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嫌なことからは逃げてもいいけど、緊張にはむしろ飛び込んだほうがいい

はじめて壇上に立って、数百人の前で話したときのことをよく覚えている。マーケティング系のカンファレンスで登壇の機会を手にしたのだ。半年くらい前からずっと緊張していた。壇上でどんな服を着て、どんな立ち振舞をするべきか、という些末なことまで、何度も頭のなかでぐるぐると回っていた。当日は平静を装っていたけど完全に舞い上がっていた。何を話したか、客席の反応はどうだったか、今となってはまるで覚えていない。ただやりきったことで安堵し、満足してしまっていたのだ。

あれから10年がたち、年間数十回は人前でお話するようになった。はじめて登壇させてもらったカンファレンスには、その後毎年参加させてもらっているのでさすがに場馴れした。パネルディスカッションなど、筋書きがなくアドリブが要求される舞台でも、緊張というのはあまりしなくなった。客席の反応を見て、より満足してもらうために話しの内容を調整する余裕もできた。演者として舞台を楽しめるようになったのだ。

それでも、自分にとって新しいフィールド、誰ひとり自分を知らない舞台に飛び出すときはいつでも凄く緊張する。例えば、朝の情報番組に出演したときは、何日も前から当日の自分が頭のなかをぐるぐると回っていた。より聴衆が少ない場、例えば少人数を相手にしたプレゼンでも、自分が「やれる」ということを、その場の一発勝負で証明する必要があるときはやはりとても緊張する。そこに「場馴れ」なんてものはない。

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世界的チェリストのヨー・ヨー・マが、以前インタビューでこんなことを言っていた。私が舞台で緊張しないのは、自分が優秀だと証明する必要がないからですよ、と。ヨー・ヨー・マは世界的チェリストだと皆に認知されているし、仮に知らない人がいてもそう紹介されるのですぐにそれと解る。裏を返せば、この一回の演奏、この一瞬のパフォーマンスで「自分はやれる!」と証明する必要があるのなら、どんなどんな手練でも緊張するということだ。

つまり緊張とは、「自分はやれる!」ということを、より大きな世界に証明するための通過儀礼なのだ。より大きな世界で勝負するための実力をつけ、それをより大きな世界の人たちに認めてもらうための挑戦。ハリウッド映画のオーディション。メジャーリーグのトライアウト。例えばそんなものだ。全ての緊張する人は、そんな人生をかけた勝負に挑んでいる。だから、全ての緊張する人はカッコいい。

僕は、緊張するとき、自分にそう言い聞かせてる。緊張している自分は、自分の世界を広げる挑戦をしている。だから、緊張している自分はカッコいい。逆にここしばらく緊張していない、緊張するシーンに身を置いていない、という人がいたら。それはすでにヨー・ヨー・マのような境地に達しているか、自分の世界を広げる挑戦をしていないかなんじゃないだろうか。

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以前は緊張していたシーンがリラックスして楽しめるようになる、というのは、この世界における自分の楽しみや幸せの可動域が広がっているということだ。それを人は「成長」とも言うけど、僕はそれより、楽しみや幸せの拡大だととらえたい。緊張することに挑み、それを克服し続ける人は、カッコいいばかりではなく、結果として幸せな人でもある。

人生は限られている。嫌な人と過ごしたり、嫌なことをして過ごすより、少しでも多くの時間を好きな人と、好きなことをして過ごしたい。だから、それが放り出せることなのであれば、そういう選択肢があるのならば、心底嫌なことからは逃げ出してもいいと思っている。でも、緊張から逃げてしまうのはもったいない。それは自分の世界を広げ、楽しみや幸せの可動域を広げるための通過儀礼なのだから。

もちろん、毎日が緊張の連続だ、という状態はさけるべきだ。それでは身が持たない。でも、ここ数年緊張なんてしていないな、と思ったら、自分の世界を広げるための挑戦が少し足りていないのかもしれない。緊張なく毎日リラックスして暮らす、のはもっと年をとって、自分の世界や幸せの可動域を広げきってからでもいい。それまでは適度に緊張を求め、ときに緊張に飛び込んでみる。つい緊張してしまう?緊張するのが悩み?素晴らしい!それって常に自分の世界を広げる挑戦をしているってことじゃないですか!

おわり

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