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(短編小説)寒蟬の歌は巡る

(※本文10,162文字)

「ねぇ、誰と雨宿りしてたの?」
「知らない人……多分、さっきベンチで寝てたおじさんだよ。ツクツクボウシ探してるんだって」
「見つかった?」
「見つけられなかったから、見つけ方教えてあげたんだ」
「ズルイ! 僕にも教えてよー」
「だから、ヒロキには、また今度来た時に教えるって言ったじゃん!」
「また今度、また今度って、いっつも教えてくれないじゃん、今度っていつのこと?」
「そうだなぁ、それも今度教えるよ」
「もう、なんだよそれ……って、ねぇ、どこ行くんだよ、ねぇ、ちょっと待ってよユウジ……」

 二人の少年は、じゃれ合い、笑い合いながら、雨上がりの木々の合間を駆けていく。何の不安もないように。



 M町を見渡せる小高い山の頂上に、M神社がある。いや、この神社から見下ろす地域を、M町と呼ぶようになったのかもしれない。順番はともあれ、舗装されてない山道をひたすら登ると、石造りの急な傾斜の長い階段に辿り付く……そこが、神社への入り口だ。
 高さも奥行きも不揃いの階段を、一段ずつゆっくりと登る。視界に入る周囲の風景は、その木々も草花も虫や鳥や空さえも、一瞬たりとも同じ状態を保つことはない。常に変化し、代謝し、世代交代を繰り返す。季節や天候に身を委ね、絶え間なく移りゆく。そう、細かく見ると三十年前とは全く違っている筈なのに、不思議と全く同じ印象を私に与える。この矛盾は、自然の雄大さの象徴なのか、または、ノスタルジーの幻惑なのだろうか?

 ようやく境内まで登り着いた私は、大きな石のベンチに腰掛ける。目の前には、手水舎ちょうずやがある。本殿は、ここから思い切り手を伸ばせば、指先がかすめそうなぐらいすぐそこに見えているが、実際には、数十メートルは離れているだろう。感覚より、記憶の方が確かなこともある。鳥居や狛犬の場所など神社全体の配置バランスも、明確に記憶している。
 一見、何も変わらない印象の中にも、明らかに変化したことが一つだけある。先程の階段に、山にも神社にも不似合いな、不躾で無機質な鉄製の手摺りが取付けられたことだ。実は、その理由を、私はよく知っている。そして、その手摺りが設置される原因となった出来事と向き合う為に、そして、私の中できちんと清算する為に、ここへ来たとも言えるのだ。

 神社の何処を見渡しても、手摺り以外には何の変化も感じない。音も空気も匂いも同じだ。とても三十年振りとは思えない景色を、無感情に眺める。すると、先程のノスタルジックな魔法が解けたのか、少しだけ込み上げていた懐かしさや忌まわしさも、膨らみ切る前にしぼんでいくのが分かった。



 小三の夏休み、親友の祐司と毎日のようにここに来た。
 盆明け直後のある日も、午後から二人で蝉獲りに興じていた。小さな山とはいえ、さすがに頂上付近は涼しく、うっすらと秋の気配を感じ取れるようになっていた。地域性なのか、ここでは色んな種類の蝉が存在した。街では滅多に見られないツクツクボウシやヒグラシも、この神社では沢山鳴いていた。
 祐司は、ドラえもんに出てくる出来杉君を彷彿させる程、絵に描いたような優等生だった。勉強は学年トップレベル、スポーツも万能、絵や工作も非常に上手かった。反対に、何をやっても劣等生だった私と仲が良いのは、傍目には不思議な関係に映ったかもしれない。
 しかも、祐司はスネ夫の要素まで併せ持っていた。祐司の父親は町の有力者で、誰もが羨む豪邸に住んでいたのだ。貧しい母子家庭の私とは、育った環境からして違い過ぎるのだ。それなのに、祐司は私のことを、一切バカにすることも蔑む目で見ることもなく、常に対等な関係で仲良く接してくれたのだ。

