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ひとつのファミリーを去る前に私が思ったこと

 以下は5ヶ月間という短いオペア生活を経て得た個人的な見解だ。
 海外に目を向ける人は今後ますます増えていくだろうし、お金がなく、海外渡航を安く済ませようと努力する中で、今はまだ少しマイナーな「オペア」という選択がもっと人の目に触れていくようになるかもしれない。
 私は「オペア」というのは、少し特殊だと思っている。
 日本には馴染みのない文化だし、「オペア」という仕事を理解していても実際に働いてみて出てくる違和感を解決できないこともあるかもしれない。
 私自身、色々な葛藤があった。その葛藤を経て、今ホストファミリーを変える決意をし、辞めることを伝えた。ここを離れることが寂しくてたくさん涙が出るのに、心の底からホッとしている自分がいる。この、なんともいえない矛盾をはらむ感じをどう表現したらいいのか。
 これからオペアをする人へ、そして今オペアで働いている人へ、オペアを検討している人へ。海外の文化とまじり合うこととはどういうことなんだろうと思っている人に向けて、とつとつと語っていこうと思う。


滞在先の国の文化の相性と家族との相性は別の話

 私は他国に長期滞在するにあたって、まず2つの相性と闘わなければならないと感じている。
 その国の「文化」と、その「人」だ。

 私たちは誰もがそれぞれの国で文化を育み、持っている。そして今まで育ってきた土地の文化から受けて形成された性格が、他の文化を受け入れることは意外と難しかったりする。
 例えば「中指を立てる」という行為は世界的にも有名なNGジェスチャーだけれど、もしその行為を友好を示す挨拶として捉えて文化を育んだ国があったとして、私たちはそれをすんなりと受け止めることができるのだろうか。
 私は難しいのではないかと感じている。たとえ私がその国の知識が持っていたとしてもだ。
 「この国では、これが挨拶なんだ」と頭では理解していても、実際にそれと対峙すれば胸の中にざわつきが起こるのではないだろうか。また、自分がその行為を実行しようとすれば、かなりの抵抗を感じるだろう。
 私はきっと、心がざわつくと思う。

 だから、私たちはまずその国の「文化」の相性と闘うことになるだろう。滞在する前には必ず知識として調べて頭で理解したことでも、実際に体験し、心から理解するには時間がかかるし、人それぞれ順応するスピードが違う。日本人は単一民族なので、多国籍な背景を持つ国出身の人よりも苦労するだろうと思っている。

 そして、私たちが「文化」との相性と奮闘していると、ぽんっと突然登場するのが「人」との相性だ。
 この時に困るのは、自分たちは一体どっちの相性と馴染もうとしているのかがわからなくなってしまいがちなことだと思う。私たちはつい主語を大きく捉えがちだったりするし、「文化」に馴染もうと必死だから視野が狭くなっていたりする。
 「欧米人だから、みんなフレンドリーなんだろう」
 「だから自分も、フレンドリーにならないとダメなんだ」
 「郷に入れば郷に従えというし…」
 こういう考え方に傾きやすい。
 でも、私はこの考え方には批判的だ。
 欧米人でもおとなしい人は、いるに決まっている。日本人でも底抜けに明るく社交的な人がいるように、欧米人でも寡黙な人はいるのだ。同じ人間という枠組みの生き物である限り、私たちは大陸と文化が違うだけで根っこは一緒なのだから。
 とはいえ、確かに欧米は日本に比べたら「社交的な文化」ではあるだろうし、通り過ぎる人との挨拶は向こうの文化なので順応した方がいいとは思う。無視するのは、単純に失礼だ。ただし、順応できなくても、この国の文化とは相性が悪かったのかもしれないなと思い、自分を責める必要はないと思う。日本に帰るか他の国に行けばいい話なのだから。
 そして、私は自分を必要以上に「社交的な人間」につくりかえる必要はないと思っている。私たちには私たちそれぞれに合った相性の「人」がいるからだ。もちろん、あなたが自分に変化を持たせたいと思っているなら、つくりかえる必要があると思うけれど。

 私は「文化」に馴染むことと、「人」に馴染むことは別の話だと感じている。
 長期滞在する上で「文化」に馴染むことができれば、私たちはその土地で生きやすくなる。「人」に馴染むことができれば、私たちはより楽しくその土地で過ごせることになる。
 その国の「文化」は変えられないけれど、自分が接する「人」は変えることができるのではないだろうか。
 「文化」は長い歴史が育んできたものに対し、「人」は常に変化し続ける社会の様々な要因と文化に育まれてきており、「文化」よりも様々な「人」が存在すると私は考えている。
 確かに土台である「文化」への馴染みが多少ないと、「人」との関係を築くのも難しかったりするかもしれないけれど、自分が今どちらの相性で違和感を覚えているのかどうかをはっきりさせることは、次の行動を起こすにあたって、役立つことではないだろうか。

 語学学校への留学やワーホリビザを利用して自分達で仕事探しや住居探ししている人は混同しづらいかもしれないけれど、「オペア」は仕事先と住居が共同しており、エージェントを通していないと家族と自分という閉鎖的な空間に陥りやすくなるような気がしている。
 ましてや私のように田舎に来てしまい、第一言語が英語ではないとなると、友達をつくるためのコミュニティーづくりを探すのにも一苦労だ(田舎には田舎の良さがあるので、悪いことではない)。家族との相性が突然のクビにつながるかもしれないと思えば、家族とのコミュニケーションをとることも、とても緊張した。私はエージェントを通していないので、その思いはもっと強く、なかなか自分の心を開くことはできなかった。

子どもたちに対する想い

 オペアにとって、いつだって悩まされるのは子どもたちのことだ。この子どもの行動は文化の違いからくるものなのか、その子の個性なのか。
 意地悪をされたとき、癇癪を起こされたとき、いうことを何も聞いてくれないとき。私たちはわからなくなって、手も足も出なくなる。
 特に、「叱る」という行為は難しい。なぜなら、その家庭の教育方針にも関わってくるからだ。どこまでを注意して、寛容になるべきなのかわからない。国が違うから余計に慎重になる。日本文化の押し付けをしたくはないからだ。
 信頼関係ができるまでは、叱っても反感を買うだけでどうにもならないし、私が危ないと思って口を出せば別にそれはやってもいいことだったり。とても難しいことなので、体当たりで覚えていくしかない。事前に聞くこともできると思うけれど、100のうち10くらいしか予想できないだろう。90くらいは結局体当たりで覚えていくのだから、自然ななりゆきに任せればいいと思って、私はほとんど聞かずに子どもたちと接していた。余程のことがあれば聞くし、余程のことがあれば向こうから言われるのだ。
 そもそも私は彼らの親ではないし、生まれた国も違う。そして違う人間なのだから、両親と違う指摘をしてしまうことは至極当然なわけで。
 子どもたちとよく遊び、よく笑い、はっきりとノーと言う。私という存在はあなたたちと一緒に遊ぶし、笑うし、楽しい時間を共有するけれど、踏み込んではいけない部分があるんだという意思表示をはっきりと見せることが大切だと学んだ。どんなに幼い子どもに対してでも、尊敬の気持ちを持ち、尊敬の気持ちを持ってもらうことを忘れないようにしてもらう。
 子どもたちとホストファザーから教えてもらったことだ。

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