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身体の一回性

たとえ魂が存在して、輪廻転生するとしても、死後の世界があって、そちらに意識が向かうとしても、この身体は一回性である。この身体は、この人生だけのものだ。この人生では、この身体という認識でもって、この宇宙を世界を体験するのだ。だから、どれだけ霊的なことやスピリチュアルなことが背景にあったとしても、身体だけは、生まれてから死ぬまでつまり、一つの人生で一回きり。輪廻転生により生まれ変わろうとも、この身体はもう絶対に再度体験することはない。この一回性という奇跡について考えてみたいのだ。

この身体を使って感じることのできるものは、感覚を通して知覚されるだろう。そして、私の目の前にいる他者も、身体の一回性という同じ条件で生まれるのだ。だから他者の身体と居合わせることも、身体の一回性がかちあうという奇跡である。この人の身体に居合わせること、そしてふれることは、この人生においてでしか経験できない。もしスピリチュアルでいわれるような、輪廻転生、ソウルメイト、何度も何度も因縁によって生まれ変わっても出会い続けるとしてもだ。どんなに何度も転生によって出会っていたとしても、それでもこの身体にふれることはこの人生でしかできない。魂や不死という考えにおいては、身体のことは二の次にしてしまう。「身体は仮の姿でしかない。本当の姿は霊的存在、魂であるのだ」ということに仕立て上げて。その仮説をいくら唱えても、いくら信用しようとも、この世界に身体を持って生まれくる存在であることに何の変わりもない。身体ではなく、この意識こそ、あるいは無意識こそが全て、それこそがあの世にも残っていくものなのだと、感覚的に感じられるあらゆる身体的知覚や所作を疑ってみてもしかし、この世界が身体を通して知覚されている事実が変わることはない。

魂を想定する場合、我々は死ぬことはない。身体が失われることが終わりでなく、別の世界へと遷移するだけなのであれば、我々は決して死ぬことはできない。死んだあとが原理的にわからない存在として生まれくる我々にとって、肉体を失うことは、絶対的な死である。絶対にわからない、"絶対的"な"死"である。魂はあるかもしれない。ないかもしれない。その議論は哲学者エマニュエル・カントがいうような「アンチノミー」として退けよう。残るのは、身体。一回性の身体である。だから身体について考えよう。必ず死ぬものとして、いつかは土に還るものとしてある、身体について。つまりはこういうことだ。身体によって"存在し"、"関係し"、"時間が流れ"ている。身体を持ってこの世界にいる以上、このようなあり方でわたしたちは生きているから。

【存在すること】

わたしたちはこの世界に身体を持って、存在している。この世界には様々な、"自然"がある。この身体も当然自然のうちにある。だから、生きることも死ぬことも原理的には変わらない気がする。自然の中にあったものが自然の中で終わりを迎えることに過ぎないのだから。しかしそれは、微視的な視点での世界の見え方にすぎない。自然の構成物をただ化学的に寄せ集めたところで生命は誕生しない。この身体は様々な化学物質の寄せ集めかもしれないがしかし、寄せ集めてもこの体を作ることはできないということだ。人間の身体は大体皆同じような化学的構成だろう。大体同じような構成でできていて、あの人もこの人も比率や量はすこし違うかもしれないが大体同じである。これが微視的に見ることの限界である。存在することを“自然”に還元すれば我々は大体同じであり、同じような機能を備えているにすぎない。我々人間を普遍という視点で見れば、そのようなシンプルな結論に向かっていくことになるだろう。そして、"身体の一回性"は構成物という名で持って、意味を失う。そこには明滅する物質しかないことになるからだ。
しかし、私はそれが人間が存在するということ"ではない"、と主張したいのだ。そうしないと"身体の一回性"という奇跡を語れない。
存在するということは、同時に自分が他とは差異を持ったものとしてあるということを内包している、そう考えたい。そう考えることができれば、僕らは堂々と、“私”あるいは“あなた”として、存在することができる。そしてそれが人間として生まれることの最大の可能性である。
存在の底にあるのは、まずは“性”である。昨今はセクシャルマイノリティの議論が著しい。けれども、そのことを横においてでもこのことは事実として絶対に語られなければならない。我々の存在を繋ぎ止めてきたのは、“性”である。もっというと、自分とは違う“性”である。私は男性として生まれたので、それは女性である。女性という存在なしに私は存在を繋ぎ続けることは"絶対に"できない。そのようにして生命は身体を授かる。だから身体は自分のものではない。自分で作ったものでないし、自分で稼いで購入したものでもない。あくまで、生命の連鎖の結果として身体が生み落とされたのだ。それが、身体を持ってこの世界に存在することの絶対的事実である。豊かな感情を持って、この世界に身体を持って誕生したことを祝福しよう。

