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魔女の訓練としての備忘録

これから魔女の訓練としての備忘録ということで、いろいろ書いてみようと思います。今まで固い文体で哲学エッセイを書いていましたが、あれはあくまで足場作りだったのです。足場ができたということは、次にやるべきは何かを具体的にすることです。

さっき2500文字程度書いたら、いままでこんなことは一度も起きたことがないのに、記事が途中の経過も何も残らずすべて消えてしまいました。しかしこれにこりずにもう一度書こうと思います。

魔法についてです。僕の知り合いには占い師や、霊能力者、オカルティストなど不思議な感覚を持った人が何人かいます。そして僕もここ数年はとくになのですが、そのような感覚が出てきたのか、共時的な出来事が増え、少し先の未来がパッと出てきたりするようになってきてしまいました。
しかし、このような性質は、ほったらかしておくと、非常に危険です。やはり日常生活や地上世界から少し乖離した感覚なので、この感覚のままでずっと生きるというのは、体調を急に崩したりとか、変な不運が来てしまったりとか、そういう危険性も同時に秘めるようになってしまう可能性があります。そのために必要なことは、きちんと自分の感覚や能力の扱い方を正当な形で守ること以上にはないと思います。

最近原因がよくわからず調子が悪くなってしまいました。今は落ち着いておりますが、このようなことは今までに何度もあって、これはもしかすると自分の感覚や能力を適切に使いきれていない、あるいは、使うべきでないところで漏れ出ている可能性があります。

僕の知り合いがよく言っていましたが、「霊能力がある人で健康な人を見たことがない」と。僕の知り合いにいる占い師や霊能者、オカルティストの人は皆、心や体のバランスを崩す人が多い。これはまずい。自分にもそのような感覚が少しずつ出てきてしまったので、これはうまくコントロール出来なかったら良くないなと思っています。そしたらやはり共時的にそのような機会がきたのですね。その話もあとでします。

さて、ここからユング心理学の話をします。ユング心理学の心理学的タイプ論という考え方があるのですが、そのなかで内向直観機能というものがあります。心理学的タイプ論は、現在はMBTIという形で発展して、統計学的な信頼性なども獲得した科学的なものになっております。日本MBTI協会の体験セッションを僕は以前受けました。


その結果INFJというタイプが自分にとって最もしっくりくるだろうということになりました。このタイプが最も一番使っているのが、内向直観機能Niと呼ばれるものです。最も言語化しにくい能力なのですが、簡単に説明するなら物事の法則性や世界の仕組み、秩序などを直観的に全体を把握して理解する能力です。全然簡単ではないですね。哲学、芸術、宗教、この世界の仕組みなどを理解するときに必要となる能力と言ってもいいかもしれません。この能力を持っていると、そもそもなんなのか?本質はなんなのか、結局何をしているのか?何がしたいのか?本当の問題は何か?ということを常に考え続けることになります。まさに哲学ですね。哲学に親和性が高い人はこの内向直観機能を持っている人が多い。そして、それだけではなくて、パッと物事の本質が見えてしまうことにより、未来のことや人の気持ちすらもわかってしまう人もどうしても一定数現れてしまうような能力でもあります。この機能自体は、超能力や霊能力ではありませんが、この機能を持っている人は、そのような能力にアクセスしやすくなると言っても、言い過ぎではないでしょう。この心理学的タイプ論をつくったユング自身もINFJでした。そして彼はどう考えても人間の感覚を超えたような知覚を持っていたとしか思えないものをたくさん残しています。例えばシンクロニシティ(共時性)という概念、アーキタイプス(元型)という概念、赤の書の悍ましいヴィジョン。調べればわかりますが、少し怖いくらいにこの人はこの世界ではないものをたくさん見ています。
シンクロニシティということをきちんと概念にしたのはユングです。ユングは「意味のある偶然の一致」と呼んでいます。ユングは精神科医でありましたが、患者が夢にコガネムシが出てきたと話していた矢先に、診察室の窓にコガネムシが入ってくる。そして、過去の儀式的なものとしてコガネムシが使われていることを知る、現実的なものが不思議な一致を起こすということをユングは常日頃からずっと経験していました。ユングが怒りを表現すれば雷が目の前に落ちるし、ユングの内面にたくさん浮かんでくる幽霊はユング家の呼び鈴を鳴らしまくる。恐ろしい人生です。ここまで恐ろしい人生はちょっと嫌ですが、そのような共時的体験を経験し続けるのは、まさにユングがそのような人であったということだと思います。
そして、アーキタイプス、元型という言葉をユングが概念化しました。古今東西いろいろな風習や慣習や芸術には、共通のものが出てくる。それは、人間の心の奥深くに共有されたものがあるからではないかとユングは考えました。そのことを集合的無意識と呼び、その集合的無意識の内容を、元型と呼びました。例えば、古今東西どこにいっても、母なるものが見出されるのを発見し、それを太母(グレートマザー)と名付けました。あるいは、賢き長老のような人も発見される。老賢人(オールドワイズマン)と名付けました。老賢人といえば、見た目や話している内容からみて、例えば養老孟司さんはまさに老賢人の元型をよく表しているように思います。
次に元型とはつまり、時間と空間を超えた五次元世界の入り口です。ユングは時間と空間を超えて、この世界には共有された世界があるということをきちんと理屈を使って説明した人です。このように、内向直観機能というのは不思議な能力を備えやすく、またそのような不思議なことに名前をつけて処理しないと、人生を生きる上でよくわからなくなってしまうので、いろいろ名前をつけて回るようになります。僕もイライラしたり不愉快になったりすることを「獣性あるいは魔物」とか名前をつけたり、人の身体に失礼なく触れられるようにすることを「体育」とか呼んだり、人間の孤独感を「永遠に自己という牢獄に閉じ込められる人間の奈落」と呼んだり、暦のことを「時間の空間化」とか、未来から過去に流れる時間を「意味の時間」とか、芸術鑑賞の仕方を「多重性多面性」とか、まぁいろいろ作ってしまうのですが、そんなふうにして過ごすのが僕にとっての日常になるんですね。

