〈超越的なもの〉について
何かをする時、何かをした時、何かを選んだ時、何かを選ぶ時、つまり何らか行為する時。
たしかに、それは私がした、と普通は考えられる。私が選んだ、と。
でもそれは本当だろうか。
違うような気がする。
引力が働いていた、というか、何かに首根っこを引っ張られているような、つまり、導かれているような。
私がしている、のではなく、私が何者かに、させられている、ような。
突き詰めていくと、根源的には〈私〉はない。
そこには純粋に〈働き〉が有る。
その純粋な働きこそが〈超越的なもの〉もしくは、超越性といったものなのではないか。
限界まで掘り崩し、破壊し尽くし、解体していったとき、その〈超越的なもの〉を見出さざるを得なくなることに気づいてしまう
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