そして我々は、生まれたときから、呼吸が始まる。呼吸とは、吐くことと吸うこと、このリズムでできている。呼吸とともにこの身体は始まり、呼吸とともにこの身体は終わりを迎える。呼吸は存在するための極めて大事な機能である。酸素と二酸化炭素の交換は、よくある科学的説明である。しかしそうではなくて、空気の入れ替えとは、無限なものと有限なもの、自分であるものと自分でないものが接触するということである。空気が私の身体の中に入るとき、空気はこの身体の内側へと浸透していく。そして一回性である有限な私の身体へ溶け込む。空気が私の身体から出ていくとき、その空気は宇宙という無限の場所へと還っていく。この往復はまるで生と死のリズム、覚醒と睡眠のリズムのように繰り返される。この身体の一回性は多層的なリズムの意味を内包しながら、呼吸によってこの世界を体験することになる。それが、マインドフルネスや瞑想の意味である。存在とともにあり続ける"呼吸"、そのことの精緻な体験。それは存在することそのものである。

【関係すること】

僕らは人と関わることなしに生きながらえることができない。呼吸はできても、最初のうちは食事すらもままならない。だから生きるということは他者にしてもらうことや与えられること、そして何より「愛されること」によって、一回性の身体は守られ続ける。ずっとそれが続くことは少なくても、関係なしに人は生きていくことができない時期を必ず経る。そして、自分一人で生活を維持できるようになったとしても、人は人と関わりたい、温もりを感じたいという“親和欲求”を失うことはない。
親和欲求は、突き詰めれば身体への欲求だ。私が一回性の身体であるということと同時に、他者も一回性の身体であるという事実を我々はさも自然に理解している。身体が関係するとは、“声” “まなざし” “掌”として記述されるだろう。もちろん、これら3つの記述は、ただ単に感覚的に声を聞く、まなざしが合う、掌を握るということではない。そうではなくて、身体が関係するとは感覚以外の豊かな気と念が伝わっていくことであり、身体を通して、他者に感覚以外のものを伝えるということである。しかし、それはたとえ物理的に離れていようとも、我々は身体を持つ存在として、伝えること、伝わることが“声” “まなざし” “掌”という機能を必要とするということなのだ。それは耳が聞こえなくても、発話できなくても、目が見えなくても、手がなくても、手を動かせなくても、関係ない。実際の身体を指し示していると同時に、実際の身体以上の関係性を指し示しているからだ。
誰か大切な人を思い浮かべたらいい。その人の声とまなざしと掌を思い浮かべたらいい。
そして私の身体も大切な人の身体も、いずれ失われる運命を持つことに想いを馳せるのだ。
私はこの身体が一回性であることの奇跡と、この邂逅の奇跡に同時に想う。人間が有限であること、いつか死んでしまうこと、でも今たしかに身体があることを体験しているということ。そのことに意識を向ける。
この気持ちを感じればいい。ただそれだけ感じることができれば、人は関係すること、邂逅すること、奇跡であること、身体という存在が美しいことに気づくはすだ。
関係することは、「感謝」で満たされている。出会いのわからなさへの偶然への想いに満ちている。
この想いで人の身体にふれよう。いつか必ずなくなってしまうこの大切な人の身体に。一回性の身体に。決して乱暴にいい加減に扱ってはならない。優しく抱きしめる。温もりややわらかさは恒久なものではないからこそ、美しいのだから。そして、忘れずに覚えていよう。我々がこの刹那性のなかで生きていくことのなかで、“記憶”こそがこの奇跡の反芻を許すのだから。

