暇か否か

暇なときと暇じゃないときで考えていること(というか文体?)が全然ちがうような気がする。暇なときに見る映画と暇じゃないときに見る映画も。風の感じ方とか本の背表紙の見え方もちがう。

暇じゃないときには物事が前に進んでいる感じがするし、昔のことをくよくよ思い出したりしなくて済む。

暇になると、さて、何から考えようか、何から考えるかを考えるためにどこに行こうか。誰と会おうか。ってところから始まる。またここからか、という感じがする。選択肢があり、可能性に打ち開かれている。

ある映画なり、小説なり、絵画なりをみて、その日の寝る前に、そのことを思い出したりとか、数日経ってから考え直したりとか、そういうのは暇なときではないとできない。

暇じゃないときでも、仕事を途中で切り上げて家に帰って読書の続きを10ページくらいしたりすることはできる。

「私は基本暇なので(笑)」という言い回しは、暇じゃないときや、暇じゃない人たちと比較して、というコンテクストがあるのだろう。

暇であることに憧れがあり、暇であることに負い目がある。しかし、そもそも暇であることの方がデフォルトである気もする。1日のうち何時間か、1週間のうち何日かは、暇を確保しておきたいと思うのは、経済社会的な側面から概算された慣習としての均衡であろう。

「私は基本暇なので(笑)」と言う人も、一見して、暇には見えないということがある。暇そうに見える人が、実は暇じゃないというケースもある。その人は、打ち開かれた可能性に怯え、追われているのかもしれない。

暇というものが、外側から与えられた時間や空間ではなく、内から出てきたものであったらいい。暇じゃない時間を割り当てられ、暇な時間ですらも外側から監視されるのだとしたら、暇がなかなか溜まっていかない。

暇が溜まったら、どこかで発表する、というのは、そうかもしれない。

発表されたもの、というのは、あるいは暇が溜まったもの、であってほしいかもしれない。

だからやっぱり、「基本暇(笑)」っていうつもりを守っていきたい。(私はどこかで発表するんだよ)って思って暇を過ごしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?