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数学観の相違について



(1) はじめに


 先日、ゆいさんの記事を読んでとても感銘を受けた。

 ある数学の問題をいろいろな角度から考察するという素晴らしい記事だった。
私には思い付かない解き方が紹介されていて興味深かった。

 私がこの問題を解くならば、
①2つの式から二次方程式を作り、判別式Dがゼロ以上なることを利用するか、
ラグランジュの未定係数法を用いるか、のいずれかで解くことになると思う。

 数学の問題を解くとき、私はとりあえず求めたい答えが得られるならばそれでいいと考える。もちろん別解はないかと考えることもあるが、自分がもっている知識以上のことはあまり追究しない。


(2) 数学者と経済学者との違い


経済学者あるいは物理学者の数学観


 私は経済学部だったから、それなりに数学を使うことがあった。

 簡単に言うと、経済学とは「ある制約条件のもとで、利益や便益が極大化されるのかというモデルを構築する学問」である。さまざまなモデルを構築して、その中で、実体経済を最もうまく説明する理論は何かを考察するものである。

 だから、数学を用いると言っても、基本的に「実数解」にしか興味はないし、また、微積分を用いると言っても、ほとんどの場合、微分は頻繁に用いるが、積分まではあまり考えない。
 また、ランランジュの未定係数法は用いるが、なぜ未定係数法が正しいのかということは考えない

 比喩的に言うならば、経済学者は、数学という車の運転の仕方(車の使い方)を理解していればよく、どのように車が動くのかというメカニズムには興味がない。一言で言えば、数学は単なる道具である。
 おそらく、物理学者も、経済学者と似たようなものだろう。


数学者の数学観


 数学者の場合も、もちろん具体的かつ実践的な問題の解決を求めることもあるが、物理学者や経済学者とは違って、数学それ自体に内存する抽象的な理論に関心がある。
 だから、答えが実数か否かということは、大した問題にはならない。また、「なぜ正しいのか」という証明がなければ、納得しない。
 一言で言えば、数学者の数学は厳密でなければならない。単に答えが出ればそれでよいとは考えない。


(3) 三次元に生きる「物理学者」と、次元にとらわれない「物理学者」


 科学理論の受容の歴史をひもといてみると、思うに2つの立場がある。

 たとえば、シュレーディンガー方程式というものがある。

 量子力学の基本的な式だか、この方程式には「虚数」が含まれている。

 いくらシューレディンガーの方程式で量子の居場所をうまく表現できたとしても、量子の1つ1つの居場所は「実数」で表現されるべきだと考える物理学者。この立場は経済学者の考え方に近い。

 虚数が含まれていたとしても、シュレーディンガーの方程式は厳密に考察されており、また理論的に正しいのだから、我々の直観とは相反していても認めるという物理学者。この立場は数学者の考え方に近い。

 数学的には、三次元より多次元で考えるとうまく説明できるにしても、物質は常に三次元に存在することに固執する物理学者。
 あるいは、多次元に存在していても気にしないという物理学者。

 私にはどちらの主張が正しいのか決定できる能力はないが、量子であれ、物体であれ、大きくても小さくても、三次元のどこかにいる、と信じている。


(4) 総括


 科学的な問いも、数学的な問いも、究極的のところでは、その人の「哲学観」が現れるものだ。

 理論と実践。どちらをあなたは重視するだろうか?


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