【時間が流れること】

我々の身体は生まれた瞬間から、この身体が失われる方向へと、自然の摂理に従って転がり落ちていく。今文章を書いているこの私もいつか来る身体の崩壊のときへと転がり落ちている最中だ。そのことに自覚的ではなくとも、事実としてそれは進行する。時間が流れることは、老いであり、死への道である。我々の身体は、日々の入れ替わりによって交換されていく無数の化学物質の流れによって、時間をきざみ続ける。代謝は次第に遅くなっていくから、時間の流れは速くなっていく。代謝が速い若い体は、等間隔で過ぎる物理的時間の流れを相対的に遅くするから、老いは時間の流れを速くすることになる。老いることは、代謝という化学的現象からも極めて明らかに時間の流れを加速させていく。老いると月日が経つのが速くなるのは、代謝という生理学的現象からも自明の事実なのだ。こう考えると切ない。けれども、それが生まれたときから決まっているからこそ、我々は生きることができるのだ。手塚治虫の『火の鳥』では、死ねない身体の恐怖をまざまざと見せつける描写があった。死ぬことができない恐ろしさの方が、死ぬ恐ろしさよりもはるかにおぞましい。逆説的だが、死ぬ存在であるという切なさ無しに、豊かに生きることはできない。

生命の歴史は紡がれる。この身体は一回性だとしても、この一回性の身体がここに存在しているのは、不連続ではあるにしても、性によってそれが紡がれ続けてきたからだ。永遠とそれは紡がれてきた。どの人が欠けても、私はここにいない。果てしなく続いてきた歴史の最先端が私という存在である。そのことを忘れてはならない。人を殺めることは、その歴史性全体を途絶させることだ。一人の人の命は、連綿と繋がったリングの最先端を断ち切るのみならず、歴史性への冒涜なのだ。そのことを忘れてはいけないのだ。
時間は流れていく。個体の宿命として、この身体は老いへと死へと向かっていく。そしてこの時間の流れは、過去から未来へと流れる時間だ。この時間のことを思えば思うほど、瞬間瞬間が切なくなっていく。この方向の時間は我らが経験する日常的時間である。物理的な時間と言ってもいい。
しかし人間の時間には、実はもう一つある。これは以前書いたことがあるが、それは「未来から過去に流れる時間」である。これは“意味の時間”である。ここから、一回性の身体は"物語"という意味を見出す。物語は身体にきざまれるのだ。過去の事実は変えらえれないとしても、過去の解釈は変えられるし、変わっていく。今ここで経験していることの意味が解らなくても、それは将来判明することになる。そして、その将来から見た過去が今経験していることである。未来から過去に流れる時間を意識すれば、その意味が事後的にわかる。あるいは、今この瞬間に、過去に起こった出来事の意味が解るかもしれない。このときあれが起こったのはこういう意味だったのかと。そしてこの未来から過去に流れる時間は、通常流れる時間から見れば、先取りの時間にも見えるだろう。このような特殊な時間を意識すればするほど、この一回性の身体は、自分の人生が本当に望んでいるようなことをはるか手前で察知して行動しているようにすら見える。身体は自分の意識が思っていることよりずっと先に行動をして、フライングする。今まで書いてきたことと矛盾するように、死ぬことから誕生するまでの全経験が、つまりは通常の時間とは逆方向の時間が、私に生きることの意味を徐々に開示する、最初からこうなることがわかっていたように、身体は物語にはめ込まれていく。もしかしたら、逆方向に流れる時間こそが実態で、私たちは決して自分では知ることができないが、すでにつくられたシナリオの上を一回性の身体として体験するように生きているのかもしれない。そんな気持ちにすらなる。おそらくこれも、一回性の身体という奇跡の大事なありかたなのだ。それは絶望でもないし、意志を失うことでもないし、未来が完全に定まることでもない。けれどもいつも理由のわからない情熱を、一回性の身体が切望する理由は、未来から過去に流れる時間という問いを立てることによって、少しだけわかるかもしれない。この物語を体験するための身体として生まれた、ということの理解に。

長々と述べてきた。結局、行く先はあらゆる生きとし生けるものが決まっている。そんなことは誰でも知っている。けれども身体の一回性の目的は死ではない。存在し、関係し、時間が流れるこの身体の今を生きることだ。
さて、、それでは今とは何か?生まれてから死ぬ瞬間まで、この全範囲が、"今"であると言おう。過去も未来も、"今"に内包されている。これが身体の一回性そのものの自覚である。これからどうなるか、これまでどうだったのか、実はそんなことは本当はわからない。けれども"今"は運命的である。この"既に決まっているようなわからなさ"を前にして、この一度きりの身体をもって、現世で生きることを想うことは。

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