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政治広場史 第八章

  第八章 現代(西暦2014年終わり頃~西暦2015年)

 奇人Katsudonとレコナー院政時代

 レコナー・ちーの二頭政治は、もともと政治意欲が高いとは必ずしも言いがたいレコナーにとっての負担をへらす結果となった。しかも長年にわたる広場政治闘争で20代を終えこの頃30代前半となっていたレコナーは、かつての広場政治においての40代層の傲慢と無能ぶりを省み、できるだけ早いうちに彼より若い20代層以下に有益な経験をつませるべく、己の政権を委譲するつもりでいた。この隠遁欲はレコナーの地元である旧水戸藩域の世襲君主・水戸の徳川家が自家薬篭中とするもので、いわゆる水戸黄門がご隠居と尊称される事からも、レコナーは隠者アバターを新たに作り、ちー派のみで広場政治をおこなえる手筈と引退準備をひそかに整えていった。あるとき、ベンチで広場の平和ながらも活発な議論がおこなわれている政情を、相棒にして恋仲のミキと茶をのみながら眺めていたレコナーの元に、レコナーにとっては幾分迷惑な大阪のレコナーファン女・こはるのサブアバターにみえるKatsudon(カツドン、かつどん、カツ丼)がやってきて、なにやら発情のようなことを述べだした。このカツドンと名乗る怪人はのちにレコナーの部屋でなぜかイトキチを自称したり実は男性であると豪語するなど奇妙奇天烈な人物で、しかもレコナーのもとへ足しげく通うやコミュニティ申請までして付きまとうのであった。ミキもはじめは、カツドンがこはるのサブではないかと考えていたが、次第にカツドンが北海道の孤独な大学生女子であるとわかってきた。なお、カツドン自身の証言によれば彼女の容姿はいがぐり頭で愛嬌のある顔つき、喜劇的なところのある俳優、えなりかずき似であるというのだが、その真偽は不明である。

 この頃はじまった新たなピグゲーム・ピグブレイブ(ブレイブ)のベータ版において、カツドンは可愛らしい女子アバターで「レコナーさん」と彼を慕い、協力プレイを続ける間つねに女子らしかった。かつ、しばしば語りだす身の上ばなしの断片をパズルピースのよう結んでいくと、とどのつまり、次のように結論されている。彼女は医者にも精神疾患と疑われるほど性格にいくらかおかしいところがあり、しかも大学1年生の間だれとも会話しなかったほど友達をつくるのが実に下手である。また平凡なバイトをしながら暮らしていて、自立心は旺盛、レコナーを攻略する恋愛ゲームを構想するほど彼が大好きなおてんば女子大生ではないか、とこのように政治広場史上考えられてはいる。他方、レコナーは私生活において将来、彼のアトリエを建築などの設計事務を司る中規模組織にしていく夢をもっており、もし実現すればだが、しばしばレコナーを裏切るなどあまり信用はおけないやんちゃなこの子娘を雇う構想などを冗談まじりに交わしたりもしていた。こうした第一次レコナー王政後期のできごと中で、広場の治安はきわめてよく、またちーを適宜采配するりおしの無比な有能ぶりは確かであった。しばしば軌道を失うにんじんが発表席近辺で荒らし行為を働くほかは、政治論をした試しが一度もない政治素人軍団のるれ一派であったが、その最上位役であるるれへ広場でレコナーが直接、できるだけ30人が満場の当広場に政治関心者らのための余地をあけるようにとそれなりにひきしめた口調で教え諭したことがあった。これをるれへの説諭という。以後、るれ一派のうち上司のるれが広場を避け下火となった頃合いで、レコナーはアバターを隠者に乗り換えた。レコナーはりおしに、以後の広場統治を基本的に委任すると述べると、ベンチや発表席で時折広場を見守るのみで広場政治には直接関与せず、若い世代が実権をとるレコナー院政の体制を執った。これをレコナー院政時代と呼ぶ。

