雑記④

5月の東京文フリに合わせて出す短編集「その花が咲くところを見せて」の作業をすすめている。
前回の「楽園にて」と同じく、表紙は創作サークルのNUEさんにお願いした。
表紙のイメージを共有するweb会議(つっても雑談みたいなもの)の中で、NUEさんの方から質問があった。
「この本は誰に向けて書かれたものなんですか?」
それはつまり、どんなコンセプトでどんな客層に向けて売り出すものなのか、マーケティング的な問いだったと思うのだが、あまりそういうことを考えて物を書かない僕は言葉につまり、苦し紛れに言葉を捻り出した。
「……人間が嫌いな人、ですかね」
口に出した後に、マズッたかな、と思った。
それは追い詰められてこぼれ落ちてしまった、紛れもない本音でもあった。
「その花が咲くところを見せて」は、ここ一年で僕が書いた短編、特にホラーの傾向がある作品を取りまとめたものだ。ホラーといえども幽霊や殺人鬼が沢山出てくる本ではなく、読後になんとなく「ヤダな」と感じるようなタイプの話が多い。
僕は僕の読みたい話を書く。それしか書けない。
僕はこの数年、人間が嫌になっていた。それは個々人に対する思いというより、むしろ社会の愚かさと、それに迎合する存在に向けられたものだった。
だからきっと、「人間を嫌いな人」というワードが口をついて出たのだと思う。
会議を終えた後、寝室で一人考えた。
「人間が嫌い」だなんていう書き手の作品を読む人間なんているのだろうか。誰が求めるというのだろうか。
出来の悪い悲観主義。
目を瞑り、自分の好きな物語たちを思い返してみる。
そうじゃなかったはずだ。自分はどうしてこうなった?
けれど嘘はつけない。ここにあるのは紛れもなく自分が書いた小説たちで、自分の感情に従って僕は筆をとっているのだ。
人間を好きにならなければ、良いものは書けないのではないか。
その一文が脳裏に浮かんでしまってからの一週間は、本当に辛かった。
人を、その営みを、素晴らしいものなのだと全肯定できない自分が、欠陥のように思えた。
歪んでいるのは自分で、自分が自分でなければもっと良い自分が存在したのではないか。
言ってしまえば、自分という人間性がこうでなければもっと希望に満ちた、人に勇気を与えるような、そんな作品が書けたのではないか。
思いは巡り、また捻転する。自己反駁は終わらない。
好きにならねば。好きになれる?愛することができる?これを?液晶の向こうを眺める。憎悪の増幅装置によって膨らんだ悪意が四角い形に僕の瞳孔を焼く。
結局のところ、僕の想定していた「人間」も虚像でしかない。盲目的な幸福論も、あっと言う間に流れていく薄っぺらい情報から発する厭世主義も等しく虚だ。
じゃあ本当の人間って、誰で、どこにいるのだろう。
きっとそれは目の前や足元にある。
地元の友達とか家族とか、大切にすべき人は存在する。
人間が嫌いなのだと、そう思っていた。
けれど、ここ数日の苦悶の末に辿り着いた僕の感情は、「人間を好きになりたい」だった。
人間に好きになれない自分を否定し、頭ごなしに愛せよと押しつければ自分が辛くなってしまう。それは自己否定になってしまうから。
けれど「好きになりたい」なら、今この生き物を愛せない自分も肯定しつつ、身を浸していたいやらしい厭世主義から一歩踏み出せるような気もしていた。
抜け道のような考え方ではあるのだが、これが今の僕が出せるベターな答えであるように感じる。
問いのチャンスをくださったNUEさんにも感謝しつつ、今年はまた新たな気持ちで創作を続けていこうかと思った。
そんなこんなで、僕のDOWNな感情を煮詰めたような短編集「その花が咲くところを見せて」は五月に発売予定です。よろしくお願いします。

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