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写真とエンターテイメント

額に入れてずらっと並んだ写真を腕を組んで見るというスタティックな行為から、会場にある写真ごとの関係性や展示スタイル、空間の移動も含めて体験として楽しむというダイナミックな行為へと変えるべく、写真展のことをインスタレーションと呼びたがる若い作家が増えました。
CDは売れなくなったけれどライブの動員は増えていることでわかるように、デジタルの複製時代にあって価値を持つのは体験です。DVDで見るのと映画館に足を運ぶのでは画面のサイズ以上に映画の喜びに違いがあり、YouTubeとコンサートホールでも格段の違いがあります。

そこでは写真はテクストであり、モダンアートはもちろん、文学、映画、音楽といった他の芸術やエンターテイメントの要素を取り入れようとしています。
「すべての芸術は音楽の形態に憧れる」とウォルター・ペイターは言い、ニーチェは「音楽に比べればあらゆる現象は比喩に過ぎない」と言いました。ロベルトさんも音楽にあって写真に足りないものとして、お客さんと一体化するライブ感と、時間をコントロールすることの二点を挙げていましたね。

ぼく自身も音楽は写真よりも長い付き合いで、ずっとそばにいて励ましてくれていたから、憧れを抱き続けています。写真と音楽の融合みたいなことにそんなに興味はないけれど、せめてトークステージくらいはロックっぽくエンターテイメント性をもたせたいと考えています。そこで、いつかやってみたいと思っている、レジェンドたちの伝説をいくつか紹介します。

My Bloody Valentine型:マイブラはライブの最後に「You made me realized」という四分足らずの曲を必ず演奏して、その途中にフルボリュームにしたままギターをステージに残してメンバーがみんな楽屋に引っ込んで行きます。当然ながら大音量のフィードバック(キーン、というノイズ)が会場に響き渡ります。それから十数分経ったところでステージに戻ってきて続きを演奏して終わるんですが、インターネットのない90年代初めには唖然とするパフォーマンスだったものの、今じゃあ情報は知れ渡り、持参した耳栓をしてトイレに行ったりSNSをやったりする時間となり、完全に形骸化しました。

吉川晃司さん型:紅白歌合戦に選ばれた吉川さんは「にくまれそうなNEWフェイス」を演奏して、最後に口に含んだウィスキーを吹き出し、バックバンドのPAPAを左右に従えてピート・タウンゼントみたいな風車ピッキングを延々とやりました。完全台本のうえ分単位で刻まれた進行をしていく紅白にあってタブーであり、後ろには次の紅組の歌手が呆然として立っていて、吹き出したお酒で次の演者が滑る場面もあり、噂によると一年の出禁になったとか。

マイケル・ジャクソン型:スーパーボウルのハーフタイムショーは、試合と同じくらい楽しみにしている人が多く、世界で最も多くの視聴者が見るエンターテイメントの頂点であり、そこに1993年の人気絶頂のマイケル・ジャクソンがブッキングされました。
わずか12分しか持ち時間がなく、それをどう使うかがこのショーのポイントになっているのだけれど、ステージ上にポップアップで登場したマイケルは1分半ものあいだ微動だにせず遠くを見つめたまま。この時間の使い方には痺れました。この時期の、マイケル・ジャクソンにしかできない離れ業。

そのほかにストラトキャスターにジッポーのオイルを振りかけて火を付けたジミ・ヘンドリックスとか、真似してみたいけれど出禁になるどころじゃ済まないだろうなあと思います。
映画「スクール・オブ・ロック」のなかで、生徒にロックレジェンドのビデオを見せながら「こんなすごい人たちがいたんだぞ」と教える場面があり、キース・ムーンが映るんですが、胸が熱くなります。写真にも、もっともっとそういう魂が震えるような体験があっていいはず。



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