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政治広場史 第七章

  第七章 近代後半(西暦2013年終わり頃~西暦2014年)

 第一次レコナー王政

 あばずれ連のうち、最初の懸念が神奈川は横浜女ユークレース(ユーク)であった。彼女は妙齢で東京生まれの誇りを持ち、山形出身で東大卒の選良かつソニーの有能な技術者である父から生まれ、栃木人との混血であった。ユークはとつげきホイホイにかかると見せかけ、そこは生粋の都会人で一定の距離を置きとつげきを冷静に観察していた。ピグを使った出会い行為が規約違反な事もかえりみる余裕のあるユークは、どれほどとつげきからかどわかされてもたやすく応じなかった。ここに、広場で横暴を働く今では唯一の野党、とつげき派閥の無力化を目指すレコナーは、彼女を側室とする方略を考え付いた。即ち、かつてなな一派が頻繁にもちいた色仕掛けの援用によってユークを抱き込みにかかったのである。ミキを正室としつつもユークに側室としての権限を与える、と好条件をもちかけた結果、ピグが単なる人形劇であることを理解しているユークは、それまで東京一極集中や原発政策等について都会批判をくりかえしていたレコナーとの根源的対立を超え、内実にレコナーのものとなった。既に王者と名乗っていたレコナーの側室戦略はあばずれ連を懐柔する作戦として十分使えるとみた彼は、次ににゃこぶを抱き込みにかかった。実は、レコナーはユリ事件時にとつげき派閥を征討する際、にゃこぶにだけはみねうちしていた。これは過去の経緯から、にゃこぶは浮気男らにだまされている面もあり、ユリ脅迫をそそのかした憎むべきと同時に哀れな存在でもあると判断した為であったが、ユリの側はむしろ脅迫の真犯人としてのにゃこぶをレコナー軍から攻撃してもらいたがっていた。当時の野次馬の一人であった、山形は米沢藩士を先祖にもつ東京の下層民・ヘソ下三寸から、レコナーがにゃこぶ相手に手加減していると告げ口されたユリは、レコナーの裏切りを疑い、直後に引退してしまう。こうしてにゃこぶへの哀れみを示してきていたレコナーは、ある休日の昼ごろにゃこぶに誘われるまま彼女の部屋で愛をささやき、彼女の懐柔策へ部分的に成功したかにみえた。が悪女にさもありなん、その日の夜にはにゃこぶのアメーバ・ブログにリベンジポルノ犯罪の報復も受けた。尤も、レコナーにとって王政の確立が目的で決して、とつげきがしてきた類の現実での出会い行為が目当てではなかったので、それらはピグ上での人形劇に過ぎないもので、いくら反撃されようと、政治広場闘争の色仕掛け系に慣れていたレコナーにとって安全防衛圏であった。こうして合規約性の域内で、レコナーの側室戦略が徐々にあばずれ連の暴虐性を融解していった。この際、純愛趣味のミキはひそかに悲しんだが、レコナー王からの説得によってこれは広場政治の為なのだと己に言い聞かせた。これらによって達成されていった広場の良好な治安は、広場でのレコナーの治世に献身したミキ女王や、彼女への支えと側室らの世話、そして広場での政治に毎日かかりきりにならざるをえない当の王の大きな自己負担から成っていた。愛知の病気主婦まゆはこの際、江戸時代の大奥に同情していた為、レコナーの側室戦略を補佐していた。側室は増え続け、ついには6人ほどにまでなり、あばずれ連のほとんどを吸着して広場は絶対王政の様相を呈した。これをレコナー第一王政の絶頂あるいは単にレコナー王政の絶頂と呼ぶ。夜毎にレコナー王はひしめく側室らを巡ると、それらの現実において恵まれない女らは彼の訪問に歓喜し、迎え入れた。そしてシンデレラ願望を持つネット女の中には、側室へ自主的に志願する者さえいた。こうしてレコナー第一王政は完全に成功し、広場はピグ上最大の人口数にくわえ平和と華やぎに包まれた。かつてイトキチ一派に属し敵対してきたくろすけは、それまで厄介者だった広場のあばずれ連を一手にひきうけてくれたレコナーに感謝し、敬意をこめて彼をレコナー卿と呼んだ。女王となったミキの内面は複雑だったが、彼らの望んでいた政治論あるいは仲のよいつきあいがまっとうに行えて、本来あるべきだった広場の平穏が実現された以上、側室制度を廃止する道筋はまだ見出せなかった。それと同時に、レコナー自身も側室の世話を大変がり、なるほど快楽も認められるにせよそれはそれで過度なら労苦に近づいていた。当時の和歌を集めた『レコナー第一王政歌集』(ほとんどが散逸している)には次の歌がみいだせる。