 哲学部

 当面の広場政治から隠退したレコナーは、みずから哲学部をつくり、この部室に京都北部の出身で大阪の大学生DKやゲーム製作の専門学校を卒業した福岡の青年Mr(ミスター)、ミキ、ホワらと篭もるようになった。この時代、レコナーはしばしば広場に立ち寄ると、りおしらに忠告を与えるほかは広場政治にほぼ直接関与をしなくなった。かつての側室ユークや、新入りカツドンは哲学部に必ず参加したがり一時は、レコナーも彼女らを参入させたが、内部でりおしと小競り合いの喧嘩をはじめるユークや、DKとレコナーに非礼を働いて議論を駄目にする傾向のあるカツドンは数度の退部をへて、部員になったり辞めさせられたりをくりかえした。この間、レコナーとはじめて出会った頃は、悪に満ちた世間への憂いから悲しみにふけり塞ぎこみがちだったミキも、徐々に元気をとりもどし、特にブレイブの正式版が開始されると共に、みなと協力して生きることにも少しの生きがいをみいだすようにさえなった。ミキの人生において生きる意味は、俄然レコナーを愛することであったが、これを広場でしばしば眺めていたかつての側室にんじんは、るれを通じてレコナーへの想いを打ち明けた。また、時は微妙に前後するがあるとき広場において「政治広場新聞」と名乗る報道記者が現れ、広場民らの分析論を記事にしていた際に、これをipad(アイパッド)越しに見知ったユリは別名で哲学部に入り、レコナーらと接触した。ミスターは予てからユリが気に入っており、思慕すらしていた為これを大変喜んだがそれは束の間で、レコナーが発表席で新たに構想した水戸皇国論を述べていたところ既に京都という平安時代同然の保守風土になじみはじめたユリは突如激昂、となりで聴いていたミスターも呼応してレコナーをそしりだし、ここにミスターは哲学部から退部の運びとなった。実のところユリは引退前に、愚痴広場へ結婚報告にきており、ここでたまたま会ったレコナーはレコナー王政前夜のクリスマスにナオから誘われてユリがレコナーの部屋にやってきて憩うと、酔っていたユリからベッド上で迫られたりした懐かしい思い出を語り合いながら、実は女性としてもユリは魅力的であるとおもうと世辞をしていた。これを突如思い出したユリは、広場においてレコナーへ反動形成もどきの揶揄をしたのであったが、直後に再び彼女の病気がちの夫の看護を目的に、京都の旧態依然な公務員世界へ帰っていった。

 DKが哲学部にてレコナーはじめ部員らへくりかえし述べるところでは、日本は病んでおり、人々は鬱の傾向であり、戦後のアメリカ教育がもたらした個を弾圧する教育がその原因として考えられるという。レコナーは彼の論旨に一定の理解を示し、また彼を含む部員らと多くの議論を続けるなかで、皇室の根源的な立場は実は侵略者を超えずその支配権は仮のものであること、これは現代の先住権と呼応する趣旨ではあるが、かといってサヨコが主張するよう皇室を処刑するよりは、むしろ徳川家のよう一般法人化して財政から切り離す方が文明的対応であることなど、次々に政治論上にもわたる新たな思想を生み出していった。哲学部は現代日本思想の配電盤の役割を果たし、話題不足になりがちな政治広場へ絶えず新たな情報をもたらす理論的支柱として、或いは人類社会を変革する定点として有益な役割を舞台の陰から演じ続けた。ところが、カツドンは哲学部でしばしば問題を起こすため部室より強制的に追い出されているあいだ中、政治広場にたむろする時が多く、レコナー院政はかつての彼の王政時代にくらべ退屈だと感じるようになっていた。しかも、カツドンはりおしの知的過ぎる理詰めの論難に情緒的反発を感じやすく、りおしとちーの二頭体制で支配されていた広場政治へ次第に不満度を高めていった。この東京陣2名による一時の体制をりおし・ちー政体と呼ぶ。また、にんじんがレコナーへ想いを寄せていた上に、しばしばユークもこの政体への不満分子に加わっては密かに水面下で燃え滾るレコナー再選運動を起こし始めた。るれもまた、レコナーが彼女の兄におもんばかりすぎ、広場女性陣ではことさらるれを避けて彼女へ寵愛をおこなわなかった過去をまるで差別を受けているかのようで悲しく感じていたことから、広場へのレコナー復権の動きにるれ一派もほぼ総出で加勢する運びとなってきた。

