ナツキ⑤

「俺、そういう感情ないからさ。誰が相手でもそうだから、そこは安心してよ」
 ついりの自宅へと向かう道すがら、ナツキはあっけらかんと言い放った。
 陽は沈み、あたりは暗くなり始めている。
「不安だったら、手とか足とか縛ってもらってもいいし。もちろん、そういった趣味もないんだけど」
「そっ、そんなことしないよ」
「そう? その方がありがたいや」
 秋人に持たせられた寝袋を抱えて、ナツキはニッと笑った。
 黒いジャージと白いトップス、膝丈の黒いタイトなスカート。長い黒髪は一つに束ねて、黒いキャップの後ろに通している。
 どう見ても、美しい少女にしか見えなかった。ついりは、同じ教室で学んでいる男子達の姿を思い返してみたが、とてもナツキのイメージと一致しない。
 喋り方だけは、年相応の男子のようではあるのだけれど。
「ナツキさんは……どうして女の子の格好をしているの?」
 口に出してしまってから、ついりはマズい、と思った。
 随分と踏み込んだ質問をしてしまったかもしれない。
 後悔したところで、言葉はもう口から出してしまっている。
 おそるおそるナツキの表情を覗いてみると「うーん」と唸りながら、すこし考え込んでいる様子だった。
「どうして、かぁ。だってこっちの方が、可愛くない?」
 ナツキは軽く手を広げて、歩道で立ち止まりポーズを取ってみせる。
「うん、可愛い」
 間髪入れず、ついりは答えていた。
「でしょ? 色んな服を着てみてさ、自分がいいなって思ったものを選んでるだけなんだ。学校の制服も、男子の学ランよりセーラー服の方がずっといいなって思う」
 ついりは、調理準備室で初めて出会った時のナツキの姿を思い出していた。チャコールグレーの制服が、おそろしい程に似合っていた。その場にいる、他の誰よりも。
 自分が良いと思うものを選んでいる。ナツキはそう言った。素晴らしいことだと思う。
 そう思う一方で、ついりには咀嚼しきれない感情があった。
 ナツキが好きな服を選べるのは、選べる立場にあるからだ。文句が言えないほどに、見た目が美しいからだ。生まれた時から与えられたギフト。それは誰しもが手に出来るものではない。
(私は、選べなかった……)
 嘲笑。冷笑。
 誰もいない音楽室。
 床に散らばった楽譜。
 その前にしゃがみ込んでいる自分の姿。
 ふとした瞬間に、もう消してしまいたい記憶が脳裏をよぎる。
 目の前にいるナツキは、何も悪い事はしていないのに。
 ついり自身の苦しみとナツキの美しさは、初めから関係が無いのに。
 事あるごとに、暗い感情を抱えてしまう自分が、ついりは嫌いだった。あまりにも惨めだった。
「俺、学校もさ、制服で選んだんだ。学ラン着るようにって指定されていたから、入学前にアニキ引き連れて職員室乗り込んでさぁ。好きな格好させろって大暴れしたら、けっこうスンナリ認めてくれたよ」
 抑圧された環境でも我を通せるのは、その人が強いからだ。成功体験に裏付けられた、揺るぎない自信があるからだ。
 その手に掴んだ何かがあって、周りに肯定されて育った自我があって。
 そういう人だけが、自分の欲するままに素直に行動する事ができる。
 周りの迷惑なんか、気にもしないで。
(私には、それが無い……)
 強さが無い。自信がない。成功体験がない。肯定された、自我がない。
(だから、全部しょうがないんだ)
 ついりは、自分の左手を見た。
 その人差し指の第二関節の部分には、黄色の絆創膏が貼ってある。
「ん? ついりん、指を怪我したのか?」
 俯きげに歩くついりの顔を、ナツキが覗き込んでくる。
「ううん、これはタコが出来ていたの。トランペットを持つ時にね、人差し指で支えるようにするから、ここが硬くなるんだ」
 初めて楽器を持って練習をした日、あまりにも指が痛くなってしまって、ベソをかいてしまった事をついりは覚えている。
 それから痛みに耐えて練習を続けていくうちに、いつのまにか人差し指にタコができた。中学の先輩に「これが指に出来たらスタートラインだからね」と言われて、やっと部活の仲間に加えてもらったような気がして嬉しかった。
 そのうち、指の痛みも忘れて、毎日トランペットの練習をするようになった。
 あの頃は、楽器を吹けるようになるだけで、毎日が本当に楽しかったのに。
「ついたよ、ここが私の家」
 チカチカと、白っぽい灯りをチラつかせている街路灯の下で足を止める。
 住宅街の一角にある古ぼけた二階建てのアパート。その一階に、ついりと家族が暮らす部屋がある。
 煌々と灯りが漏れている戸建住宅が立ち並ぶ路地とは異なり、古い街灯の一本だけを光源にしているアパートの周囲はどことなく薄暗い。
「へぇ。ついりんの部屋はどこなの?」
「103号室。少し待っててね、部屋の中をちょっと片付けてくるから」
「えー、気にしなくていいのに」
「私が気になるの。とにかく、私が呼びに来るまでここに居てね」
 ナツキはついりに言いつけられるがまま、その場所に立ってアパートを眺めていた。
 少しばかり顔を上にそらし、形の良い小鼻を動かしてクンクンと匂いをかぐ。
 左手首にはめたブレスレットをかちゃりと鳴らし、手をニギニギと動かして
「なーんか、匂うんだよなぁ……」
 と小さく呟いた。

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