この世をぞわが世とぞおもふ望月の欠けたる広場なきとおもえば

こうして、かつて運営と類推されるアバターから初登場時のレコナーへ向けられ発された源氏の予言は、奇しくも多くの劇的革命をへて実現された。彼女らが予想していなかったこととしては、レコナーを愛する女王にできた小型のストレス性円形脱毛症にかかってまでの絶えざる自己犠牲のもとに、ではあったが。これらの経過ならびに達成された広場の平和を第一次レコナー王政、またはレコナー第一王政、レコナー第一王政時代、レコナー王政時代などと通称する。また、与党王政におけるレコナーをレコナー王、レコナー1世、レコナー政治王などとも呼称する場合がある。この頃、温和な八方美人の態度でいかなる広場政治に対しても中立を保っていたほわを見つけるとレコナーは、政治広場民からみえない可能性の高い愚痴広場で彼女の過去の行状を責めた。レコナーは彼女へ、彼女は本来、ホメ一派やなな一派、そしてイトキチ一派らの暴虐行為を諫めるべきであったのだと述べたところ、ほわも己をかえりみその優柔不断を認め、以後は大部分客観的な観察者の立場からではあるが重要なレコナー派の一角となった。

 ところではじめのレコナー王政のさなか、愚痴広場にて集団迫害を受けそこから排除された亡命の民、いちご姫(いちご、イチゴ)が政治広場へほうほうの体でやってきた。その衣服はよごれ、心も肌も深く傷つき、今にも死んでしまいそうであった。レコナー王は彼への憐憫の情から、とりあえずの保護を与えつつ背景事情を調べた。いちごは独身中年男性で、それまでえみゅという中学生女子に恋心を燃やしていたという。レコナーがあなたはなぜ男性なのに姫かと問えば、えみゅがその方が可愛いと彼へいったからだ、とその不思議な変装眼鏡のアバターは臆する気もなく応ずるのであった。後に、彼は慶応大卒の金持ちで、高校時代は野球部長という心身とも闊達な人物、さらに弱いものを見ると放っておけない義心の持ち主で、一定以上の政治的知見の持ち主、かつ非差別主義など多くの秀逸な点をもっているとわかるが、当時の彼は愚痴民らからロリータコンプレックスあるいは未成年を対象にした性犯罪者の嫌疑をかけられ実に酷い迫害を受けていた。レコナー王政の官僚らが断片的にだがいちごから聞き取ったところを今一度抜粋すれば、いちごがえみゅに近寄ったその真意は、彼がおおよそ親孝行といった古きよき理由で子供を欲しいと同時に、それは彼一流の知見によれば若い女である方が妊娠能力の点から有利である、という単純な生物学にすぎないのであった。レコナーはこの時、恐怖の愚痴王として隣国に君臨していたダルマから違例の直接訪問を受けた。違例というわけは、レコナー王国としての政治と、ダルマの愚痴はすみわけていたからである。レコナーはダルマの方から、いちご姫を政治・愚痴両広場より共同排除する謀議を唐突に切り出された。レコナーはいちごについて下調べを済ませていたため彼の公徳をはかっての申し出には統治者として深く感謝すると同時に、丁重に固辞の儀を示した。レコナーの側として、犯罪者とみなされている人物についての情報提供ならびに広場民が受けるはずの迷惑についてのご心配はありがたいが、それと同時に亡命の徒を迫害するのは人道にもとるという返答であった。こうしてレコナーはその第一次王政時代初期から、愚痴難民に関する受け入れ態勢の基盤をつくり、人口を増強していった。いちごは有意にか無意にかその恩に報いて以後、有能かつ世界市民的な政治論者となると共に、愚痴民の突然移入に対してはいちご自身への迫害を恐れ彼なりに厳格な態度をとる政治広場守護者の一員となるのであった。なお、テーマ広場群で2大都会とされた政治広場と愚痴広場はそれぞれ隣国だが、おのおのの広場は30人が満場であって、片方で一時的に人がいないともう片方になだれを打って人が集まる、潮目と呼ばれる潮汐現象があり、総じてその働きにかかわらずレコナー王政以後は首都を政治が、副都市を愚痴が担うようになっていった。このため政治広場をレコナー王都と呼ぶこともある。かつてあの栄華を誇った主張広場はどうなったかをここに記せば、オデンヌ女王の回顧録によると、オデンヌ・レコナー戦争を主張側ではレコナー来襲と呼んでいて、当時を思い出せば黒船到来、それまでのオデンヌ女王政が崩されては大変と主張連は政治や愚痴を駆けずり回り、てんやわんやの大騒ぎであったという。かつ、ほぼ同時期にオデンヌ女王は現実において結婚し、ログイン頻度はどうしても下げざるを得ないことからも以後、主張広場は衰退期に向かったという。