 祐司は、蝉獲りまで上手かった。
 蝉からすると失礼極まりない話だろうが、私達は、蝉を種類によって格付けしていた。同じ蝉でも、希少さや捕獲の難易度、見た目の美しさなどが、種類により違ったのだ。
 基本的に、茶色の羽よりも透明の羽を持つ蝉の方が位が高かった。例えば、捕獲も容易で、大型で太っちょのミンミンゼミも、個体数の少なさと何より羽が透明であるという理由だけで、ニイニイゼミより格上に位置付けしていた。
 一番格下の蝉は、生息数が多く、容易に見つけられ、茶羽で捕獲も簡単なアブラゼミだ。中でも、鳴かないメスは無価値とされていた。
 一方で、ツクツクボウシやヒグラシは、最も格上だ。決して希少な蝉ではないが、透明の羽を持つ小型の美しい蝉で、警戒心も強く、なかなか見つけられないからだ。
 私も蝉獲りだけは自信があったのだが、時々ミンミンゼミやクマゼミが捕まえられるぐらいで、大抵は格下のアブラゼミかニイニイゼミしか獲れなかった。いや、他の蝉は見つけられなかったのだ。そう、見つけることさえ出来れば、捕まえる自信はある。なのに、どう探しても、ツクツクボウシは私の視界には入らないのだ。そんな私を尻目に、祐司はいとも簡単にツクツクボウシを見つけ、捕まえてしまうのだ。
 人間も私達のルールで格付けすると、祐司は間違いなくツクツクボウシだ。私は悔しいけど、良くてニイニイゼミ、下手すりゃアブラゼミだな……といつも思っていた。それぐらい、祐司にはいつも何をやっても打ちのめされていたが、それでも私は祐司が大好きだったし、いつか私も透明の羽を持つ蝉にまでランクアップしたいなと思っていた。

 透明の羽を持つ蝉……中でも、とりわけツクツクボウシに憧れていた私は、「どうやって見つけるの?」と度々質問した。しかし、いつも答えははぐらかされ、祐司は決して秘策を伝授してくれなかった。
 それなのに、そこに全くの嫌味がなく、むしろそれを逆手に爽やかに笑わせることが出来るのが、祐司という人間だった。

 そろそろ夕方に差し掛かろうとする時、少し雲行きが怪しくなってきたと思うや否や、突然の雷鳴とともに激しい雨が降り出した。晩夏特有の夕立だ。
 その時、私達は離れた場所で蝉を探していた。私は、急いで手水舎の軒下に逃げ込んだが、まさにバケツの水を被ったかのように、既に全身ずぶ濡れになっていた。
 果たして、祐司もどこかで雨宿りをしているだろうか?
 少し心配になった矢先、「おーい、大丈夫かー?」と、遠くから祐司が大声で問いかけきた。方向からして、どうやら本殿の軒下に逃げ込んだようだ。
「大分濡れたけど、手を洗うとこにおるよー」と、私も叫んだ。すると、「雨止んだらそっちに行くからなー」と返事があった。



 あの時と同じような季節、同じような時間帯……三十年の空白を経て、私は同じ場所を見渡した。驚くほど、風景に変化は感じられない。神社も境内も一回り小さく感じることぐらいが、唯一の違和感。
 いや、客観的に見ると、一番の違和感はその場に似つかわしくないスーツ姿の私の存在だろう。まぁ、全く人気のない空間で、違和感も何もないのだが。
 それにしても、静かな場所だ。都会の喧騒に慣れた私には、不気味に感じてしまうほど静か過ぎる。しかし、静寂とは違う。鳥や虫の鳴き声は、風が奏でる葉音と共に絶え間なく流れている。それでも、人工的な音がないだけで、とても安らかに感じ、懐かしくもあった。
 とにかく、少しだけ休もうと思った。丸二日、ろくに睡眠も取らず、ほとんど何も口にしていない。どの道、好きなだけ休むことになるのだが、それでも休憩を取りたいと思う自分自身に、呆れ果てる。

 しかし、特に根拠はないのだが、今日という日、そして、この場所……私は手水舎で手を清めながら、この環境条件こそ最も相応しいと思った。
 そう、自殺するにはうってつけだ。



 夕立が過ぎ去ると、辺りは既に薄暗くなっており、急激に気温も下がり、雨に濡れた私は寒くすら感じた。小走りで手水舎に来た祐司は、スブ濡れの私を見て爆笑した。私も、泥だらけの祐司の靴を、大笑いながら茶化した。一通り笑い合った後、祐司は、「また今度、ツクツクボウシの捕まえ方教えてあげるよ」と、独り言のように呟いた。

