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Au pair ワーホリ カナダ生活162日目 「ワーホリに意味はあるのか」


上の子の誕生日パーティーと最後の挨拶

 昨日は、上の子のバースデーパーティーだった。色々な人がきて、お昼頃から夜まで行われた。
 みんなでお昼ご飯や夜ご飯を食べ、プレゼントの開封がお昼と夜に分けられており、それぞれの合間時間はみんなのんびりとお喋りしたりしていた。
 退屈そうにほとんど誰とも話さない人もいたり、各々が好きに過ごしているのを見て、私もオペアだからと言って気を張る必要はなかったのかもしれなかったなと感じた。次のファミリーにうつることに後悔はないし、今の自分に必要なことだとは思うけれど、自分の敵は自分だということに気づいてからは、もっと冷静に周囲を見るべきだなと反省している。私はここ数年ずっと人間不信だったんだとカナダに来て気づいたし、カナダの人たちに癒してもらったのだ。

 私のプレゼントの開封は、夜の部だった。ほとんどの人がコスメやネイル道具、お洋服だったのを見て、選択をミスしたかもしれないと少しだけ焦っていた。私は、ピンクのリボンがついた大きな猫のぬいぐるみにしたのだ。本当はYouTubeでよく見ている開封動画に出てくる人形をプレゼントしたかったのだけれど、今の私には高くて手が出せなかった。下の子の誕生日プレゼントも買いたかったし、カナダの消費税を思うと、1万は軽く越えそうな予算は来月から給料がなくなる私にとって大きな出費だったのだ。できるだけ予算を1万以内に納めたくて、ずっとおもちゃコーナーをうろうろした結果、大きなぬいぐるみにした。
 思ったよりみんな大人びたプレゼントを贈っていて、自分のプレゼントを見たらがっかりするんじゃないかと思って少し緊張したけれど、思いの外、彼女は喜んでくれた。とても嬉しかった。
 昨日は「この子に名前をつけたの!」と言いながら抱きしめてくれていたし、一緒に寝てくれたらしい。今日朝起きると、リビングのカウチに座らされていた。「この子、大好き!」と言っていたけれど、他にどんなぬいぐるみがあったのかを聞かれて「フラミンゴ、ゾウ、ワニ、犬」と答えると、「犬の方が好き!お店で変えてきて」と言い出し、「もうたくさん触ったので無理でーす」と笑いながら答えた。

 下の子のプレゼントは来週渡すことになる。来週の木曜日に飛び立つので、来週行われる誕生日パーティーには参加できないからだ。
 スパイダーマンのレゴを買った。彼はスパイダーマンが大好きだし、レゴでよく遊ぶからだ。

 誕生日プレゼントの梱包はホストマザーと一緒に行った。パーティーの準備も一緒に。ホストマザーの結婚式の写真を見せてもらったり、友人のことを聞いたりした。少しだけ緊張したけれど、頑張って英語を話した。

 誕生日パーティーの日、「今日が会えるのが最後だね」「ここを去るって聞いたよ」と言われて、情報が回るのは早いなと思った。「なぜここを去るのか。カナダが好きじゃなかった?」と聞かれ、言葉に詰まった。カナダが好きなことは伝えたけれど、去る理由は子どもたちが原因な部分もあったので、大きな声では言えなかったのだ。しかもホストマザーは私が日本に帰る予定だと伝えているようで、子どもに聞こえる場所でどこまで話していいのかもわからなかった。困惑した私に、向こうも困惑していて申し訳なかった。

 そして、最後の挨拶を交わしたとき、「ああ、私はもうここを去るんだ」という気持ちになった。今はまだなぜか実感がないのだ。何か見えない力に流されているように感じているくらい。自分で決めて自分で飛行機も手配したのに、何か他の力によって押し出されているような感覚だった。どこかふわふわとしている。そんな不思議な気持ち。


唯一できた友達との別れ

 私に英語を教えてくれている彼女は、先生であるのと同時にカナダでできた初めての友達だった。日本が好きで、日本を勉強したかったらしく、言語交換という形をとる代わりに無料で授業をしてくれた。この人と出会えたことは、本当に運が良かった。ホストファザー経緯で紹介してもらい、とても優しい彼女とは一緒にいて落ち着いて英語を話すことができた。
 職業柄、英語が不慣れな人たちの会話にも慣れていて、話しやすかった。