 レコナー第二王政

 広場の古参はちーあるいはちー派への憎悪をもともと募らせてきた折であったから、事態はいやましに切迫してきた。この頃、レコナーの父が病気で臥せり、この相談にちーやりおし、ぷちおくんらちー派の上位層らが乗った為、レコナーとちー派には再び恩義の念が生じ、やがてレコナーの部屋にやってきたちーは広場の最近の状況をぽつりぽつりと打ち明けだした。ちーによれば、最近の広場は過疎化し始め活気がないという。レコナーは若い世代が十全に力を発揮していても彼の王政時代より覇気を持てない事に残念さと、複雑な嬉しさを覚えながらも、読者には信じがたいことかもしれないがその場でちーがレコナーへ媚態を示したところから彼女を寵愛しようとした、と政治広場史の副事件上にされている。これは、レコナーにとって第二次レコナー王政の開始に際してちー派の掌握を目指す目算もあったとされるが、単に広場政治から長年遠ざかって色ぼけしていたともいわれる。が、当史の記述ではこれこそなな時代に見知ってレコナー王政の絶頂を支えた色仕掛け戦略そのものであると結論する。いずれにせよレコナーへ自ら言い寄る通り肉体的な愛慕をさえ感じていたちーは、実のところ性についてはおくてで人形劇上にさえこれに応える勇気もなく、この彼女が目の前にしている願望どおりの振る舞いをするアバターはレコナーの成りすましによる陰謀である、と断じてその場をふりかえりつつ立ち去るしかなかった。これをレコナー邸での情事、あるいは単にレコナーとちーの情事、情事などという。ちーは必死にこの情事をリベンジポルノ犯罪仕立てにちー派の立場を維持しようとしたがとき既に遅く、この情事以後、レコナーは第二王政を開始、レコナーに抗う意欲を殺がれたちー派を内情で身内としつつ再び、哲学部で獲得していった新政治理論を片手に広場を駆り立てかつ盛り上げていくことになるのであった。これをレコナー復権という。

 広場へ積極的に復権活動をおこなったレコナーの第二王政時代前期においては、広場上のほとんどの争いごとは未然に防がれ、また古参のホワと最古参ホメ・モチタ(だんご)が確認する以外はイトキチによる2chでの誹謗は完全に無視され、かつての時代とは段違いの平和が維持され続けた。政治論も活発におこなわれ、特にいちご姫の躍進はめざましく、毎晩かれは得意の人種差別批判によってネット右翼とみなした相手に論陣を張るのであった。その代表的な論敵はあの元女王オデンヌであったが、いちごとオデンヌはまるで兄妹漫才のよう毎晩左右の翼を羽ばたかせ、広場をにぎわせていた。広場の伝統芸能で場はほぼ満たされ、第一の芸であるホメ・モチタの舞踊を通奏低音とし、第二の芸であるごま・ふぐの剣術はごまさぶれの登壇後にしばしば起き、第三の芸であるとつげきホイホイの喜劇は今では月兎とにゃこぶが交互にとつげきに媚を売り、殆どこれらの芸人たちは明らかに、第二王政中のレコナー派と、広場民を楽しませる目的でそうしていた。こうして書くとすべてが丸く治まっていたようにみえるかもしれないが、ただ一人、絆花だけが一般的天譴論、つまりレコナーが絆花の乱行を眺め「悪さしてると天罰があたるぞ」と説教したことについて、怨みによる晒しを軸に、レコナー王政へ反逆していたのであった。