 そろそろ帰宅しないといけない私達は、捕まえた蝉を逃がすことにした。蝉の飼育が困難なことを、何回もの失敗を繰り返し、私達は知っていたのだ。話し合うまでもなく、二人とも当たり前のように逃がす準備に入った。
 斜面を見下ろすいつもの場所に立ち、虫かごから一匹ずつ捕まえては、遠くを目掛けて思い切り蝉を投げる……これは、いつも帰り際に行う私達の儀式だった。投げられた蝉は、途中で本能的な飛行能力を思い出したかのように、慣性と重力を振り切り、望む方向に転回し、羽ばたいて去っていく。
 しかし、中には、弱り切って飛べないまま落下したり、木に激突する蝉もいた。子どもの残酷さ故だろうか、そういった蝉の失敗もまた、楽しかったのだ。おそらく「死」しか用意されていないであろう、その後の蝉の運命なんて、想像することさえなかった。そして、祐司も私も、この儀式が好きだった。

 全てを逃した後、アブラゼミとニイニイゼミしか捕まえられなかった私の虫カゴは、細かく千切れた茶色い羽の残骸が散らばっていた。祐司の虫カゴには、茶羽の蝉だけでなく、ミンミンゼミやヒグラシ、そしてツクツクボウシも入っていた。なので、細かく透き通った羽も散らばっており、ガラスの破片のようで綺麗だった。
 儀式が終わると、祐司は虫カゴを逆さにし、パンパンとはたいた。千切れた細かい羽が、雨上がりの夕陽をバックにヒラヒラと風に舞う。透明の欠片は光を反射し、キラキラと輝いた。
 私の虫カゴに残った羽は、ビール瓶の破片のようで、とても安っぽい光を放ち、何故か急に恥ずかしくなった。



 長いタモを手に、肩から大きな虫カゴを下げた二人の少年が、長い石段を早足で駆け登っている。少年達の目的地は山頂にある神社だが、もちろんお詣りに来たわけではない。この一帯には、蝉がたくさんいることを知っているのだ。
 そして、ようやく登り終えた少年達は、一目散に手水舎へと駆け寄って、汗ばんだ手と顔を洗った。冷たい水が心地良いのか、少年達に爽やかな笑顔が蘇る。
 いつも座るベンチには、見知らぬ男性が陣取っている。どうやら、眠っているようだ。この場に似付かわしくないスーツ姿で、ベンチの傍に、小さな青いボストンバッグが無造作に置かれている。

「ねぇ、今日はあっちで探そうか?」
「そうだね、起こしちゃったら悪いし」
「って言うか、あのおじさん、もしかした泥棒とか殺人鬼かもしらんよ!」
「そうだね、カバンにはナイフとかロープとか銃が入ってたり……」
「きゃー、逃げろー!」
 少年達は嬉々として、境内を本殿の方へ駆けて行く。



 蝉を逃がした私達は、手摺りのない不安定な階段を降り始めた。石の階段は、先ほどの雨で滑りやすくなっている。覚束ない足取りで恐る恐る足を運ぶ私を尻目に、祐司は凄いスピードで一気に駆け下りた。

「危ないよ!」
「大丈夫だって!」
「でも、滑るじゃん。転んだら大怪我するよ」
「お前、ホント怖がりだなぁ」
「そんなことないよ」
「じゃあ、競争するか?」
「……おぉ、やってやるよ!」
 再び、階段の上まで登り、私達はどちらが早く降りれるか競争することになった。しかし、スタートしても祐司は余裕の表情で立ち止まっている。
 私が4分の1程降りたところで、祐司は一気に駆け下りてくる。軽快な足取りで瞬く間に追いつき、追い越そうとした。しかし、その時、祐司は足を滑らせたのか、「うあっ」という声を発するや否や、そのまま階段から転げ落ちてしまった。

 おそらく、私が始めて見た祐司の失態。
 ほんの少し「ざまぁみろ」と思ったものの、子供ながら危険な状態であることを感じ、私は、慌てて祐司のところへ駆け寄った。
 祐司は仰向けに倒れており、薄っすらと笑みを浮かべているように見える。恥ずかしさを誤魔化そうとしているのかな、と思った。しかし、力のない目は、明らかに焦点が合っていない。生気のない人形のような表情に私は戸惑い、言葉を失った。
 よく見ると、祐司は、額やこめかみ、手足など、至る所から出血している。いや、それ以前に、どう見ても首が不自然な角度に曲がっている。

