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政治広場史 第三章

  第三章 中世(西暦2010年頃)

 後期ホメ戦争

 ホメ戦争は終わりが見えず、複数の虐待や過度の残虐な讒謗が政治広場と2chでくりかえされた。さらに、この戦争に参加し特にホメの不倫を邪魔した者の中で、モチタ、ガク、そしてトキワの3人をホメ時代の三志士という。ガクは三重県の男性と考えられており、法律に知識があり、かつスナック通いをしていたことからかなりの高齢と目されている。ガクは、既婚者でもある静岡県のほわ(howa)から淡い想いを寄せられていたが、年齢からもそれを拒否、かつ法の知識と得意ではあるが決して品のいいとはいえない数々の三重弁によって広場の人々を畏怖させるほどの暴威の厳を発揮していた。齢にしてホメより若くななより老いたほわは平凡な見た目の常識人でもあり、インターネット上のアバターであるガクに、さも演劇中の役者に寄せる類の恋に似た偶像崇拝の念を寄せてはいても、具体的な不行状にまでは至らず、その内心を知るごく一部の者からを除いて少しなりとも不義の者とみなされた事がなかった。一人すべてを知らないのは彼女の夫だけだが、当の夫は知的水準の高い大学の卒業者でもあり、仮にその夫が、多くの女性が持ちまた妻が隠しもつ偶像へのありそうな惑いを知っても怒りや悲しみより同情か、はたまたあわれみを寄せるであろう事は容易に推測される。

 ガクに対してトキワは多くの人々が抱くいかにもな関西人の典型に則り、品性の優れない発言、嘔吐感すら感じる類のそれをしばし行う性質で特に広場女性層からの過大な反感を買い、不人気であった。但し、女性層の中で男好きと自称するほどの人質である愛知県は三河の娘・ななを除き、である。こう記されればトキワはさも品行不正な悪行の徒とみなされるかもしれないが、実のところ他面では知的な人物でもあり、政治論を交えればホメの行状をおいつめながら広場の人々の話題を盛り立てるといった芸人ぶりで、そのアバターの見た目が禿げており中年の醜男である事にさえ目を瞑れば決して、単なる不徳自慢の発表席荒らしであった唯我らより無能だとはいえないのである。いずれにせよ、これらホメ時代の三志士は数々の戦術によりホメとジェイの不倫関係を揶揄し、影の大将であったイトキチや有志らと共にホメの非人道性を随意指摘し続けていった。反省力というものが存在しないかのような無法な性をもって義ともなす相模の女傑、あるいは肝っ玉の据わった生い立ちの不運な東国女であるホメは怨嗟の内に、ホメ戦争に憂い飽きた相手らが弱った隙を狙う長期的な復讐劇の貫徹を誓うのであった。

 主張広場におけるオデンヌ到来

 その頃、主張広場においてオデンヌ(おでんちゃん等複数のサブアバターあり)と、軍鶏らは別の共同体を模索していた。元来、主張広場は政治広場に比べれば小さな人口規模の場所で、オデンヌ到来以前の環境はまことに平穏、発表席から主張を自由に行え人々はそれを眺めては華ある会話や世間の美辞やら情け容赦のない悲話やらにささやか湧いていたが、もと神であったオデンヌ派らは猛烈な統治能力を発揮して即座にオデンヌ女王政を敷いた。このオデンヌ到来を、主張広場の古参からはオデンヌ来襲またはオデンヌ一派の侵略と呼び、他の広場民からはオデンヌの征服と呼ぶ事もある。

 オデンヌ自身はその育ちに劣らず謙遜な人物で、自らが統治者としての役割を遂行してきた事に懐疑的あるいは否定的ではあったが、事実としてオデンヌ女王政は功を奏し、そのしもべである軍鶏やなるきと共に仙台人3名による寡頭政治体制を構築した。統治される側のなかには、前述の主張広場の古参ら排除を中心とした狭く閉鎖的なつきあいの仕方に不満をもっていたものがいたが、女王は任意、オデンヌ到来以来の渡来人らと共にこの体制を強化していき、その巨大で、狡猾かつ独占的な問答無用の排除実力組織の前で古参らの発言力は封殺されていった。すなわち結婚適齢期は過ぎなお陰湿な性質を伝統から受け継ぐ独身京都人のオレンジ、同様に関西人の無意識的な連合を形成している同様の齢とされる大阪独身女BEらがその渡来人たちであった。政治広場史では、主張広場の古参らを政治広場の古参との混同を避ける意味も含め、主張の先住民、主張先住民とも呼ぶ。オデンヌの主張広場(以下、主張と略す)における仲間はアメーバ・ピグ内の他の広場群からの巨視的な見方においては、オデンヌ一派(あるいはオデンヌ党)と称す。

 主張における岐阜県の悪党であるたたしくん(あるいはたたしと通称する)は、後に政治広場(以下、文意に誤解の可能性が少ない場合に限り政治と略す)側に闖入、政治のハシナオやロジコ(Desperado等複数アバターあり。しばしばデスペともいわれる)ら当時の無法集団と組み、様々な蛮行を働く。これをたたしの闖入という。たたしは貧困家庭から出自後は名古屋市に下りて、夜な夜なディスコで踊りつつ新たな女をかどわかす遊び人であり、その業務はインターネットサイトを通じた自営業に近い立場からのブランドバッグの販売などであると考えられている。彼はなまじ見た目がよい為、ますます寄ってくるその場限りの女らと堕落した関係に堕ちていた。

