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社会人5年目、7つのしごと。

私が「はたらく」ことについて初めて真剣に向き合ったのは、たしか思春期も終わりに差し掛かった高校生時代。

自分が何をしたいのか。どうしたら稼げるのか。
考えれば考えるほど思考の沼にハマっていき、ようやく答えが出たような感覚とやっぱり違う気がするという感覚が交互に押し寄せて、高校時代は進路もなかなか決められずにいた。

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お金が大好きな母親の影響か、私は小さな頃からお金に興味があった。
そして将来は玉の輿に乗るんだと信じて疑わなかった。

「どこに行ったらお金持ちにたくさん出会えるのかな?」
そんな期待に胸を膨らませていた当時の私はなんて幸せだったんだろう。

ただ、今考えてみれば、「両親がいなくなったらいったいどうやって生きていくんだろう」「本当に自立できるのかな…」という漠然とした不安がずっと根底にあったのだと思う。

次第に現実を見始めた私が、母親に「玉の輿に乗るのと、自分で稼ぐのってどっちがカンタンだと思う?」と聞いたとき、母親は間髪入れずに言い放った。

「自分で稼ぐ方に決まってるでしょ。」

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結局、私は4年制大学に進学し、保育士の免許を取ることにした。

実は受験直前で志望校を国立大に変更して受験失敗するんだけど、長くなるのでここでは割愛。
滑り止めで受験していた私大に入学することになった。

資格至上主義の母親の口癖は「資格さえ持っていれば食いっぱぐれることはない」。
その言葉通り、私の姉も薬剤師として今もバリバリ働いている。

保育士資格と幼稚園教諭免許まで取得したものの、どうしても現場で働く気が起きなかった私は急きょ方向転換をして民間企業の就活を開始。
インターンシップで銀行に行ってみたり、塾や学童保育の教育業界にエントリーしてみたり。

あの頃の志望動機なんてめちゃくちゃだったと思う。
銀行で働きたかったわけでもなければ、子どもは好きだけど学習塾の社員になりたかったわけでもない。
ただみんなが就活をしているからという理由だけで、真っ黒なリクルートスーツに黒髪をひとつに結んだ。

大学で開催されていた「就活メイクの特別講座」に申し込んだこともあったし、俗に言う”量産型女子”ってやつにどんどん染まっていくあの感じが堪らなく嫌だった。

あの頃はなんとなく毎日がつまらなくて、「本当にこのままで良いの?」って何度も何度も自分に問いかけてみたけど。
やっぱり答えなんて出なかった。

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私の所属学科は保育だけでなく、同時に心理学も学べるコースがあった。
心理学にも興味があった私は当然そのコースを選択。
だから知っている教授といえばほとんどが心理学関連の方で。
就活に悩んでいた私は、よく研究室に逃げ込んで話を聞いてもらっていた。

その結果、私の中に「大学院進学」という選択肢が生まれてしまった。
絶対にあり得ないと思っていた。
卒業論文だけであんなに苦しんでいた私が、また入試のための勉強をして、そこからさらに2年間も研究をするだなんて。

母親も大学院なんか行かないで早く働きなさいと反対していたし、すごくすごく迷った。
でも、私は大学院に進学したら「臨床心理士」という資格が取れるということにとても魅力を感じてしまっていたのだ。

この時、すでに私は資格マニアになっていたのかもしれない。
新しいことを知るのが好きで、勉強も嫌いなわけではなくて、ただ飽きっぽいから試験合格というわかりやすいゴールを自ら設定してそこまで全力で走りきる。
自分にはこういう生き方が合っているのかもしれないと、ようやく思えるようになったのはその頃からだった。

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大学院進学を決意した私はあっさり就活を辞め、大学院入試のために猛勉強、そして無事合格した。
大学院での2年間は想像を絶する苦労の連続だった。
修士論文の提出間近、いきなり吐血をして病院に駆け込んだあの日のことは今でも鮮明に覚えている。

