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自分ができる精一杯の選択

 私の人生は、波瀾万丈と平凡を行ったり来たりしているような、微妙なバランスで成り立っている。今までたくさんの選択をしてきた中で、大きく私の人生を変えるだろう選択をここ数年で3つした。

 私の幼少期は、たぶん、波乱を含んでいたと思う。
 小学3年生の頃、父親の入院中に母親が不貞を働き、離婚が決まった。そこから私が大学を卒業するまで、冷え切った長い家庭内離婚が始まった。
 母親はヒステリック持ちで、よくぶたれた。髪の毛を掴まれ、引っ張り回される。ビンタもとんできていたし、家から追い出されることもあった。殴られていると、祖母は「この子が死んじゃう!」と泣きながら庇ってくれた。いろんな物がよく空を舞う家庭で、大人になってから母にそのことを言ったら「あなたたちが怪我をしないような物を投げていたのよ」と笑っていた。彼女はギャンブル狂いでもあったらしく、私たち三人姉弟の学費保険とお年玉貯金を全て消し去ったらしい。おかげで大学2年生のとき、私は危うく大学生活を続けることができないところだった。こののことに触れたら、彼女は私に逆ギレしてきたので、救いようがない。スピリチュアルにいくら縋ったところで、本人が良くないなら良くなりようがないだろう。
 父親もまともではない。不倫相手との旅行先で買ってきたお土産の飲むヨーグルトを、私たちは知らずに「美味しい」「美味しい」と喜んで飲んでいたのだ。ときに取り合いになるくらいお気に入りの飲むヨーグルトは、とんでもなくひどいものだった。そのときの愛人は、今の再婚相手らしい。
 実を言うと、祖母もあんまりまともではない。私は小さい頃から、「あんたは不細工だねぇ」と彼女に言われて育ってきた。私はその度に「人にそんなこと言うもんでないよ」と注意したが、彼女のその悪い癖が直ることはなかった。


 そんなよく分からない波乱のある家庭から一転し、大人になった私はようやく平凡な生活を手に入れることができた。
 こんな私でも、大学の頃に初めて付き合った人と結婚をすることができたからだ。彼の家族を見て、普通の親ってこういうものなんだと知った。
 彼は私のおかしな家庭環境を知っても、父親が再婚相手を連れてきた両親挨拶のときも、色んなことを受けとめてくれて、この人と幸せになるんだと思っていた。平凡で心が豊かな生活になると感じていたし、実際穏やかで笑いのある毎日だった。
 そんなある日、彼が泣きながら「お前が太っていて愛せないかもしれない」と言ってきた。その日は、デートをする日だった。確かに私はふっくらしている。でもそれは結婚をする前からだった。なぜ彼は、私と結婚したのだろう。
 他にも、いろいろな出来事があった。
 何度もした話し合いは平行線を辿った。最後の解決策を彼が出してくれたけれど、私に受け入れ難いものだった。
 うまくいかないと思ったけれど、彼が一生懸命出してくれた案にのっかることにしたが、私の心がもたなかった。
 私は、十数年連れ添った彼と、離婚という大きな選択をすることに決めた。今まで誰にも話さなかった彼との出来事を友人にぽつぽつと伝えると、離婚の保証人になってくれた。親に伝えたくなかった私は、離婚の保証人を探す必要があったので、心の底から助かったし、「しんどかったね」という一言が心に沁みた。

 2つめの大きな選択は、7年ほど続けてきたデザイナーを辞めるということだった。
 私は色々な職を転々とし、最終的にデザイナーという仕事に落ち着いた。デザインの仕事は楽しかった。辛いと思うことなんて、ほとんどなかった。自分の考えや力で、クライアントのためになることができるなんて、夢のような仕事だと思っていた。
 でも、辞めた。
 私は、とある会社に転職を果たした結果、デザイナーを辞めることにしたのだ。
 その会社では、上司にアイデアを出して説明しても「言っている意味がわからない」「さっきのアイデアから何にも変わってない」と否定される日々になった。
 社内で否定されたアイデアがクライアントに提出されることがあったが、なぜかそのときはクライアントに受け止めてもらえたし、採用されることだってあった。売上が1番良いときだってあった。
 社内と社外の評価のバランスがちぐはぐで、私はとても混乱した。何が良くて何が駄目なのか、わからなくなった。社内でいいものをつくるのではなく、クライアントにとって良いものをつくりたかっただけなのに、だんだんと息苦しくなり、離婚という大きな選択とともに、デザイナーを辞めることも決意した。


 この2つの選択を経て、私はどうなったのかというと、今はドミニカ共和国にいる。プンタ・カナのリゾートホテルの一室のベランダで、この日記を書いている。
 まあ、5日後にはカナダに戻ることになるのだけれど。

 私は2つの大きな選択を経て、3つめの選択をしていた。ワーキングホリデービザを使って、オペアとしてカナダに訪れることにしたのだ。英語はほとんどできないのだけれど、30歳の最後のチャンスだったので、来てみた。
 そして、今お世話になっているホストファミリーが「友人の結婚式があるから、あなたも来る?」と聞いてくれたので、ドミニカ共和国に一緒についてきたのだった。旅費はすべてホストファミリーが出してくれたので、私は何もお金を出すことなく、リゾートホテルでのんびりと過ごしている。本当にありがたいことだった。


 私の人生においてこの大きな3つの決断は、疲弊した心をゆっくりと癒す時間と色々なものに別れを告げて1人で再出発する機会を与えてくれた。
 今は自分自身とよく向き合い、心の中を整理し、再出発する準備を丁寧にしようとしている。


 もちろん、オペアは大変だ。英語もろくに話せない上に、カナダの中でもフランス語がメインのケベック州に来ているため、ホストファミリーとの関係づくりは大変だった。特に子どもたちとの信頼関係を築く大変さは相当で、フランス語しか話せない親戚に囲まれてぼーっとする時間もよくあった。
 子どもからは今でも親の見ていないところで、意地悪をよくされている。
 楽しいことばかりではないけれど、私の心はどんどん回復しているような気がする。

 私は太っていても良いし、笑っても良い。嫌なことがあれば誰に対してだって、拒絶して良いのだ。例えそれが子どもがしたことであろうと、私が嫌だと感じたなら、それは嫌なことなのだ。大人だから子どもにされたことを全部我慢しなければならないことなんてない。
 犯罪を犯したり、他人を傷付けていないのなら、あらゆる他人に私の人生を侵害されるいわれはないのだ。
 「自分の人生に他人は関係ない」なんて言葉、当たり前のようにありふれているけれど、その実、本心からそう思うことは難しかったりする。
 私はカナダののんびりとした土地柄やホストファミリーのお陰で、自分の人生に責任を持って他者を気にせず、自由に生きていこうと思った。


 苦しかった子ども時代、幸せだった平凡な時代、そしてまた苦しい時代。
 それでも、私は私なりに大きな選択を3つした。それは、私の人生を大きく変えてしまうことだったけれど、この選択して良かったと思う。
 これからの私がどうなっていくかは分からないけれど、「この選択をしなければ良かった」と後悔することはない。
 あの選択をしてよかった。
 そう思って、私はこれからも生きていくに違いない。

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