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アリになるのは、暇が暴力に感じるからかもしれない

今の職場Aは、暇だ。
「仕事」と言える、役割を持つ時間が短い。
1日8時間いるとして、そのうち半分くらいは暇なんじゃなかろうか。

最初はこの「暇」が苦手だったわたしだが、開き直って読書や他の仕事をする時間にしたら、もう暇に慣れてしまった。


そのくらい暇な職場なので、ほとんどの職員はのんびりしている。眠くなるくらい。実際、うたた寝する人がいるのは日常茶飯事だ。


その暇な時間に、何か仕事を探して書類の整理をしたり掃除をしたり、誰かが動かなければならない数少ない場面で忘れず必ず動く人がいる。

わたしの方が下っ端なのに、読書に夢中だったもんだから「あ」と思う。
「常に気を回して、すごいなあ」と思いながらまた読書を始める。
こんなのをしていたら嫌われるとか、若いくせに図々しいとか思われるかもと、最初は思った。

思ったが、どうでもいい。
わたしも多少は気を回している。ワンテンポ遅いだけで、彼らが動かなければわたしは動く。せわしなくさせているのは本人だから、それが好きなのだろう。
仮にそれで不満を持たれても知ったこっちゃないし、勝手にやって勝手に損した気分になるならば、それは被害妄想だと思うから、そんな人と付き合うのも面倒なので嫌われた方が楽だ。


暇を味わえないのは、貢献欲が強すぎるのかもしれない。

もっと思うのは、暇は「お前には価値がない」とか「役に立たない」とか言ってくるような暴力性があるからかもしれない。

暇なのに生きていると、何もしていないのに自分にお金がかかるし、周りは立派に勤めているのに自分は何もしてないように感じるし、暇だと感じるくらい会う人がいない孤独さにも気づいてしまう。




なぜそう思うかって、かつてのわたしがそう感じたからだ。


元々わたしは、暇が苦手で耐えられない人間だった。
数年前に「何をしたらいいか」「何をしたいのか」わからなくなった時期に、何かしたいのに何もできなくなった。
体が動かないから、暇を持て余して考えては寝て、泣いては考えて、食べては泣いて、また考えるような日々を送った。

暇という暴力に、真っ向勝負するしかなかった。



戦った結果、人生なんて辛いことばかりなのに生きてるだけで偉いしすごいと思えるようになった。
わたしは何度かnoteに書いていると思うが「わたしが死んだら悲しむ人がいる」ということが生きている理由なのだ。孤独だったら、世界から脱落している。



このマインドを手に入れた後にこの職場なので、わりと早く適応できたのだろう。

しかし暇というのは「自分に使える時間」であると同時に「自分が世界の役に立っていない時間」でもある。

自分のための時間にしてしまえばいいのだ。
でも、わたしたち日本人はきっと、他者貢献が好きで、ちゃんとした人が好きで、すぐに罪悪感を持って、役に立たない自分が許せない人が多い気がする。

だから何かの役に立てない「暇」は「お前には価値がない」と言われているようで受け止めるのが苦手だ。


本当は、生きてるだけで偉いのにね。

「暇」を持て余せる傲慢さは大事なのかもしれない。
暇が苦手なのは、自分や現実に向き合うのが嫌なのかもしれない。
暇が苦手なのは、考えたくないからかもしれない。


自分が嫌いな人ほど、自分と向き合ったらいいし
何か息苦しさをいつも抱えた人ほど、何度でもそこに向き合ったらいいと思う。


嫌になるくらい考えて、泣いて、考えて、アホかってくらい自分について考えまくったあの暇な時間のおかげで、わたしは前よりずっとわたしが好きになった。

キリギリスになっても平気だし、そんな自分に「価値がない」とも思わなくなった。



暇と真っ向勝負するのは自分と真っ向勝負するのに近い。
だから苦しい。

「悩むのは暇だからだ」という言葉は素晴らしいと思う。

逆にいえば、暇じゃないと悩めないことでもある。考えることもできない。
悩むことも考えることもずっと後回しにしていると、自分の底が浅くなりそうだ。

いつもじゃなくていい。
もっと悩め。もっと考えろ。もっと自分の暗い気持ちを味わえ。

何かに蓋をしてせわしなく常に動くアリのような人には、そう思ってしまう。


アホみたいに前しか見ない人より
アホみたいに考えてしまう人が
どうしてもわたしは好きなんだなあ。

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