この頃の私は、「はたらくこと」についてなんて一切考える余裕もなく、ただただ毎日を生きるのに必死だった。
この2年間、これ以上の経験はないだろうって思えるくらいの経験をさせてもらったと思う。
いっぱい泣いて、いっぱい笑って、とにかく激動の時間だったから。

だけど、私の人生がもっと大きく動いたのは社会人になってからだった。

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社会人1年目。
「大学助手兼大学附属心理相談所相談員」というやたら漢字が多い仕事に就いた。
ざっくり説明すると、スクールカースト制度の末端ポジション。
大学という組織の中で、間違いなく底辺にいた。
(個人的にはそう思っている。)

これを読んでくれている人の中にもし同じ仕事をしていて、もし今毎日が辛いと思っている方がいたとしたら今すぐ逃げてほしい。

私自身、まったく気づかぬうちに追い詰められていて、限界寸前のところまで来ていた時、とある人との出会いでどうにか救い出してもらった経験がある。

詳しくは書かないが、この頃から「みなし残業」を提唱している企業に対してあまり良いイメージを持たなくなったし、ただ「はたらく」ということについては真剣かつ客観的に考えられるようになった。

ちなみに大学助手は上司と散々揉めたあげく9ヶ月で無理やり退職。
密かに転職活動をしていたので期間をあけずに教育系のベンチャー企業に正社員として採用していただいたものの、当初聞いていた話と契約書の内容がいろいろと違いすぎたため早々に退職することにした。

大学助手時代、正社員の仕事だけは絶対に辞めるわけにはいかないと言っていた私だったが、「辞めることができた」という一度の成功体験のおかげでどうやら勢いづいてしまったらしい。

この頃から「人生は案外どうにでもなる」と思うようになった。

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社会人2年目。
教育業界で続けて痛い目を見てしまったため、まったく毛色の違う通信業界へ転職。
この時、初めてフリーランス契約で営業事務をやることになったのだが、それが決まるまでの1ヶ月間、初めてニートも経験した。

ニートとはいえ1人暮らしをしていたため、とにかく働くしかない。
それでも最初のうちは全然やる気が起きなくて。
どうにかアルバイトを見つけて、カツカツの状態で生活するという日々を過ごすなかで、「今は生きるために働いているんだな…」としみじみ物思いにふけった記憶がある。

私は決して生きるために働きたいわけではない。
この時、強くそう思った。

ちなみにフリーランスとして働いた期間は短かったけど、ものすごく勉強になったということは間違いなく断言できる。
国民健康保険や確定申告のことなんて、きっとあのまま正社員だったら勉強しようなんて思わなかったし、そもそも知ろうともしなかったと思う。

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社会人3年目。
別の通信系の企業で派遣社員になったが、正直、事務仕事は午前中にはすべて終わってしまうような内容で、時間を持て余した私は仕事を休みがちになった。
社会人としてそれはいかがなものか、と思う冷静な自分ももちろんいたが、それ以上に20代の貴重な時間を無駄にしたくないという気持ちの方が強かったのだろう。

派遣社員はたいてい時給制だ。
つまり、どんなに暇だろうとその場にいればお給料はもらえる。
ただ、ハケンの品格の大前春子さんのお言葉を借りるのであれば、それは間違いなく「お給料泥棒」だ。

「仕事は暇な方が良い」
そういう人たちも周りにいたけど、私は到底そんな風に思えなかった。
きっと私は、お金よりもやりがいに価値を感じてしまうタイプなのだと思う。

私のこうした態度が癪に障ったようで、職場の人間関係はとにかく最悪だった。
中には最後まで態度を変えずに接してくれた先輩もいたけど、複数人から会議室に呼び出されてネチネチやられたこともあった。

さすがにその時は身の危険を感じたのでこっそり録音してたんだけど、あの音声データ、実はまだ残ってますよお姉様方。
なんてね、もちろん今後使うタイミングなんておそらくないんだろうけど。

