人を傷つけない配慮した作品は表現の自由を奪うか ~⑤~

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余談。29歳女性のストレスは結婚できないことはアリかナシか。

身近なところで、制作途中につまづいたことがあります。

ネット番組用にボイスドラマ台本を私からある脚本家にオファーした時です。

仕上がった台本は
「フラストレーションのたまった30代女性教師が優秀な男子高校生に居残りを命じる。そのフラストレーションは30代(29才だったかな)で結婚できない自分のストレス。さらに、その男子高生に恋愛感情を持っていることが分かるが、気持ち悪い!と一蹴される」という感じの話でした。

脚本家さんは話の展開に対して分かりやすい表現をしてくれる方で、オーダーした私も信頼を置いています。
短い尺の台本オーダーなので「説明不要の全員にわかりやすいネタ(前提)」を盛り込んだのだと思います。
例えば、29歳で結婚できないストレスというのは細かく状況説明しなくても「29歳で結婚できてないのよ~」のセリフ一言で、視聴者が「あーなるほどね」と納得して次の話を展開しやすい。
先生と学生の恋愛という話も、なぜ恋愛感情が発生したかを細かく説明しなくても物語でよく使われる分かりやすい設定だと思います。

違和感を感じた私は、脚本を修正してほしいという説明をしたのですが、根本的な相互理解にいたりませんでした。
数年前の話で私も何が違和感なのかうまく説明できなかった気がします。脚本家さんにも「アイドル活動をしているからこの話が自分のブランドイメージに合わないと思ってるのではないか」という風に話されたのを覚えています。

今なら言葉に出来ます。

29歳で結婚できないとストレスをためる女性という設定を「あるある」の前提としていること。先生が生徒に恋愛感情を抱いて色眼鏡で見ているという設定。
この脚本に限って言えば、女性教職員のストレスは別の理由でもよかったし、先生が学生に対して恋愛感情がなくても成り立つお話でした。


何歳でも結婚してもしていなくても人生の充実度合いはバラバラですから、結婚していない29歳という設定がダメということではないのです。ただ、妙齢女性のストレスの原因として「尺が短いからストレスは結婚できてないことって言えば説明できるっしょ!」っと乱暴に放り込まれたように感じたのです。

現実世界で教育関係者の未成年淫行などが報じられる中、学校の先生が未成年の生徒に恋愛感情を持つことを「よくあること」として放り込むこと。それをコメディとしてスルーしてしまうこと。

そういった「世の中が草の根から意識から変えていかなくてはいけないことを文化の最前線にいる人たちが当たり前としてしまうこと」それが違和感だったのです。堅苦しい言葉を使うなら、ジェンダー問題や未成年搾取の問題につながるのでは…と感じたからです。


そのボイスドラマは読み手の声優たちとネット番組の視聴者、あわせて100人くらいが聞いたり読んだりする作品です。発信する規模から言えば、小さな作品です。
それでもその話に触れる100人に、それらを当たり前、当然のこと、仕方のないこと、として読ませ聞かせることは、私には出来ませんでした。
当時は結果的に、脚本家の許可をもらって私が加筆修正しました。


普通の人が発信したメッセージは、大衆の代表的メッセージになるということ。


私はライブハウスや小さな箱と言われるところが活動の主たる場所です。
芸能や文化というピラミッドの中での影響力度は▲の下に位置します。
下に位置すると同時に最前線だとも思います。
有名人でもなければ、遊ぶお金も時間もないし、政界や財界とのコネもない。そういう普通の人が、普通の日常の中で作ろうとしている、そういう大衆の中の文化にいると思います。
だからこそ説明する手間を省ける設定を使ってしまうと、自分を含めた多くの同じ大衆がその価値観に納得していると肯定し代弁することになるように思います。
古いあるある設定が悪いということではなく、「簡単だから」「考えなくていいから」と、視聴者への説明を省くためにステレオタイプを使ってしまっては最前線の意味はないように思えるのです。

「ピラミッドの下にいるから難しく考えなくてもいいや」ではなくて、普通の人が普通の生活の中でつくる文化、そこで活動しているからこそ大衆の価値観を発信することができるわけです。

当たり前とされる価値観や考え方を「表現の自由」の名のもと深く考えずに使ってしまうのは、考えることを放棄することです。創造者、製作者として考えるという作業はもっとも重要なファクターです。人を傷つけない表現とは、考えるということであり、考えることは表現を萎縮させるのではなく、新たな表現を広げるということにつながるのだと思います。


おわり

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