「お、おうちの人、呼んでこようか?」ようやく、私は言葉を発することが出来たが、祐司は返事をしてくれない。
「祐司、大丈夫? 起きれる? 聞こえてる? ねぇ! 起きてよ、祐司!」パニックに陥った私は、泣きながら町に向かって走った。それが初めて見る人間の死体だと本能的に分かっていたが、微かな理性と恐怖が必死で否定しようとしている。とにかく、大人を探した。知らないスーツ姿の中年男性を捕まえ、拙くも懸命に説明した。
 しかし、大人の力でも、どうしようもないことがあるようだ。祐司は、既に手遅れだった。



 夏休みに起きた悲惨な事故は、町中にショックと動揺を与えた。
 名士の子息という事実がまた、様々な波紋を呼んだ。同情する人、悲しみに暮れる振りをする人、あざけ笑う人、無関心を装う人……そんな中、ほとぼりも冷めぬままに、二学期が始まった。学校でも、祐司の話で持ちきりだ。しかし、秋が深まるに連れ、次第に世間の邪推が私に矛先を向け始めた。どういうわけか、私が祐司を突き落としたのではないかと、疑われ始めたのだ。
 そう、祐司に限って、あんな階段で足を踏み外すなんてことは有り得ない。それよりも、祐司に対して常に劣等感を抱き、妬んでいた私が、背後から突き落としたと考える方が自然だ……いつしか学内だけでなく、町中でそういった見解が主流になっていた。
 そもそも、目撃者は誰もいない中での出来事だ。周囲の人々によるやり場のない感情は、証拠が何もないのをいいことに、単なる憶測と悪意ある創作を、あたかも事実であるかのように捻じ曲げ、飾り立てたのだ。
 必然的に、母親に対するバッシングも酷くなった。職場で陰湿な虐めや嫌がらせに合うようになり、近所付き合いもなくなった。やがて、私たち親子は、追い出されるように町を出ることになった。悔しいが、他に選択肢は残されていなかったのだ。
 突然の不可抗力により、一方的に厳しい環境に投げ出される……儀式の蝉と同じだ。しかも、私たち親子は、元気な蝉のように慣性と重力に抗うことが出来ず、為すがままに落下するしかなかった。



 町を出てからの私たち親子の人生は、苦難の連続だった。母は、それまで培ったスキルを活かす仕事が見付けられず、パートで細々と食い繋ぎつつも、生活の為に、次第に夜の仕事に身を染めるようになった。やがて、酒に溺れるようになり、私は育児放棄に近い状態に置かれた。そればかりか、酒量の増加に比例して、母は私を虐待するようになった。
 常に生活に窮する中、いつしか悪い男に捕まり、薬にまで手を出してしまったようだ。しかし、直ぐに男に捨てられ、なけなしの貯金を持ち逃げされ……私を残して、自らの人生に終止符を打ったのだ。
 その後、私は、ほとんど会ったこともない親戚の家に引き取られた。それでも、母が命を絶った悲しみよりも、三食きちんと食べられることを喜んだ。町を出てからというものの、給食以外にまともな食事には滅多にありつけなかったのだ。
 しかし、ほんの数週間で、私はその家庭の大人達に毛嫌いされた。その後は、親戚中をたらい回しにされた。高学年の頃には、誰がどのような手続きをしたのか詳しい事情は知らないのだが、私は施設に預けられることになった。そして、そのまま義務教育を終え、都会で住み込みの仕事を始めた。

 こうして、十代半ばにして社会人となったものの、その後も職や住まいが落ち着くことはなかった。まさに、転落し続ける人生……日々の生活を、何とか乗り切る毎日。身内もおらず、信用出来る友達もいない。いつしか生きていることに疲れ、生きていくことに嫌気が差し、死に場所を求めるようになった。そして、私の人生の分岐点であるこの神社に、やってきたのだ。
 そう、あの日を境に、私達親子の人生は狂ってしまったのだ。祐司が死んだ日。雨宿りをして笑いあった日。最後までツクツクボウシが捕れなかった日。
 何故、こうなったのかは分からない。「運が悪かった」では片付けられない。祐司が言い出した競争。祐司が勝手に足を滑らせ、勝手に死んだのだ。ツクツクボウシの捕まえ方も教えてくれないままに。