こちらも散々揉めて退職し、私はようやく古巣に戻ることを決めた。
発達障害児の支援施設での非常勤職員。
職種は臨床心理士。
実は資格を取ってから実際に現場で使うのはここが初めてだった。

職員同士の人間関係はあまりにも良すぎて逆に疑ってしまうくらいで。
そして何より女性の先生たちがみんな可愛い。

久しく現場を離れていた私はその場その場で起きることに対処するのが精一杯で、時間はあっという間に過ぎていった。

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社会人4年目。
私にしてはめずらしく仕事が続いていたが、体調面では徐々に異変が起きていた。
原因不明の頭痛、目眩、吐き気。

時短勤務だったため、出勤開始は遅い時間帯だったにもかかわらず、全身が重くてまったく起き上がれない日々が続いた。
欠勤が続き、他の先生方もみんな心配してくれていた。

どうしてこんなに人間関係も良くて、お給料もそこそこもらえて、自分の資格も活かせる職場なのにこんなことになってしまったのか…
散々考えて行き着いた結論は、慢性的な精神疲労。

もちろん子ども相手の仕事は体力勝負なので、身体疲労があってもおかしくない。
ただ、保護者に一挙手一投足を見られ続ける仕事だったこともあり、ずっと神経を尖らせていたことで、気づかぬうちにまた限界寸前のところまできていたようだ。

身体が悲鳴をあげてしまい、この頃は同じような精神状態だった社会人1年目のことをよく思い出すようになっていた。

私はいったい、本当の本当は何をしたいんだろう。

考えても考えても何がベストな選択なのかはわからなかったけど、それならいっそ心機一転、これまで一度もやったことがないことをやろうと決意。
完全未経験の状態にもかかわらず、私は営業職の仕事を探し始めた。

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社会人5年目。
運良くトントン拍子で拾ってくれる企業が見つかったが、外資系ベンチャー企業のメーカーで法人営業をやることになった。
我ながら無謀な決断だ。

まず外資系って英語できないし。
ベンチャーってめちゃくちゃハードなイメージあるし。
しかもプログラミング教材を扱っているメーカーらしい…いや私、文系だし。
そもそもいきなり法人営業って、営業すら未経験なんだけど!

とまあほぼ言い訳しか出てこない状態で入社し、上司から営業のいろはをみっちり叩き込んでもらった。
初めの1〜2ヶ月は、マンツーマンでホワイトボードを前にノウハウを教えてもらったり、商談に同行して実際の流れを見せてもらったりしていた。

この時学んだことは、今でもいろいろな場面で役に立っている。
本当に感謝しかない。

未知の世界に飛び込んだから毎日が新鮮で、1つずつ新しいことができるようになっていくあの感じがたまらなく楽しくて。
ベンチャー企業で日本支社はかなり人数が少なかったからとにかく忙しかったけど、それでもずっと自分がやってきた教育分野で働けることが嬉しかった。

自分でアポを取って新規開拓をしていく中で、もちろんうまくいかないことも圧倒的に多かった。
でも、だんだん取引先の担当者と仲良くなっていろいろなことを話してもらえるようになると嬉しかったし、ものすごくやりがいを感じることができた。

取引先の方々やその先の子どもたちに喜んでもらえた瞬間は、
ああ、私いまちゃんと働いてるなって
生活を維持するために働いているわけじゃないよなって
心の底から実感できたような気がした。

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残念ながら、コロナの関係で営業の仕事は1年経たずに解雇されてしまった。
でもあの時初めて会社側から契約を切られる経験をして、頭では仕方ないとわかっていても心がついていかないあの感覚を自ら体験できたのは大きな財産である。

もちろんこんな風に思えるのは、時間が経った今だからだと思う。
当時は絶望したしパニックにもなった。
でも、それを話した友人が大爆笑している姿を見て正直救われた。

だからどうか、突然こんな世の中になって一時的に職を失ってしまった方々も気を落とさないでほしい。
大丈夫、人生は案外どうにでもなる。

おかげさまで、営業時代の取引先の方に声をかけていただき、退職した翌月からすぐに教育系の民間企業に再就職を果たすことができた。
最近は新規事業開発の部署で、不動産に関わる仕事も任せてもらっている。
あの時、真剣にお客様と向き合っていた甲斐があったし、本気で働いていたからこそ今があるのだと信じたい。

