10年後。その未来にあったのは。

あの日。
あの当時、あの瞬間、前日の夜勤明けで実家で眠っていた。

揺れで目覚め、落ち着くまで布団に潜り込んでいた。
揺れが治るとすぐにリビングに行き、母親と兄とテレビの前に釘付けになっていた。

まるで映画の世界が現実に起こった。

フィクションの世界が自らの身体をもって実感し、どこか夢幻の世界が画面の中に広がっており、他人の物語が自分の物語になった現実に少し動揺したものの、

それだけだった。

特に違和感はなかった。現実問題として受け入れる覚悟は10代の時から経験してきているので、すんなり受け止めることができた。それよりも、当時は自分の物語に起きた事件ではないとも思っていた。

その2年後、原発事故を基にした演劇作品を元相方が書き、仲間と一緒に上演した。

何が虚構で何が現実か。幻想と生活が入り混じった世界に生き、舞台上で虚構を現実にして観客に届ける仕事をしている演劇人としては、出来事の理解をしている。

不仲だった兄と喋ったのは何年振りだったろうか。。テレビで見た少し遠い場所の現実よりも、そばにいる兄との関係に記憶を辿り、過去を振り返っていた。


それから10年、虚構と現実を入り混じった世界はテクノロジーの発展により益々加速していく。この間に演劇事情は2.5次元という新しいエンタメ(演劇史の流れで言えば新しいジャンルではあるが、本質的には歌舞伎に戻っただけ)、ライブ配信という時間と空間を超越した手段もメジャーなものになっている。


あの日から約10年後、今度は天災ではなく、ウィルスという脅威がまた世界を襲う。虚構の世界が10年間の時を経て再び現実になった時、10年前の驚きから何を学んだのだろうか?

スマホを起動すれば、そこには仮想空間が広がり現実と混沌の中の世界にすぐ身を投じることができる。その結果、便利なモノが支配する世界で、資本主義社会が評価経済主義社会に一気に加速する中で、お金と快楽が簡単に、無料で、早く手に入ることが出来る加速度された世の中になったいま。

自分の中に湧いてくる情感が虚構か現実かの区別さえつけなくなっているのではないかと感じる時がある。
向き合わなければいけない現実問題に、簡単に手に入る虚構という逃げ道を沢山作っている。自分に向き合う耐性がないから、臆病になって行動できてない自分が、いた。


たった10年前の、人類が犯した功罪に対して何を想うのだろうか?
10年前のあの日以来、演劇作品を作ることへの意味を考えていた。

10年後のいま、ウィルスの猛威が包み込んでいるその世界の片隅で、

今日も稽古場で、台本とキャストに正面から向き合い、

考えていきたいです。

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