 るれ一派

 第一次レコナー王政における側室の中に、にんじんという東京女がいた。彼女は関東北部と推測されているがとある地方の田舎出身で、学生生活を送るため上京し都内で就業した。あるきっかけで知り合った、多重人格の障害をもつ京都は宇治の娘るれへ、彼女は慈母の心を以て接していた。るれの方は、あるとき愚痴広場にやってきた妙齢の美女といっていい容姿の者で、また詳細は不明ながらにんじんもそうだとされているが、この2人は親友であった。ところで前々よりレコナーは初心者に親切で、それは彼が初登場の頃に遭遇した残酷物語の数々から、二度同じ目に他者をあわせない、との親心によるのだったが、るれへもやはり丁寧にしていた。彼はるれの実情を知るにつけ、彼女の私生活における苦しみや楽しみを知り、彼女の幸を自然に願うようになった。ところがるれは多情な女で、といってもるれ自身は博愛の念を持つ寛容な女子であるといういくらか天然じみた意識に過ぎないが、また容姿も手伝って写真撮影などに積極的ないまどきのコスプレイヤーである彼女は独身男性らから一定の人気を集め始めた。愚痴のクールな男前なんとか丸や軟派の達人ユキハマが彼女と親密になりだした頃、アメリカ英語に堪能で愚痴の軽めな東京男ぴんこや愛媛出身でハワイに留学経験のある元ホモの不良ほほい等が、女を厳しく精査する愚痴王ダルマと共にるれの不行跡を指摘しだした。そればかりか、彼らはまれに政治へも顔を出し、よく見知ってはいるが移民後のいちごに談義をもちかけ、いちごも特にぴんことは持てない同盟との意識であった故、るれが浮気な女なのであると断定していった。その上、るれは当時京都に住んでおり、その気質にありがちな裏表の振る舞いがあったし、レコナー派の監視役はるれによる広場民への陰口をしばしば確認、これらの結果、るれの排斥論が古参の間に持ち上がりだした。しかしここに、ななの事実上の引責辞任後に力をもてあましていた元なな一派側近るくが、新たな寄生主として偶像性のあるるれを利用しだしたのである。こうしてるれは、広場の浮気な男性陣から片方では愛玩され、かつ誠実な男性陣からいくらかより嫌悪されながら、広場に定着度を高めていった。にんじんはるれシンパであって、広場男性陣へ向けて行われゆくいかなるるれの働きをも甘んじて黙認し、それどころか、レコナーがるれの風評等による広場治安上の不安などをわずかなりとも相談しようものなら即座に、レコナー派への攻撃行動を開始するといったるれ盲信ぶりもしくは偏愛ぶりなのであった。この為、側室構想が持ち上がった際、にんじんも候補にあがり実際にレコナー王からの寵愛を受けた。といっても、後発的に参入が決まったにんじんの側室内の順位は思ったより高くなかった為、嫉妬深い部分もある彼女はかなりの程度より不満で、半ばお仕着せの側室状態なのであった。なおこの場合の寵愛とは、広場でレコナーから優先的に構われる程度のものであり、肉体関係を意味していない。レコナーはるれについては、彼女が慕う兄を広場で見知っていたこともあり、側室候補からはずしていた。のちにるれはこの逆ひいき問題について却って彼女の博愛の胸中から悲しみ、レコナーの特殊な京都嫌いのせいであるとそしったりもした。