しかしながら内向直観機能を主機能としてもつ人たちは必然的に苦手なものが出てきます。外向感覚機能という能力が弱くなってしまいます。五感から入ってくる情報を五感で見たまま聞いたまま感じたままに受け取る能力が弱くなります。内向直観機能を持つ人は往々にして日常生活を送ることにストレスを感じてしまいます。この地上世界で暮らすということは、この世界の本質を把握して統一的に理解する能力を特別求めていません。必要なことは、生活です。生活ができてさえいれば、この世界で困ることは別にありません。生活するために必要な能力が、この外向感覚機能です。今ここ、それだけをみて生活をすることです。未来や過去はあくまで時系列的な把握しかしない。それが生活です。遠くて予測もできない未来や、自分が生まれるよりもずっとずっと昔の、知りもしない過去に思いを馳せることは、生活に必ずしも必要ではありません。生活に必要なのは五感をしっかりと使って今ここにあることに集中して楽しむことです。そして、内向直観機能を持つ人はそれが苦手です。よくものを落としたり忘れたり、怪我したりすることはしょっちゅうです。おしゃれなどもあまり得意ではない。どの色とどの色の組み合わせが良さそうとか良くなさそうとかそんなことが意識に上ることはとても稀なのです。しかし、それでは、日常生活はきちんと送れない。そのための訓練が必要なのです。結局そのようなタイプであるということは、地上生活をきちんと送ることが難しくなり、場合によっては健康を害したり、社会適応が難しくなっていったりすることになります。内向直観機能を持っているという事実を知って、その能力をこの世界で適切に使うためには、訓練が要ります。そして、それが魔女になるための訓練なのだと僕は理解しています。

もちろん、あらゆる能力をあらゆる人が心のうちに備えています。どんな人にも内向直観機能は備わっている。そして、どんな人にも特殊な世界、例えば霊能力や超能力のようなものの道は開かれている。だから、そのような世界に足を踏み入れてしまう瞬間が来てしまった人には、皆魔女の訓練を本当はした方がいいのです。そうでなければ、この不思議な能力を変な形で使ってしまって、自分の調子を著しく悪くしたり、人を深く傷つけてしまったり、体や心におかしな不調が起きてしまったりするのです。



ここからは知識の確認だけではなくて、エピソードを交えながらの文章にします。僕の知り合いが、佐藤シューちひろさんという魔女を少し前に教えてくれました。まさに魔女という感じでした。魔法の使い方という長い文章を少し前に読みました。

その前にまた別の不思議な女性、一年位前から占い師で薬草使ってて大学の講師もしているというような人と話す機会に恵まれたりなどということはある意味で兆候だったのかもしれません。

そんなこんなで、お盆前、8/10から急に謎の調子の悪さが襲ってきました(コロナではありません)。この時期が、魔女みたいな作家の坂口恭平さんのうつの時期とほぼ被っていたのがすごく笑えるのですが、もしかしたらそういう時期だったのかもしれません。8/12に、久々に近くの本屋へ行きました。そしたら、マット・アウリン『魔術の教科書』という見るからに僕に必要そうな本がのぞいていたのです。しかし、その隣にはアレイスター・クロウリー『法の書』という黒魔術界で最も有名なアブナイ書物が隣にありました。僕は興味本位で手に取ってパラパラとめくってしまいました。そしたら咳払いをしながら、少し小太りのおっさんが僕をまるで邪魔するかのように、幸福の科学の本が置いてあるところに立って、幸福の科学の本を眺めはじめました。僕は黒魔術の不気味さを知ってその場を立ち去り、近くの仏教書コーナーで少し時間を潰して様子を伺いました。しかし、幸福の科学というもはやきちんとすらしていないエンターテイメント黒魔術目当てのおっさんは全く退ける気配もありません。この物理的阻害は、自分の決断力のなさによって往々にしてよく起こることなのだと思うのです。意を決して、またもとの本棚に戻って、おっさんには邪魔になりますが、仕方ないのでかなり至近距離まで近づいて、無事に『魔術の教科書』を本棚から救出して、購入することができました。

さて、実は冒頭に書いた、この文章を書いてはならないのかもしれないという話ですが、これも黒魔術師の名前を書いた途端に記事が全部消えてしまったのです。あのときの嫌な気持ちはなかなか忘れがたい。やはり決断力とか決意というのは重要です。今は確固たる意志によってこの文章を書いているので、もう消えることはありません。なるほど強い意志を持てということをこの一連の出来事を通して僕は学んだわけです。つまりは、魔女になるというのはどういうことかというと、日常生活から既に試されるフェイズに入るということなのです。僕は本を買うということによっても、文章を書くということによっても、試されていたわけですね。そしておそらくこのちいさなちいさな第一歩を乗り越えたから、「よし、それでは魔法学校の入学を許可しよう」ということになったのだと思います。実をいうともう一つ問題が起きてしまったことがあります。これはまた必要なときに書くことになるのかもしれません。

そういうことにしましょう。そして、僕がまずはじめたのはグラウンディングでした。チューニングと呼ばれるこの方法は、地上生活と自分をつなぐために非常に大切な方法でした。このマット・アウリンさんの魔術の教科書はよくできている、と思ったのです。
これはまた次に書きます。

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