 彼女は、ポストカードやステッカーや英日辞書やノート、ブレスレットなど色々なものを私にくれた。私は彼女に何も渡せていないのに。無償の友人関係を久々に新しく築くことができた。私たちは遠く離れても友人であると心の底から思えた。彼女は、「カナダに来ることがあったら、私の家に泊まってくれていいよ。あなたのボーイフレンドもよ」と言ってくれて、私はこの人に会いに来ようと思った。

 そんな彼女との最後の対面での英語レッスンを終えて、1人車を運転しながら、いつも心の支えにしてきた曲を聞いていると、涙がでてきた。
 海を越えて、全く知らない異国の地にきて、何も話せない自分。ぼろぼろの精神状態で、全てをかなぐり捨てて半分逃げるように来たカナダ。私はどんなにどん底になっても、頑張って一生懸命、生きようとしているんだと思った。
 彼女は私がこれから街を移ること、パートナーを置いてカナダに来たことを「勇敢だ」と言ってくれた。「31才なら学ぶのに最適な年齢だ」と伝えてくれて、チェコへの留学を考えていることも「すごく素敵!」と目を輝かせてくれた。

 彼女は「いなくなるなんて寂しいね」とは一言も言わなかった。わたしたちの関係は友達としてこれからも続いていくからだ。だから私も寂しくない。彼女がくれた言葉がとてもあたたかくて、久々に聞いた大好きな曲を聞いていたら、つい泣いてしまったのだ。


ワーホリに意味はあるのか

 私がワーホリについて調べようとすると、必ずと言っていいほど「ワーホリ やめておけ」「ワーホリ 無駄」といったネガティブな検索ワードが出てくる。実際に、強い言葉を使ってワーホリなんて行くだけ無駄だから行くなと書いている人も多い。
 正直言って、私はこれらの言葉が好きじゃない。なぜ、その人の経験をもとに他人にそんなことが言えるのだろうか。その人たちにとっては確かに無駄だったのだろうし、それを否定する気もないけれど、他人に「行くな」「無駄」という強い言葉を使っている人を見ると、残念に思う。

 私は、それは人それぞれだと思う。ただただお金を稼ぎたい人がいて、出稼ぎで来たのに稼ぐことができなかったら無駄だったと思うだろうし、友達をつくって英語能力が伸びれば無駄じゃなかったと思う人もいるだろう。
 全ては自分の考え方次第で、それは他人に左右されるものではないと思う。あなたが良いと思えば、それは良かったことなのだ。あなたが行きたいと思ったのなら、他人が無駄だと思っていても行けばいい。あなたの気持ちがあなたの世界をつくりあげているのだから、あなたの考えで動くことが1番良いと思う。自分とよく対話し、決めたことなら、どんな辛いことでもあとから必ず肥やしになるのだから。
 私はカナダに来て、この当たり前のことをより強く感じたし、それを心がけて生きていきたい。

 では、私にとってワーホリは意味があったのかというと、もちろん「あった」と答えたい。それもとても大きな意味を持つ。
 でも、それは劇的な何かが起きたわけでもないし、海外で何か成功体験をしたわけでもない。英語ができるようになったわけでもないし、毎日カナダの家に引きこもっている。
 にもかかわらず、何で意味があったのかと聞かれれば、「自分自身と向き合う時間をつくることができたから」と答えるだろう。
 よく泣き、笑い、遊び、人を信頼することができるようになり、人の優しさに触れ、のどかに暮らし、毎日昼寝をし、規則正しい生活をして、今の自分に必要なことが何かをゆっくり考える。
 こんなにも贅沢で幸せな時間の使い方を、私は日本でできたのだろうか。多分、できなかったと思う。



 最近、本当に色々なことをたくさん考えていて、今日のブログも自分の意見表明になってしまったみたいで少し恥ずかしいけれど、とりあえずアップしようと思う。読み返して、恥ずかしくなったら修正していこう。もしかしたら自分も結局、意見の押し付けみたいな書き方になっているのかもしれないのだから。
 でも、こうやって自分の意見を言葉にまとめると自分の考えをしっかりと自分の中に入れ込むことができるから、noteを始めて良かったなと改めて感じている。

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