 その頃、愛媛は松山の文人墨客で通俗的な歴史小説を好むレコナーの同世代hoiti(ホイチ、ほいち)が広場にやってきた。はじめこそ独創的過ぎる政治論をぶつレコナーに批判的だった彼だが、次第に相手の人柄を理解して通常にやりとりできるようになっていった。他方、奈良の善男で遊女好きのてんちゃんが広場を訪れたことがあったが、レコナーは彼の穏やかで自然あるいは田園を愛する丸い人柄をほめたが、これはかつて旅行で訪れた奈良をも関西で最も優れた地域の1つであると考えていた為でもあった。つまりレコナーは奈良びいきだった。てんちゃんは、実はホイチと既往の友であったことが後に明らかになるが、彼らレコナー、ホイチ、てんちゃんそしてハシナオは同世代であるばかりか、ほぼまるで同年齢である。彼らをレコナー世代という。ホイチの方は、やがて病気の治療のため東京に引っ越したるれと広場で知り合いとなり、ホイチとるれ派は互いに親身な間柄となっていったし、てんちゃんものちそこへ参加していった。その頃、広場政治面で手持ち無沙汰になっていたハシナオも、るれの容姿に惹かれたのか、独身中年の東京男しかごうと共に、るれの写真撮影会オフへ現実において参加したりもした。このうち、しかごうはにんじんの密偵に対してるれへの下心を暴露したのでるれ一派から強く排斥されたが、ハシナオの方は劣等感や焦燥感といった彼の荒んだ心のうちをるれに打ち明けていくなかで、次第に当派閥の一員となった。

 ちーちゃん一派の到来

 yumenokuni(ユメ)はピグの方々に顔をだしていたが、あるとき喧嘩イベントと呼ばれる弁論術の大会から、ちーちゃん(ちー)と名乗る東京のヤンキーをつれて広場にまいもどってきた。ユメとちーは激しく口論し、一時的に広場は荒れた。そこに広場での暇をもてあますハシナオ(ハシ)が喜んで飛び入り、ユメを庇いながらちーへ恐喝をくりだした。ハシがちーへいうには翌日、上野にくるといいという。上野で現実に殴りあいをしようという。この脅迫に対してちーはハシの電話番号をよこせと応答した。二人の接戦は一晩中つづき、ユメはハシの背中越しにちーを罵倒しつづけたが、戦力というより野次馬に近づき、やがて疲れたのかハシを置き去りにきえてしまった。なぜハシが彼を援護したかといえば、以前に、新宿の思いで横丁で共に語り合った仲で、現実の知り合い以上友人未満と考えたからだ。ところがユメの友誼はハシからの片思いに比べれば、場合によっては薄かったようであり、以後のハシ・チー戦争を通じても己のみを案じはしても、ほとんどハシを庇うことはないのであった。

 ハシはなお、ちーとの問答無用の脅迫合戦に応じてちーの家へなだれ込んだ。レコナーはこれらを感知して調停部隊を送り、ハシのピグの部屋には大男、ちーのピグの部屋には監視役を入れてその後のしばらく事態を見守っていたが、やがてちーはハシが喧嘩に負けたと判定して騒ぎは沈静化した。これら一連の出来事を、ユメハシ・ちー戦争という。しかしちーは格闘家のごとく口論するのを好む人物で、これ以後、広場に定着する。この定着はじめの全体をちーちゃん一派の到来、あるいはちー到来という。

 その後のちー一派(ちー派)は彼女の出入りしていた喧嘩イベントから移民をつのり、やがて広場においてとつげき派と対立、第二の野党勢力となってきた。その中には大奥荒しであるが伝説を自称する神奈川は横須賀にいる謎の女すたぬー、大震災時の津波によって両親を亡くした中卒の両性愛少女にして兵庫男に抱えられた宮城の貧農・絆花(あつは、アツハ、きずなはな)、あるいは、のちに最大の有能者として政治広場史にその名を燦然と輝かすことになるが、東京は白金に住まう金持ちのお坊ちゃん・りおしが混じっていた。さらに、天使と名乗る大阪の富裕層の美女もやってきて、絆花へ同性愛者疑惑を打ちつけたり、レコナーと気まぐれに対峙したかと思えばホームページ製作や肖像画を依頼するなど、次第に広場は賑やかになってきた。ミキは攻撃性の高い天使をおそれつつ非常に嫌っていたが、レコナーは天使のツイッターを後に偶然発見し、その文才を賞賛した。いずれにせよ、彼ら喧嘩イベントからの流入者を総称して喧嘩イベント出身者または喧嘩イベ出身者、喧嘩出身などという。

