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みんなのヴァカンス

玄関に積み上がった郵便物、シンクに溜まった食器、洗濯籠に放り込まれた衣類にあいさつもせずに、起床。「おはよう」とか、そんなにあんまり言いたくない。言われたくもない。キャンプの朝とかだったら言いたい。言われたい。そういうときはすごく「おはよう」って感じがする。「おかえり」も言われたくない。「ただいま」を言いたくない。「おかえり」は言ってもいいけど、「ただいま」って言われたら言う。先に言ったら、待ってたみたいになってしまう。待ってたのだとしたら、そのときまで待っていなくちゃいけなくなる。待っているわけではないから。だからいま洗い物をしてしまったら、待ってたみたいになっちゃうから嫌だな、と思って、手をつけなかった。なにかしようとしても、途中で集中切らされたら嫌だなと思って、腰を落ち着けずにいた。結局、待ってる感じの時間から逃れられない。散らばった衣服や本に、シンクに溜まった食器に、見張られている気がして、落ち着かなかった日曜日。

ギヨーム・ブラック『みんなのヴァカンス』面白かった。こんな映画を見てしまうと、こんな映画しか見たくなくなる。ギヨーム・ブラックの撮るヴァカンスは、人が密集しているプールやビーチ、川辺でも、みんな鮮やかなブライトトーンの水着を着ていて、水の滴るさまざまな色の肌がかがやき、賑やかながらも色彩的に統一されていてミニチュアの世界のよう。陽光が隅々まで降り注ぎ、まるでユートピアのフランスの観光地で、カラフルなシャツを身にまとった若者たちの、ひと夏の交錯する恋物語がユーモラスに描かれる。決して茶化すような眼差しではないのだが、深刻さをともなう心理劇ではなく、悪びれずに軽妙というこのタッチが、憎たらしいような羨ましいような、嘆かわしいような微笑ましいような、複雑な感情の機微を持て余しながら、カラッと乾いた地中海の日差しそのもののように、スクリーン上から網膜に感光される。幸福な100分間。ユーロスペースを出て、うす汚れた渋谷の淀んだ空気に包まれて、なんとも居たたまれない気持ちになる。

青春映画だの恋愛映画だの、もっと汚い、人間の欲望みたいなものと対峙して、鬱屈した孤独と瑞々しい邂逅が渦巻く愛憎劇ってのも面白いけれど、こうやってさらっとやってしまえるのが、ヴァカンスというものの特異性ですな、としか言いようがない。こんな映画が、いちジャポネーズであるワタクシの人生観に影響を与えることなどあるはずもなく、せいぜいイメージのなかのフランスへの憧れを助長し、ミーハー心をくすぐるだけだ。

フランスではみんな夏になると長い休暇をとって、水着を着てサングラスかけて避暑地へ出かける。若者たちはその夏を共に過ごすお相手をもとめて恋の駆け引きを繰り広げる。一方、働き者の国ジャポンでは、暑い夏だってもちろん働き詰めで、お盆休みにはクーラーの効いた部屋で抜け殻のようになってNetflixとかを見るだけだ。

数日前からすこし気温が下がって、この夏さいごの日曜日、という感じがしていた今日は、とくになんの予定もなく、昼前に起き出してソファでグタグタしながら、24歳の日本人男性は出会い系アプリtinderをインストールした。網膜に焼きついてしまったフランスの夏休みを払拭しきれず、なにかしら行動を起こしたかった。数年前に一度このアプリが話題になったときに、試しにやってみたときのもの哀しい気持ちがにわかに甦る。カメラロールから自分の映っている写真をかき集め、イケてる男を必死に演じてプロフィールを作成する。しかし、百戦錬磨のtinder女子たちは、その写真から滲み出る本来のイケてなさを本能で嗅ぎ取り、一瞬で左スワイプ。そんな彼女らの綺麗にネイリングされた無情な人差し指を思いながら、24歳日本人男性はLikeボタンを無心で押し続ける。つらい。まちがえて上にスワイプして貴重なSuperLikeを使ってしまった。即座に返ってくるマッチング不成立。永遠に返ってこないメッセージ。世の中にはこんなに女子たちがいるのに。世の中にはこんなにも男子たちもいる。”負け組”はキツい。

「映画をよく見ます」とかプロフィールに書いてみる。『みんなのヴァカンス』のチケットの半券をアップしてみる。誰かみてくれ。そしてお友達になりましょう。読んでる本とか写真であげたら会話のネタになるかなと思ったけど、本棚が整理されてなくて、やめた。そこまで必死じゃあないし。そもそもモテるために本を読んでるんじゃないし。だけどtinderがやめられなくて、本を読む気持ちにならなくなった。散歩したい。女子と散歩したい。「散歩したい」と書いてあるプロフィールがけっこうたくさんあったから、散歩したくなった。

服を着がえるのも面倒くさかったけど、散歩に出ることにした。何人かの女子とすれ違った。目を逸らした。街灯の傍で地面に身体を打ちつけている蝉を二、三匹見た。夏が終わりそうだ。住宅街を抜けて、川まで歩いた。駅のほうに戻った。ガールズバーの客引きの脇を、身体を固くして通り抜けた。小さな音楽バーに入って、カウンターでハイボールとポテトサラダを頼んだ。ベンチに座って煙草を吸っていたら、踝を蚊に刺された。家に帰って手を洗いがてら食器を洗った。


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