ハイデガー まとめ(随時更新)

「存在と時間」問題意識とその必要性

「存在」とは何か…神学的、神秘主義的な問い

存在への問いはアリストテレス以来全く問われていなかった
…最も普遍的な概念であり、定義は不可能であるという理由

あらゆる学問は、その学問の根本概念を設定する
一方、あらゆる根本概念の基礎は存在概念であるため、
存在概念を基礎づけることが、あらゆる学問を基礎づけることに繋がる

・二種類の存在のあり方

「永遠性」…時間を超越している。現在形で記述されるが、それはいわば永遠の現在
「永続性」…既在から現在、そして将来へと流れゆく時間のうちに存在する

いずれにせよ、存在は現在から理解される

・現存在

ハイデガーは、人間=現存在の存在の分析を存在の問いの基礎に据える

人間を現存在と呼ぶのは、人間が、今現に置かれている
各自の状況に対処を迫られている存在だから

つまり、現存在は、自分に固有な状況において
おのれ自身の存在とほかの存在者の存在を了解しながら、存在する

よって、現存在という存在の分析は、存在一般についての了解、
存在一般の意味の分析までも含むことになる

・開示性としての情態(気分)、了解、語り

現存在がその存在において、おのれ自身とほかの存在者の
存在を明らかにすることを開示性と呼ぶ
開示性は、気分、了解、語りで表現される

現存在は世界の内にあり、ほかの存在者と関わりあうとき、気分を伴っている
気分は現存在の現在の状態を明らかにする
また、現存在が気分のもとで認知することを了解と呼ぶ

現存在は自分の状況や世界を了解しているので、
その中で適切に行動することができる
言い換えると、現存在は存在能力を保持し、
さまざまな存在者の可能性を把握していると言える

最後に、言葉による了解の表明を語りと呼ぶ
つまり、語りは現存在の気分のもとでの世界の了解を言葉で示したもの

不安な気分において、現存在はその存在を根源的に示す
なぜなら不安においては、現存在の存在能力が問題となり、
自身のあり方をどうするのかという問いが突きつけられているから

言い換えると、不安においては、自分の本来的な可能性を
選び取るか取らないかが、 現存在に突きつけられることになる
そして、現存在が自分自身の存在能力に関わっていることは、
それを気遣っているということ

そのため、不安によって開示された現存在の根源性は気遣いであるということになる

・他者と頽落

現存在は他者と共にあり、自身が世界を捉えるように、
他者も世界を捉えることを知っている
このような他者との関係を共存在と言う
また、 共存在における他者への気遣いを顧慮と言う

日常における共存在は、他者を意識して行動する
そのため、他者に支配されている
ただし、この他者はある特定の他者ではなく、あらゆる他者である
このあらゆる他者を「ひと」 と呼ぶ

ひととはみんなのことであり、それはみんなの中での標準性を気遣う存在
また世間とは、標準性の気遣いのもと、誰にでもアクセスでき、
理解できるものとして現れる空間のこと

そして、ひとの開示性は頽落と呼ばれ、それは三つのあり方で表現される

①おしゃべり
 語りの主題をおおよそうわべだけ理解して語ること
②好奇心
 了解するために見るのではなく、ただ見るために見ること
③曖昧さ
 おしゃべりで語られていることのうち、本来的な了解とそうでないものがわからなくなること

このように頽落とは、言いかえれば、世間に囚われていることを意味している

【世人(ダス・マン)】…人間本来の目的(死への存在)を見失い没個性化して生きている人。『非本来的な生き方』
【存在忘却の時代】…環境に影響されて自己固有の存在を忘れてしまう現代のこと

・死への存在

現存在はこの世界に目的も理由もなく投げ込まれた存在
【世界ー内ー存在】
現存在は、死を実際に経験するまでもなく、自分が死ぬことを 知っている
死は生きているうちから、われわれのあり方を規定する
そして、死にどのように向き合うかが
われわれの生の質を定める

現存在は頽落の中で、普段は死から目を背けているが
あるとき、死を、差し迫ってくる、おのれの意のままにならない可能性として
正面から引き受けるような仕方で了解する
これが可能性への先駆

【世人(ダス・マン)】…人間本来の目的(死への存在)を見失い没個性化して生きている人。『非本来的な生き方』
【存在忘却の時代】…環境に影響されて自己固有の存在を忘れてしまう現代のこと

負い目は、現存在が引き受けるべき何らかの可能性を
すでに負わされていることを意味する
現存在は、可能性のうちひとつのみを選択せねばならない
そして、良心をもとうと意志すること、を覚悟と言う

・時間

時間性は、将来既在(過去)現在に分類される
それらは、気遣いの本来性である覚悟のもとでは
以下のような様態を表す

将来:現存在が自分自身の可能性に関わらされていること
既在:自分がすでにそうであった姿を引き受けること
現在:現存在が覚悟というあり方のもとで事物に関わること

世界は上記三つの時間性の統一で捉えられ
さまざまな存在者の存在の意味も、この統一から得られるはずである
そのため、「存在の意味は時間である」とされる

・現存在の解釈学

課題:現存在の基本的な存在構造の解明
方法:解釈学
ガダマー、これを継承

「解釈すること(ディルタイ・解釈の遂行)」
…予め理解していることをさらに展開し分節化しつつ、何らかの言語表現にもたらすこと

解釈=理解を「仕上げること」
→人間は理解するという仕方で存在している(単に存在しているのではない)

