頭の中の整理整頓。

久しぶりの投稿ですが中身はないです。

2021/3/24現在、舞台公演の主宰・演出業務を行っているわけですが、想像してはいたものの現実は想像以上に厳しい。
自分の脳のワーキングメモリーが追いつかなくて、稽古に入る2ヶ月前から頭の中がぐちゃぐちゃ。年度末ということもあり、部屋の中は来年度のための準備と資料でぐちゃぐちゃ。隣の家では子供がギャーギャー泣いている。子供は泣きたい時に泣けて自由だ。こっち泣きたいくらいなのに。

主宰業なんて本当はやりたくない。演劇公演なんて費用対効果は少ないし、やりがいはあるにはあるが、それに勝る感情報酬もない。演出者としての活動、作品作りをしたいがために、その方法としてやっていること。それだけ。

今回の演出をするために、作品のキーワードである「忍耐力」が自分自身が必要だと思った。それから1年間。企画をはじめた頃から自分の心の修行も必要だったが、どうしても追いつかない。負ける。なんて貧弱な心なんだとつい自分を責めたてて罪悪感の日々。その繰り返しが続く。
稽古場に居る時、演出家は孤独な存在。特に主宰もしているため日々の業務はある。稽古場管理も担当してるためm稽古前の掃除。アルコール消毒、片付けなどもするため始めから最後まで稽古場にいる。若手時代は稽古後に小道具作ったりしているので半日以上稽古場に居ることもよくあることだった。
さすがに毎日このようなことをしていると気が休まる暇もないし稽古場に泊まりたい。帰っても家で仕事してるから、家が休まる場所でもない。散らかった部屋に帰ってくるのも気分が沈む。気を察してからか、後輩のキャストが稽古前の作業を手伝ってくれている。それが泣きたくなるほど嬉しい。感謝しかない。立場上の関係ではなく、繋がりを感じてしまう。
自分がキャストとしてオファーしているにも関わらず、自分の時間を割いてでも協力してくれている。立場的にこちらから偉そうなことは言えないのでこのような行動は本当に嬉しい。近所の子供みたいに泣きたくなる。
演劇学校や劇団で集団生活をしていると(自身も集団に属している人間として)「当事者意識」が生まれてくる。これは集団芸術に於ける演劇では本当に必要なこと。このようなことで互いのコミュニケーションが生まれ、信頼関係が身につく。休憩中の会話はコミュニケーションゲームのためなので雑談では信頼関係は生まれない。具体的な共同作業を介して出ないとこのような意識は生まれない。そんな職業や人間関係でも必要なこと。信頼できる後輩たちに恵まれて幸せだ。講師的な話だと、そのように人の気持ちを察することが役に対して深く感情移入できるのだ。そのようなカタチで共感能力は身についてくる。
特に小さい座組で取り組んでいる場合は自分の本来のポジション+何かをやることが多い。キャストも衣装や小道具を担当することもある。今回も信頼できる若手キャストにお願いしている。演出の立場としては役者業に集中してほしいのだけれど、甘えてしまう。自分が若手時代に苦労したことを後輩に経験させたくないのだが、まだ自分の力不足で頼ってしまう。
ただ、役者の本来のやるべき仕事以上のことをやってくれる人は強くなる。若いうちに死ぬほど苦労したほうが、それが将来への投資になるので数年後にはすごく成長している。本来は自分の仕事をするのは当たり前。それ以上のこと、何が出来るのかが数年後には大事になる。昨今はプロヂュース公演が増えているのが影響して、そのような現場での成長がないのが残念だ。ここは劇団や集団生活をしている役者はいい経験だと思う。フリーランスはそれはそれで凄いけど、競争社会であるこの業界ではいずれは息詰まると予想している。ある程度の成果は早く出るが、その後停滞する場合が多い。経験上。


演出家は孤独である。稽古場では特に。組織的に演出家のポジションは一人しかいない。キャストは何人も居る。スタッフは基本的には一人である。
この孤独に対しての忍耐力が欠けているのは自覚している。自分がまだキャストを信じることが出来ていない。もちろん、キャスト個々により、心の底から信頼できる役者いる。その人との稽古は心の底から楽しく感じる。その分苦痛の時間もある。
演出論として、演出者のタイプは2つある。俳優の演技を細かく指示し、演出の理想の作品を作る。もう一つは交通整理に徹すること。このどちらも極端すぎてよくはない。中庸でなければうまく現場回らない。
理想を言ってしまえば、舞台は役者のものであるので、自由にやってほしい。最低限の見せたいものが見えてくれば基本的には自由で良いし、交通整理をしていくだけ。演出家が現場でいうのは「面白いor面白くない」だけだ。ただ、昨今の現場は稽古期間も短いため演出者が決めてしまうことも多い。その結果、役者は台詞を覚えればOKみたいなところもあるらしい…。楽しいのかな。それはアーティストの仕事なのかな。それで観客の心を動かせると思っているのかな。それなら舞台上には役者の肉体はいらずアンドロイドでいいじゃないか。そんな演劇やっている人もいるけど、あそこまで振り切っている人は面白い。(軽く呑んでます。)
話がそれました。

今回の公演、作品選定はとある二人がいなかったら実施していませんでした。個人的なものを作品作りの動機に使うのは良くないとスタニスラフスキー先生は言っています(「芸術を私物化してはいけない」)と。個人的な想いが強すぎる分、他の方々の負担になってはいないかと思っているのです。

考えずに書いていたら気づいたら2000字超えてました。
落ちはありませんが、思いついたまま脳死で書いていたらスッキリしたので、PCを閉じます。

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