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政治広場史 第二章

 第二章 古代(西暦2009年頃)

 ホメ時代

 ホメ(まっく等複数名を変更している)は、人間として日本国の神奈川県に生まれた。成長していくホメは16才の時、最初の相手を持った。それはホメの高校の教師で、その教師は横浜市に住んでいた。ホメは学校を卒業してからその教師と関係を持った。その為、別の男と結婚後もホメは横浜の中華街には家族で行くことができない、その教師に結婚した事を言ってもいないし、鉢合わせするのが恐ろしいからでもある。にもかかわらず、ホメは不義の子であるという元からの資質もあり、不倫を好む、大都会の奇特な人格として育つことになる。

 ホメは幼稚園時代の同園児から、政治広場にふらっと現れては消える既婚の不良であるタラオにまで現実と仮想を問わず手を広げる多情な女である。一人の幼い娘をもっていたホメの性遍歴は既婚後も出産後も甚だしく、ある時、政治広場のジェイに声をかけた。実に、アメーバ・ピグができたのは、天地開闢から去ること1年前であったが、この1年間に、愚痴広場、続愚痴広場ができ、有象無象が雲集しては離散する中で、現実の選挙とともに政治広場が開けたという。ジェイがその場で憩っていると、好色なホメはジェイを相手にいつものよう口説き始めた。ホメとジェイの不倫関係を眺めていた老婆モチタ(だんご等の複数名を変更している)は、老婆心とやっかみを含め、彼らを別離させようと図った。ホメとモチタの互いの魂を根絶やしにしたがるほどのねたみぶかい天敵関係はこの時から続く、政治広場の一大伝統芸能となった。ホメとモチタの戦争、即ちホメ・モチタ戦争(ホメ戦争ともいう)が開始されてからの1年間を、政治広場史においてホメ時代と呼ぶ。また、ホメと呼ばれるアバターならびに、モチタのアバター操作者側の実年齢の詳細は不明であるが、彼女ら自身が持ち出した写真等から中年以上である事が確証されているという。

 イトキチの生い立ち

 その頃、大阪の貧農から町工場の若社長らの一員にまで身を興したイトキチが、政治広場に渡来した。イトキチ自身の懐古録によれば、高校卒業後、大阪で窓拭きの仕事等を遍歴している間に遠く東国は常陸国(茨城県)出身で会社の先輩であった人物から叱咤されながらも激励され、社会の一員になったはっきりした自覚を持ったという。イトキチは後に、同じく茨城出身のレコナーと宿敵の関係、そして政治広場史上最大の世界戦争の総大将となるのだが。イトキチは高校時代の同級生の女と結婚し一人の娘を持ち、自らを木下藤吉郎の如き華麗な人生遍歴と考え政治広場に喜び勇み渡来してきたが、彼の本性は太閤秀吉とはことなり、堺商人とおぼわしきその身分にありがちな程度を越えず、2ch BBSという匿名掲示板をいたずらに乱用し始めた。イトキチにとって、モチタとホメ・ジェイの痴話喧嘩に見えなくもない小戦争(ホメ戦争)は嘲笑に値するものに見えたが、イトキチ自身の一社長としての身分を顧慮し軽率なふるまいを彼なりに戒め、自らの立場を隠蔽したまま彼らを非難する方便として、イトキチは誰が書いたかを確定できない2chを、陰口を好きに書き付けるべく使い出したのである。イトキチは次第にネットにかかりきりとなり、ホメ・モチタ戦争の報道者兼監査役として影の当戦争加担者となり、本業は疎かになっていったが、イトキチの娘は既に高校生で親を疎む反抗期でもあり、疎まれる側に独特のにおいを放つイトキチがその自らの部屋に引きこもりがちになるのは彼の家庭にとってなお好都合でもあった。かつ、彼の妻は公務員であり、家計にとってより重要性が高いのは妻の方でもあったので、ホメ時代からのイトキチの仕事は殆どインターネット上での政治広場と2chの往復で費やされていく事となった。

 イトキチの実年齢は40代であり(しばしばホメと同世代ともされる)、イトキチと同じく高卒で、性売買を娯楽とするいかにもな名古屋人の江田島(はる)、中卒の江戸っ子で波乱万丈の人生を経、釣り好きが高じて茨城は霞ヶ浦圏に2009年頃引っ越したジェット(R-JET)、また性道徳の欠如により性売買を趣味として没落した兵庫出身の離婚者・唯我らと、政治広場40代層を形成していた。ここで後世のため特筆しておくべきなのは、イトキチを除く彼ら3人の40代男性らは、みな性道徳の欠如と性売買という日本国法は売春防止法で違法とされている犯罪行動の慣習をもっており、しかもそのうち江田島を除く2人は1度以上の離婚をも経験しているという部分において共通していた事である。

 イトキチら40代男性層は互いに距離を置きがちであったが、それぞれ、江田島はイトキチを2chにおける蛮行のゆえに、またホメをその広場における不行跡の故に嫌悪していた。対してイトキチとジェット、唯我は互いに中立的であったと記す事ができよう。これら40代層のうち、イトキチと江田島、そしてホメは2chにおいて終わりのない中傷合戦を行ってきた。ジェットは江戸っ子の誇りとしてそこから距離を置き、しばしば2chに加わっても寧ろ公徳的な発言をする事が常であった。ホメ戦争は2chにまで拡大して熾烈を極め、ホメがmixiという別のソーシャルネットワーキングサービス(Social Net working Service, SNS)に一時退避したり再び広場でジェイとの情事に返り咲いたりを繰り返した。彼ら40代層はホメ時代の間、2chと政治広場の往復、あるいはイトキチのほぼ常時監視による陰からのホメ戦争への批判を軸にその広場政治を展開した。この頃、複数の広場民の中で、実に怨恨の激しい性質をしているホメから多かれ少なかれ憎まれた者は多数いたが、特にホメがブラックリストをつくり悪党(即ち対立勢力と)認定した者達は、なな(愛知のBAなな。岐阜の麗人・nanaとは別人であるため注意)、法金剛、芽衣、ごまさぶれ、こっちゃん、そして前述の軍鶏、モチタらであった。政治広場史においてホメ戦争時代にホメと鋭く対峙した彼らを古参と呼ぶ。

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