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こうして大きく7つのしごとを経験してきたが、要するに私は7つの組織を自分の目で見てきたことになる。
経営方針、社風、労働環境、人間関係。
良くも悪くも千差万別で、トップの在り方が会社という組織に色濃く反映されるということも身を以て実感した5年間。

正直、これだけ短期間で転職を繰り返していれば愛社精神なんてものを特に持ち合わせる必要もなければ、淡々と必要最低限の業務を終わらせて毎月のお給料だけいただくことだってできる。

でも、私にとってはそんな毎日がひどく退屈だった。
法人営業の仕事を始めてから、自分は本当はもっともっと仕事に打ち込みたいんじゃないかと考えるようになったし、今の仕事を始めてからは会社という組織そのものに興味を持つようになった。

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今の会社は、私の目から見て正直問題が山積みだ。
人材の適正配置もできていないような気がするし、この人は違う部署の方がもっと力を発揮しそうなのにな、と思うことも多々ある。

もちろん法的には問題がないように気をつけているんだろうけど、みなし残業や休日出勤、給与形態等の処遇面。
私が入社してからこの数ヶ月の間、社員が激務薄給で潰れてしまう寸前の状態になったり、何人も退職者が出たりという状況も目の当たりにしてきた。

最初のうちは、社員だからといって会社のコマとして都合の良いように利用されるのはおかしいと思えていたとしても、だんだんそれが「普通」だと思うようになってしまうことを、私は社会人1年目の職場で嫌というほど痛感していた。

一言で片付けるならきっと「ブラック企業」。
でも、なぜか私はこの組織を完全には嫌いになれずにいる。

それはいったいなぜなのか、最近改めて考えてみた。
きっと経営陣が個室などの遠い場所にいるのではなく、オフィス内でそのへんをうろうろしているような風通しの良い組織だからだ。

私は面談のたびに、今感じていることを率直に伝えるようにしている。
すぐに改善されるかどうかはさておき、経営陣が私のような一社員の話にもきちんと耳を傾けてくれるのだ。
それって、組織にとってはものすごく大事なことなんじゃないかと思う。

今までの私だったら、きっと経営陣に対して自分の意見を言うなんて考えられなかった。
その会社がどうなろうと私には関係のないことだし、本当に嫌だったらすぐに辞めれば良いだけの話。
それでも私は今回、すべてを伝えるという選択をした。

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たとえそれが「言っても仕方のないこと」だとしても、それでも組織の中で誰かが声をあげることは大切で。
みんなが見て見ぬふりをし続けている組織はきっともうそこが天井で、それ以上の伸びしろはないのではないかと私は考えている。

人それぞれ自分の信念があって、言い分があって、感情がある。
だから一生分かり合えないかもしれない。
でも、もしかしたらお互いの思いを伝え合うことで歩み寄れる部分もあるかもしれない。

だからこそ、1人ひとりがひとつの組織を良くするために声をあげ続けること、たとえ意見がまったく異なる相手だとしても、世の中にとって価値のあるものを提供するためにお互いが半歩でも歩み寄ること。

そして、どうせ無駄だと諦めることなく、ダメもとでやってみるという勇気と勢いを持ち続けること。

それが「はたらく」っていうことなんじゃないかと、今の私は思う。

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「人生は案外どうにでもなる」

こんな風に思えるようになったのは、これまでたくさんのしごとを経験してきたおかげだし、自分が「はたらく」ということに対して真剣に向き合うきっかけをくれたたくさんの人たちのおかげだ。

これからは、玉の輿に乗る人生ではなく、自分自身の力をつけていく人生に期待してみようと思う。

社会人5年目、7つのしごとを経験してきた私の人生は、これからもっと面白くなりそうだ。

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