 一本の大きな楠が目に止まり、ロープを掛けるのに丁度良い枝を確認した。
 青いアディダスのバッグからロープを取り出そうとしていると、頭上でツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。探してみたが、やはり見つけられない。結局、三十年前から成長してないのだなぁ……自虐的にそう呟いた時だった。



「おじさん、何してるの?」
 突然話し掛けられ、本気で腰を抜かしそうになった。虫捕り網を手にした少年が、私を見つめていた。 
「いや、別に……ちょっとね、ツクツクボウシが鳴いてたから、どこにいるのかな? と思ってね……」
 まさか、見知らぬ少年相手に、今からしようとしていたことを正直に言えるはずもない。咄嗟の嘘でその場を取り繕い、自殺の邪魔をされたことに少し苛立った。

「ツクツクボウシなら、そんなとこにはいないよ。上の方にいるんだよ」
「上の方?」
「そうだよ。細い枝の日陰側にとまってるんだ」
 死に場所と決めた楠を見上げると、確かに高い枝の裏側に、ツクツクボウシはいた。小さな体を透明の羽で纏い、じっと佇んでいた。いや、違う、彼は腹を膨らませ、独特の弁を震わせながら、個性的な節で歌っているのだ。

「ね、いたでしょ? 捕まえる?」
 少年に網を借り、私は生まれて初めてツクツクボウシを捕まえた。三十年掛かって、ようやく祐司に追いつけたのだ。
「あっちでもっとたくさん鳴いてるよ。ねぇ、行ってみようよ!」
 すっかり少年のペースに乗せられ、自殺のことは一先ず忘れ、見知らぬ少年と蝉捕りに興じる羽目になってしまった。とは言え、それはそれで楽しかった。楽しいという感情自体、久しぶりだった。おそらく、祐司が生きていた時以来だろう。
 まさか、この思い出の地で、ツクツクボウシを探すことになるなんて……いや、これこそ運命なのかもしれない。考えようによっては、私の人生の幕切れには、もってこいのシチュエーションじゃないか。



 数分後、突然雷鳴が鳴り響き、激しい夕立が降り出した。少年と本殿の軒下に逃げ込み、雨が過ぎ去るのを待つことにした。とは言え、既にスーツはびしょ濡れで、革靴の中にも水が入り込み、肌寒い上、不快だった。少年も泥濘に足を取られたのだろうか、高級そうなスニーカーが泥だらけだ。
 しかし、私は一体何をしているのだろうか……彼と一緒でなければ、今このタイミングで決行するのに。死ぬ覚悟をした人間が、雨に濡れた不快感を我慢している馬鹿馬鹿しさに、思わず苦笑した。
「おーい、大丈夫かー?」
 唐突に、少年は大声で遠くの誰かに話し掛けた。「君、一人じゃなかったの?」と尋ねると、友達と来たとのこと。いつも、途中から離れ離れで蝉を獲っているらしい。
 遠くから、友達と思しき男の子が大声で返事をしたが、私にはよく聞き取れなかった。「雨止んだらそっちに行くからなー!」と少年は返した。

 雨が小降りになると、少年は友達のいる手水舎に行くと言い出した。完全に止んでからにしては? と提案してみたが、どうせびしょ濡れだし、アイツ、一人で寂しがってるから……と言うなり、少年は駆け出した。それ以上は、私も止めなかった。
 少年は、途中で振り返り、「じゃあね、おじさん。ツクツクボウシの捕まえ方、忘れちゃダメだからね!」と言い、走り去った。
「ありがとう。滑りやすいから気を付けるんだぞ」私は、少年の後姿に言葉を投げ掛けた。



 目を覚ますと、境内に強い西日が差し込んでいた。地面も服も靴も、全く濡れていない。乾いたのか、そもそも濡れていないのか判断出来ずにいる。
 その時、頭上の方からツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。先ほどの少年に教わったように探して見ると、何てことなく姿を確認出来た。長いタモさえあれば、捕まえることも出来たかもしれない。三十年も前に、祐司はこのことを知っていたのだろう。

