファンのしょぼい族上がりである事、うめらの方が本格的な暴走族であったその矜持などを朝の光が窓のカーテンの隙間からもれだすまで止めどもなく、飽きもせず物語りゆくのであった。レコナーによれば、それら何度も同じ箇所を繰り返すうめらの話を聴き取り、彼が確信をもったうめら哲学の核は、生きがいの持てる仕事をするのが人生の醍醐味である、という一大事であった。

 レコナーはこの後、匿名サブアバターにおいて広場監視を進めながら状況の推移を見守る運びとなった。そして結局のところ、レコナー再登場後のガルマとの同盟(レコナーガルマ同盟、あるいは単にガルマ同盟)がきっかけとなり、この雌伏時代は数ヶ月もたたないうちに終わりを告げるのである。

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