 彼らは晒しというこれまでも使われてはきたピグ上の闘争手法をさらに洗練させていたり、詭弁術に長け、ついにとつげき一派と明白に対立するとその猛攻によってとつげきのツイッターを一時閉鎖すなわち非公開化するまでに追い詰めた。これはかつてふぐが試みて果たせなかった大事業であって、やり遂げたのは主にりおしの騎馬隊であった。りおし単独での成果だけでもめざましく、りおしはとつげきによる国民罵倒の癖を鋭く批判すると、とつげきの職場を探り当てて公務員職責違反としての苦情をいれたといわれる。これをとつげきの職場への公益通報、あるいはりおしの公益通報という。与党としてのレコナーは一連の出来事を広場にいて実力を確かめるつもりで見守っていたが、りおしの偉業を認め、彼を今後、広場の重鎮とするつもりである旨みずから申し告げた。りおしは山手人らしく折り目正しい人物で、この申し出へ誠実に応答した。以後かれは東京においても下層階級であるため心優しくとも礼儀作法に欠けるちーとの仲介役として、あるいは時に暴走をはじめるおつむに欠けた軍人気質であるすたぬーの制御役など、レコナー派とちー派間の情報ハブ役として機能する。さすがのりおしにも絆花は放っておかれているのが気になるが、その理由の分析は後の研究にゆずろう。

 ちー派はとつげきへ鋭意兵を送り夜毎に激戦を演じ、ついには細々いきのびていたホメとも激突した。この頃、ホメは広場民を日記やブログなどで週刊誌のごとくあげつらい名誉毀損をする晒しの手法を、ち一派から習得していった。その標的として新潟のうつ病を患った男性ぷちおくん(ぷちお)が槍玉となったとき、ホメは看護婦の資格をもちながら精神疾患を侮辱した為に職権違反としてぷちおは激怒、ホメとの全面戦争を開始した。レコナーはこれを見ながら、かつて自滅したホメを再度消尽させる好機会とみてぷちおの後方で事態の推移を見守っていた。ところが猪突猛進のちーはこの喧嘩をみて進んで飛び込み参加、ぷちおが実質的にちー側へ救援依頼をした為にちーはありうる限りの暴力をふるってホメを広場から追放した。これをちーのホメ討伐という。しぶといホメはこれ以後も広場へ断続的にもどってくるが、少なくとも一時的にホメ消尽に成功したちーの非常に強い攻撃力をレコナーは認め、さらに、彼女にお世辞をいいつつ以後協働での政治活動を持ちかけると、ちーはレコナーを敵とみなすことはなく、かくしてレコナー・ち一派での二頭政治が開始された。これをレコナー・ちー時代と呼ぶ。しかし、この二党体制には副作用もあった。

 広場の古参でベンチ組み最大の有力者であったまみーはそれまで事ある毎にレコナーへ情報提供などで進んで協力を惜しまなかった。彼女はちー派を荒らしと認定し、レコナー派にはちー派掃討を期待していた。ところがレコナーは、側室政治によってさえとつげき一派が完全鎮火されなかった政治経験からも事態を重く見、ちー派との共同統治を選択するつもりだとの旨をまみーへ宣言してしまった。これにはいくつかの理由があり、当時広場にいた愛知のアフィリエイター主婦そらちゃんやイトキチ一派の残党らが、まみーの古参集団と組み、ちー排斥の共同謀議をひそかにくりかえしていた情報をレコナーが事前につかんでいたからであり、即ちイトキチ一派再興の芽を摘むという安全統治第一の目的があった、とされる。他方、とつげき派閥の勢力はその時点で、具体的には愛媛南部の山奥から上京してきた田舎女・月兎(げっと、ゲット)とにゃこぶのみの構成で、複数の対立広場勢力からすでに野党として数が削られた後なので、さほど恐れるにはたらなかった側面もその決断に作用した。いわば落ち目のとつげき派と対立している上に成長株であった第二野党としてのちー派を、レコナー派へ敵対しないよう彼は調整した形になったのである。これ以降、まみーは第一次レコナー王政中期の二党体制に失望し、事実上引退してしまう。これをまみー引退という。

 ほか、イトキチ一派の残党を相手に奮戦していったちー派は、イトキチ最後の逃げ場として敢えてレコナー派が焦土と化すのを避けていたイトキチの巣2chを侵略し、論議不問で蹂躙していった。この結果、かすかに残ったイトキチ一派の残党勢は広場における権力のかけらをも失って、ほぼイトキチとモチタという2人の最古参だけに解体されると共に、ちー派は全古参から憎悪を一身に集めレコナー派を除く全広場民から目の敵となっていったのである。

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