 また、たたしはかつて地元において別れ、実質的に裏切った女がおり、そのときに相手を痛ましめたとして心の傷をかかえていたが、かれの身持ちはますますみだれていったし、その上、不良である性格のため主張においても冤罪事件を起こして新到来者らを不当に排除する暴政等に自ら携わっていた。オデンヌは持ち前の行動力でオフ会(つまり現実においてウェブ上で知り合った者と会合を持つ事)を通じてさえ、これら、被治者らの振る舞いの殆どを感知していたが、オデンヌの信念は天地開闢以来、力そのものであり、力を失う結果になる道徳的行動に関しては極めて消極的であった。オデンヌの牙城・仙台を含む宮城県域における幼少からの育ちの中で、一定の権力を持っていた者がヤンキーと呼ばれる不良集団であった事もそれに一役買ったと、政治広場史では解釈されている。なお、アメーバ・ピグにおいては一般的に政治広場を政治、主張広場を主張と略称する場合があり、主張と政治の間には別の派閥が形成されている為、当史書においては主張のそれに深く立ち入らず別の書籍や学派にゆずり、政治広場(正式名称・今の政治に望むこと広場)の歴史を主に一貫した正史として記述する立場にもどるものである。

 なな時代

 政治広場(本稿において以下・広場)においてホメ時代の三志士の活躍がその磁場を弱め始めた頃に、ロジコやとつげき東北(以下、とつげき東北の出身地である兵庫県とは関係のない東北地方との混同を防ぎ、とつげき或いは突撃と記述する)、ローゼン雅(ローゼン)、ハシナオ、ちゅん、はく等の広場における独身男性集団を手駒にしたななが一大派閥を持ち始めた。政治広場における中世は、このなな一派(略称・七一派、七派、なな派閥、なな党など)を中心に形成されていくことになる。1年あまり継続していたホメ戦争は下火になってきたが、その原因の1つは、このなな一派が急激に膨張し、郎党をあつめて様々な横暴を極め、ホメの行がほとんど求心力をもたなくなったからとされている。なな一派は単にうらぶれた独身男性らのななからのあしらわれをもとにした芸妓への偶心軍といったあつまりなだけではなく、年齢の比較的高い独身女性らをもその独身男性らへの好奇の念をこめ、みずからの単位を膨張させていった。要はインターネットの仮想空間での出会い行為に漸近しつつある一定規模の独身者連帯となったのである。ななは、最盛期には禁断の仮想体操という党(コミュニティ)を形成し、ありとあらゆる、アメーバ・ピグ上にありうるかぎりの不正行為に手を出し、なお広場の暴政の主となった。この1年間を一般になな時代、あるいはアメーバ・ピグ政治学においてはななの暴政、なな暗黒時代、あるいは単に暗黒時代などと呼ぶ。

 専制君主あるいは暴君となったななの片腕は、るくみるく(るく)と名乗る東京都は神楽坂の独身女、そしてもう1人は栃木県は高齢の既婚者である家元鮭太郎(鮭)らであった。なな時代の初め、ななのお気に入りはHENRYと名乗る兵庫県の雑貨店を営む既婚者男であったが、やがて同県の程度は低い大学生であってななに執心を燃やすロジコへと移っていった。ななは若い娘であるばかりか容姿を自分なりに彩る好色でさえある人物で、母は京都人、父は愛知人から生まれた。ななは、いくつかの大学を卒業していると自称、生活の資をとるべく介護福祉士の試験をくりかえしうけていた。ななは肉体関係を男性と持ったことがないと述べる他方で広場の殆どすべての男たちに特有の媚態で接し、政治広場ならびに愚痴広場で最大の軽薄男とされている東大卒で実質的に長野出身、既婚者の小太り中年であるゆき@hamal(ゆき、ユキハマ、ユキ)ともそうであったが、ななはゆきを陰では冗談交じりに「げすゆき」と呼ぶほど決して男達に心からの好意でのみ接していたとはいいがたかった。裏表のある性質は公家文化の名残か、ななはあらゆる陰謀を極めていった。そのなかにはスカイプ(Skype)というインターネットを介した口頭での会話ツールによる嘲笑目的の釣りという詐欺行為や、ジェットら独身男性、あるいはナオ(nao)ら独身女性へのからかい半分での侮辱、徒党を誘導しての集団虐待、コミュニティでの企みや陰口はかぎりなく、遂にはのちの時代の分に詳述する事件だが、yuriという独身女性を自殺未遂かさもなければ発狂直前までおいつめていくことになった。これらのななへの辛辣な批評にみえなくもないくだりは政治広場史において暗黒時代の凄まじい現実を示すために記したものであり、決してななやその派閥の構成員への名誉を害する目的のものではないと断ってはおくが、事実、なな一派の独裁政治による犯罪行為は完全にBAN(つまり利用者アカウントがサイバーエージェント本社により削除される)程度が最高刑であるピグの規約を逸脱しすぎていたばかりではない、死刑を最高刑とし懲役や罰金を科される日本国の法のどこかしらへ常に、抵触していたものであった。そしてなな一派はまんまと、その刑罰を免れていったのである。

 もし仏がいうよう、業に因果があるものならば、なな一派の構成員らはみな来世にいかなる目にあうか、現世においてさえ危惧される身の上であるが、正史の伝統に照らし司馬遷の儀に則り、かつ義公史観の哲学をかえりみてなお、政治広場史においては歴史を構成する人物らの業の変遷を注意深く叙述するに留めよう。仕置きや仲裁、誅罰は人物ら自身のピグという世界ゲーム内でなされるべき政なのであり、史書の担当者である私、レコナーは自らをも含む出来事の客観的科学を羅列するまでにおちつこう。何が憎むべきで何が愛すべきかを知る働きを史書の執筆者より、寧ろ読者の判断力にゆだねる為にである。

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