理解は人間の存在様式そのもの(一つの認識様式ではない)

いかなる解釈も解釈すべきものをあらかじめ理解していなければならない

解釈学的循環(先行理解と解釈との循環)は不可避

循環から抜け出すのではなくそのうちに正しい仕方で入り込むこと

先行理解(存在理解・存在様式)
…被解釈性(先入見)に浸されている
[理解の先行構造]…解釈を予め規定する
①先把持(せんはじ)…解釈するものが視野に入っていること
②先視…解釈するものに視線が向けられていること
③先把握…解釈するものを概念的に把握すること

[哲学の課題]
被解釈性質を突き破って、そこに埋もれている
「本来的な存在」を掘り起こしていくこと
=事実的な生(今ここに現に存在する・どこから来てどこへ行くのかわからないまま)
を自覚的に自己解釈すること
忘却されていた本来性を覚醒させる

解釈学的循環…過去を理解しつつ体得する(我が物に)。その結果存在構造がはっきりしてくる

[問題]
・我々は常に「状況」の中に入り込んでしまっている
→故にどこまでも先入見に囚われているかもしれない
・先入見を突き破っていく=伝統が切断される?

これらの問題をガダマーは自覚していた

後期ハイデガー

1927年の『存在と時間』刊行後
いくつかの著述を経て、
1930年に「真理の本質について」の講演を行う
ここにいわゆる「転回」がはじまる

『存在と時間』:「存在」は、人間存在への了解に支えられている
後期ハイデガー:「存在」それ自身が人間の存在了解を可能にしている

この「存在」は、「空け開け」「無」「超越」「明るみ」といった術語によって語られる
ただし、これらはすべて同じ意味と考えられる

・空け開け

近代哲学においては、主観と客観の一致 (=合致)
「真理」の標識と見なされてきた

しかしハイデガーは、「真理」の本質を追いつめるためには、そもそもこの「合致」ということを可能にしているものは何か、と問うことが大事だと述べる

例)今、金貨を手にして「これは貨幣である」と言うとき
真理とは、金貨そのものと「これは貨幣である」という言葉の合致にある、と言われる
問題は、この合致を可能にしているものは何か

ハイデガー「何より大事なのは、私がこの金貨を見て、 頭の中で『これは貨幣というものだ』と表象(イメージ)できること

言葉と事物の合致は、 この「表象」によって可能となる
表象は、言葉と事物を関係させる関係領域であり、それは開けた場である
そのためこれは、「空け開け」と呼ばれる

なお、この「空け開け」という概念は、『存在と時間』においては、現存在の「現」の語に対応する

そして、空け開け、明るみ、無、超越、自由といった言葉で語られるものは
人間が諸事物から意味を受け取ることができるということであり
さまざまな存在者から 「その何であるか」(=存在)を受け取りうることの根拠と見なされている

・「存在」から贈られたもの

「転回」の要点は、「真理」は人間のおかげではなく、「存在」のおかげだ、という点にある

『存在と時間』:「存在」は人間の存在了解のうちにある
後期:人間の存在了解自体が 「存在」のおかげ

例)人間の自由とは、好き勝手に事物の存在の何であるかを解釈するものではなく
いわば存在それ自身の在り方に導かれて、事物のほんとうの在り方を露わにするカ

ここには、人間が「存在」を規定するのではなく、その存在了解が「存在」自身からもたらされたもの、贈られたものだという後期の力点がある

・「アレーティア」と「ピュシス」

「より隠れないもの」→「よりいっそう隠れないもの」
→「最も隠れないもの」というプロセスは
事物をある「隠れなさ」=アレーテイアとして顕現させる
ハイデガーはこの「アレーテイア」として「真理」の概念を定義づける

このギリシャ的な「真理」の概念は、主観と客観の一致や言葉の正しさを意味しない
むしろそれは、事物の「本来あるあり方」を暴き、開発するという意味を持つ

そして、事物の本来の姿とは何かを示すのが自然=「ピュシス」の概念

ギリシャ人は、天や地、石や植物、動物や人間、
人間と神々の作り出したものとしての歴史、
そして神々自身といった「世界」のすべてを「ピュシス」と呼んでいた

つまり、「ピュシス」とは、ギリシャ人にとって
世界の森羅万象の「本来あるべき姿」を意味していた

言い換えると、「ピュシス」はいわば「存在」の本体であり
「アレーティア」はそれを、隠蔽された相からその本来の相へと露わにすること

そしてこの「ピュシス - アレーテイア」という真理性が
実現される場、地平が、人間という「空け開け」

・「根源的な一者」

『存在と時間』:日常生活における人間の「頽落」が批判の主な対象
後期:ヨーロッパにおける形而上学的「存在解釈」の制度性全体が、最大の批判の対象に

始原においては、事物の存在が「本来的にそうあるあり方」と
人間が「本来的にそうあるあり方」とが相関し、調和していたはず
この状態がいわば 「存在の真理」を象徴する

しかし、人間はこの「存在の真理」を忘却し、頽落の中を生きている
そして、この「存在の真理」の取り戻しは、人間が人間としての
「本来性」に目覚めて生きるとき、はじめて可能になる

またこのとき、事物の存在もそれが本来あるべき相において人間に現れる
ハイデガーの「根源的な一者」は、そのような像として定位されている

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