 ツクツクボウシは鳴き止まない。彼等は、放っておいても数日で死ぬのだ。小さな体、短い命、長い暗闇での生活……それでも、残された僅かな生涯を、必死に生きようとする。代々受け継がれた知恵を絞り、人目に付かない場所を確保する。大声で叫ぶという目立つ行為は、場所の選択で中和されるのだ。もちろん、自ら命を絶つことはない。
 自身を省みると、我ながら情けなくなった。それに、急に死ぬことが怖くなった。そのくせに、生き抜こうともせず、ただ、逃げてるだけなのだ。蝉のように大声で主張もしなければ、身を守る知恵も働かせない。何もかもが、虫にさえ劣っているのだ。

 ふと目の前の木を見ると、視線の高さに無様なアブラゼミがとまっていた。鳥に襲われたのか、若しくは子どもに捕らえられたことがあるのか、両方の翅の先端が少し千切れている。私は、そっと近付き手を伸ばしてみた。弱っているのかもしれないが、容易に素手で捕まえられた。必死に足をバタつかせ、羽を広げようともがくが、鳴き声は発しない。どうやら最も格下のメスのアブラゼミだ。
 私は本殿の方へ向き、昔の儀式を行った。つまり、全力で捕まえたアブラゼミを投げたのだ。しかし、それは子どもの頃の楽しい思い出の回顧ではなく、私が社会から受けた理不尽な仕打ちを味わってみろ! という八つ当たりのような行動だ。
 だが、弱っているように見えたアブラゼミは、わずか数メートル飛ばされたところで方向転回し、山の方へと飛び去った。幼い私達が、ほぼ無価値と看做していたメスのアブラゼミも、しかも、身体があんなにボロボロに傷付いていても、自らの生命を必死に全うするのだ。必死で生き抜く……ただそれだけのことが、私には出来なかった。

 何かが吹っ切れた私は、本殿を背に歩き出した。急な石段を、しっかりと手摺りを握り締めながら、一段ずつゆっくりと降りていく。
 途中、石段の隅っこで蝉の死骸を見つけた。小型でスマートなフォルムに透明の羽……ツクツクボウシだ。短い寿命を精一杯全うしたのだろう。体に傷はない。しかし、死んだら終わりだ。そのうち蟻やバクテリアに分解され、土に吸収され、消滅する。誰の記憶にも残らない、チッポケな生命だ。
 そう、ツクツクボウシもアブラゼミも、死んでしまえば同じだ。私達の格付けなんて、何の意味もない。死んだツクツクボウシより、生きてるアブラゼミの方が価値がある。
(別に死ぬ必要なんてないじゃないか。折角、ツクツクボウシの捕まえ方も覚えたんだし)
 言い訳にもならない、子供じみた弁明を自分に言い聞かせ、私は確かな足取りで石段を下り続けた。



 三十年前のあの日、一瞬だけ「ざまぁみろ」と思った自分がいた。更に、自分の人生の不遇を、全て祐司の所為にし、祐司を恨んで生きてきた。あんなに仲良かったことを忘れ、対等にじゃれ合い、笑い合ったことも忘れていた。
 毎日のように蝉獲りに興じ、透明の羽に憧れた夏、どうしてもツクツクボウシを見つけられなかったこと……ここに帰って来るまで、祐司と過ごした貴重な思い出を、全て忘れていたのだ。
 石段を降り切った私は、街を目指し、山を降り始めた。そう、ここで終わらすのではない。ここからやり直すのだ。アブラゼミにはアブラゼミの良さがある。透明の羽なんて必要ない。何より、生きていることが大切なのだ。

 至る所で、ツクツクボウシは鳴いていた。長い長い土の中の生活を終え、残された僅かな生を精一杯生き抜くのだ。今の私には、その姿をはっきりと見ることが出来る。ツクツクボウシもアブラゼミも、個性が違うだけだ。生きてる尊さは同じ。そもそも、生命に格なんてないのだ。



 アスファルトの県道を街に向かって歩いていると、山から必死の形相をした少年が走ってきた。全身ずぶ濡れで、泣きながら懸命に何かを訴えている。とりあえず少年をなだめ、落ち着かせた。嗚咽を堪え、辿々しくも一生懸命に説明してくれた。どうやら、先程のM神社で友達が大怪我をしたらしい。
 私は、不要になった青いボストンバッグを煩わしく思いながらも、少年と一緒に今来た道を引き返すことにした。