 こうして第二レコナー王政後期はりおし並びにちー派の協力を経て完成度を高めていったが、あるとき、るれとにんじんは誘いあわせてドラゴンネストと呼ばれるインターネットゲームにレコナーを引き入れた。ここには既にかっぱ(ユキハマ)やホイチ、カツドンらがおり、ミキを参加させることにしたレコナーと彼らはしばらく美麗な仮想空間内で、敵である化け物ら相手に共闘して遊んだ。このPCスペックを必要とする3DゲームはミキのノートPCには負担が重かったので、やがてミキは辞退したがった。るれとにんじんは大変残念がったが、彼女らのレコナー勧誘の主要な目的の1つはにんじんが好きなレコナーと共有の遊びであった。そのときログイン回数が激減していたちーやその派閥すたぬー、絆花らがいなくなり、かなり孤独に陥っていたりおしはこれらを見知った。途端、彼は別の低スペックPCでも遊べるネット上のすごろくゲーム・牛筋はんたーを持ってきてミキを懐柔、関西弁のうぶ芸人・ぼっちと共にレコナーを同りおし陣営へひきもどすことに見事成功し、るれ一派のレコナー独占あるいは懐柔策は失敗した。はじめから色々な派閥に顔を出すカツドンにより、生理的とすら思われる嫌悪を受けてきたりおしだったが、ハシナオによる約束破りへの報復などの振る舞いを通じて、るれ一派内での敵愾心を次第にあおってしまった。これらのりおし嫌悪の背景には、しばしばノルウェイの淑女INNO(イノ)ら外国人相手にみられる卑猥な発言をおこなう癖がある故か、あるいは喧嘩イベント時代の攻撃的な残り香の故かいくつかの理由が考えられはするが、それは本筋からそれることもあり詳細は名著『りおし解析』(2015年現在未刊)にゆずる。政治広場史の立場からすればりおしは実に有力な人物であると同時に鋭敏であり、これらるれ一派の火種が炎上するずっと前に問題の芽とみたら先んじて摘む行動をとってきたが、るれ一派が再び同様にブレイド&ソウルのネットゲームをレコナーへ誘い出すに際してもその広場上の孤立を避ける方法を彼は模索し続けねばならなかった。これらの平静な世における20代から30代前半らを中心とした広場ないしそこで起きた一連の出来事を、総称してレコナー第二王政あるいは第二次レコナー王政と呼ぶ。

 2つのコミュニティと共和政

 レコナーはてんちゃんとの出会いによって、てんちゃんと共通の趣味である音楽のコミュニティを構想、ユーチューブの音楽を紹介しあう通称・ユーチューブコミュニティを構築した。この創立当初にるれ一派を編入させたことから、また厳格な会員制をとっていた哲学部に対しこちらはゆるやかな共同をめざしていたことから、ユークやカツドン、時たまではあったがハシナオらを含めた共有空間とこの部室はなるのだが、そこをるれとにんじんが大部分、彼女らの自主的な寄付によって建築設計しレコナーが最終調整をした事が政治広場史の文化項目欄に挙げられる。この部室はレコナー第二王朝の文化庁から建築賞並びに、民間の広場文化協会からは名喫茶賞を得た、といわれている。実際、しばしば煙草か何かの煙をくゆらせるてんちゃんの憩う姿や、ユークのいねむりなどがみられ、20代広場の外国人らも集まって一種の文化サロンとなった。また、るれ一派はひみつ警察などの私的コミュニティにホイチらを引き込み、意図するしないにかかわらず危機からの隠遁所として機能させることで、なな時代の禁断の仮想体操コミュとはうってかわって、広場政治上の衝突はたくみに避けられていった。

 さらに、レコナー第二王政ははじめダルマ愚痴王やかっぱ軟派王に全広場統一を宣言し、ことさら愚痴過疎化に悩むダルマには王都レコナーとの合併構想を持ちかけたりした。が次第にレコナーは与党権力としての絶対主義を解きだし、結果として広場は残る野党のるれ一派、ちー派、とつげき一派、そして解体さればらばらになった古参を含む無党派らとの共和政の様相を呈し始めた。というのも第二王政中のレコナーは内乱がほぼみられない治安以上を目指すには民度の向上が必要、とはっきり意図的にそれを目指し、絶対王政による厳格な統治方式より広場の盛り上がり度を最優先していた。こうして多党から内々の支持を得たレコナーは、なお主として彼の見守る広場を新規流入者に寛大な多様化と、知的議論のおこなわれる時代としていったのである。政治広場史は今後も続くが、わが筆はここで擱きたい。(了)

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