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Au pair ワーホリ カナダ生活236日目 「人と暮らすことの難しさ」

 新しいところにお世話になり始めて2ヶ月が経った。あっという間なもので、あと100日もしない内にカナダでの生活が終わろうとしている。
 観光ビザに切り替えず、3月初旬に帰国することにした。
 1年かけた私の療養は、終わりを告げようとしている。私の心には5年ほどかけて大きくなった傷があって、取り返しがつかないんじゃないかと思ったけれど、他国でゆっくりと過ごしながら、1年かけてぐにりぐにりと膿出しされていった。少しずつ整理されて今の私は以前の自分のように、軸を据えて動き始めていっているような気がする。
 日本に戻ったらどうするかは、まだ決めていない。面白そうなバイトをしながら貯金をしてまた海外に行ってもいいし、もう一度デザイナーに戻ってもいい。絵描きになってもいいな、なんて思う。
 私は正直、貧乏でもいいのだ。自分の好きなことさえできれば、それで良い。最後に、笑って死ねる人生であればそれでいい。それは誰にも理解されなくても、私が私のことを理解して納得できていればもうそれで十分なのだ。


ホストファミリーに労働時間について伝える

 ここで2ヶ月間働いて、私は労働時間について疑問に思っていることがあった。
 週1回だけの子守りが週2回になる週が連続で続いたり、皿洗いも労働のリストに入っているのに休みと書かれた日でも私がしていたり。小さなもやっとした疑問が私の心によく現れるようになった。
 細かいことかと思われるかもしれないだろうけれど、私は無給なのだ。もちろん、食費や部屋を提供してもらっていることには感謝している。だからこそ、過不足ない労働を提供したいと思った。
 無給で働いてみて思ったことは、お金というのは本当に物質的なもので、私たちはお金を貰っている状態だと少しの過労働には「まあいいか」と思ってしまえるのかもしれないということだった。可視化できる対価の都合の良さを感じる。食費や部屋代というのは、見え辛い報酬だからこそ小さなことでも我慢できないよう感じるのかもしれない。

 特にこの食器洗いというのにはどう考えようか悩んだ。土日は休みとなっているのだけれど、皿洗いは仕事のひとつなわけで。でもこの家のルールは食事を作っていない人が洗い物か子どもの入浴介助を行うというものがある。正直、私が日本で仕事をしていた時でも、洗い物は発生した。生きて食事をする以上、必ず発生する行程なのだ。でも、自分の分だけならまだしも、他人の分まで洗うのは労働になるのではないか。
 そんな考えがぐるぐると巡った。こんなにも小さなことなのにもかかわらず、どうして私が思考を巡らせるのかというと、カナダに来る前に、仕事で必要以上の働きをして潰れてしまったことがあるからだ。それ以来、自分を守るために過不足なく相手に自分の時間を割くということを習慣付ける努力をしていた。
 それは自分自身を守り、相手と対等な立場に自分を置く行為だと思う。こういった小さなことを「別に自分が我慢すればいいし」なんて思っていると、あっという間に相手は不平等を強いてくることも少なくない。人間はそういう生き物なのだ。いい人に見えても、相手が何も言わないうちは都合のいいように解釈して多少のずるさを内包し始める。
 相手が悪いということではない。そういう生き物だからこそ、言葉を考えて自分の伝えたいことをしっかりと相手に話すのだ。相手の意見を聞き、自分の意見を言い、過不足ないところにおさめていくことが大事なのだろう。

 自分を大切にし始めるなら、小さいことからこつこつとしていくことがいいのかもと思ったし、改めて他人と暮らすことの難しさも感じた。


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