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マンジオカ小史~南米原産のサステイナブル食料 おおうらともこ 月刊ピンドラーマ2023年3月号

マンジオカ(キャッサバ芋)はブラジルを代表する食材だ。サンパウロでおなじみの食べ方と言えば、揚げマンジオカや、肉やフェイジョン(豆)にかけるファリーニャ(マンジオカの粉)、そしてマンジオカから抽出されるでんぷんからは、ブラジリアンファーストフードのポンデケージョやタピオカ、日本人にはイチゴ大福の餅皮やわらび餅まで作られる。

サンパウロのフェイラで販売されるマンジオカ

現代の都市生活では数ある食品の一つに過ぎないマンジオカだが、その歴史は先住民(インディオ)の伝承やブラジルを発見したカブラル到着時(1500年)の記述にまでさかのぼることができ、食べ方も千差万別なら、地域によっては今も日々の主食となっている。

揚げたマンジオカ

マンジオカ伝説『女神マニ』

マンジオカはペルーのアンデス原産とも言われ、アマゾンの熱帯地域では紀元前から栽培されていた。先住民のトゥピー族がベネズエラ、ギアナ、中央アメリカ、フロリダ、そしてブラジルの大西洋沿岸といったラテンアメリカ各地へマンジオカ栽培を伝授し、同時に彼らの間でマンジオカにまつわる『女神マニ』の物語が伝承されてきた。

「族長の娘が処女懐胎し、マニという女の子が生まれた。しかし、生まれた直後に息を引き取った。ところが、死後1年ほどするとオカ(先住民の住居)から芽が出て成長し、その根が食されるようになった」

マニはマンジオカの根に宿り続けていると言われ、茶色い皮の中が真っ白なように、女神マニの肌も白かったと伝えられている。この伝説が示唆するように、マンジオカは先住民の定住生活の文化を築くための重要な食料となった。

先住民の住居「オカ」

アジア産のイモと勘違いされたマンジオカ

カブラル一行が初めてブラジルに上陸した時も、マンジオカは早々に先住民の食事で目にされた。随行していたカミーニャのポルトガル王への手紙の中では、
「それぞれの家には30~40人暮らすことができ、たくさんのイニャーメや様々な種子を食べている」
と記述された。

現在では、カミーニャは、イニャーメというアフリカ沿岸で既にポルトガル人にも知られていたアジア原産のイモの一種とマンジオカを勘違いしたと考えられている。カブラルの船団にいた水兵が記した報告書『Relação do Piloto Anônimo』の中でも、「イニャーメの根が彼らのパン(主食)」と、引き続き勘違いが繰り返されている。

その後、次第に現地の文化が正確に伝えられるようになり、1576年に著された『História da Província de Santa Cruz』(Pêro de de Magalhães Gândavo著)の中では、マンジオカの根とヨーロッパで知られるサントメ産のイニャーメが似ていると、ようやく両者が区別されるようになった。

マンジオカと勘違いされたイニャーメ

マンジオカ栽培を義務付ける法律

16世紀の植民地時代初めから、ポルトガル人はマンジオカが食料となり蓄えもできることに気づき、栽培を広めていった。植民地ブラジルの初代総督トメ・デ・ソウザ(1503 - 1579)は法律を制定し、1549年にマンジオカの栽培を義務付けた。

サンパウロを出発点に金や貴金属を探したバンデイランテ(奥地探検隊)は、先に奥地に進んだグループがまず土地を開墾し、後から来たグループにマンジオカを栽培させた。彼らは内陸の新しい土地へ向かう前、必ずグループの一部の白人や先住民を残し、マンジオカを栽培して加工したファリーニャを作らせた。それを持って先に奥へ進んだメンバーに追いつき、食料を調達した。

そのように、かつてブラジルの探検隊に必須食料だったのが、ファリーニャ・デ・パウ(farinha de pau 木の粉)と呼ばれるものだった。これは植民地の支配者に命名された名前で、他にもファリーニャ・デ・ゲッハ(farinha de guerra 戦いの粉)という呼称もあった。こうして、ファリーニャは現在までブラジル南東部の庶民に親しまれる食材となっている。

マンジオカは奴隷貿易でも重視され、アフリカからブラジルに戻ってきた船はお金の代わりにタバコや酒のほか、船中の奴隷用の食事に、栄養豊富なマンジオカの粉を受け取った。やがてアフリカの港でも、捕えられていた奴隷の食料になるということで、マンジオカ栽培が始まった。それらの港からアフリカ全土に栽培が広がり、やがて東南アジアにまで伝搬した。今日はアフリカでも重要な食料となっており、モザンビークではマンジオカの若い葉を使った「マタパ」という料理もあり、ブラジルでもパラ州の郷土料理「マニソバ」がマンジオカの葉の料理としてよく知られる。

マンジオカの葉

先住民の主食として

サンパウロではブラジル食材の一つに過ぎないが、特に森林地帯のブラジル北部・北東部地部では、今日まで先住民の貴重な主食となっている。例えば、アマゾン地域のカボクロの集落では、どの家にも椰子の葉で葺いた小屋にマンジオカの粉を炒る乾燥鍋や製粉所のようなものがある。そして軒先には、植え付けのために束ねたマンジオカが立てかけてある。

トゥピー語が起源のマンジオカは、ウアイピ、アイピン、マニーヴァなど、その種類や地域によっても異なる名称を持つ。パラ州の代表料理タカカなどの材料となるトゥクピーが作られるマンジオカ・ブラヴァは、シアン系の猛毒を持ち、解毒して食される。一般的な無毒のマンジオカはマンジオカ・マンサ、マンジオカ・ドーセ、マカシェイラなどと呼ばれ、これらはイモ料理感覚で食べられる。

マンジオカのでんぷんからタピオカを作る先住民

先住民のマンジオカ酒カウイン

マンジオカから作られるお酒はあまり一般的ではないが、マラニョン州にはチキーラTiquiraという地酒がある。先住民にもお酒を造る習慣があったようで、16世紀にヨーロッパ人の Jean de Léry が著した「Viagem à terra do Brasil(ブラジル旅行)」(1556 - 1558)の中で、彼が先住民の集落で見たマンジオカ酒カウインの興味深い作り方が記述されている。

「マンジオカの根は先住民の主食であり、彼らの飲料にも用いられている。女性たちは薄く輪切りにしたイモを陶器いっぱいに水を入れて火をかけ、柔らかくなるまで煮る。煮えたら火からおろし、冷めるまで置く。その後、イモの入った容器の周りにしゃがみ、イモを口に入れて咀嚼する。そして、もう一つの容器に吐き出していく。その後、棒でしっかりかき混ぜながら沸騰させ、よく煮たらそのペーストを別の陶器に移し、発酵させる。全体に泡が立ったらふたを閉じ、やがて飲めるようになる。(...)インディオはこの飲料をカウインと呼ぶ。濁っていて沈殿物があり、酸っぱいミルクの味がする。白と赤がある」

カウインを作る様子(「Viagem à terra do Brasil」より)

古くて新しいサスティナブル食料

昨今の不安定な国際情勢の中、食糧安全保障の言葉をより一層耳にするようになった。広大な土地を有し食糧大国でもあるブラジルが注目される中、先住民には文字通り地産地消され、古くて新しいサスティナブル食料なのがマンジオカだ。

1973年から1989年にかけて、ブラジル政府は小麦栽培を奨励したこともあって、1970年以降、マンジオカの消費は伸び悩んでいるが、依然、アマゾンや他地域の農村部では日常の必須食料である。

マンジオカは10~15㎝ほどに切った茎を植えるだけで、一年を通して収穫でき、痩せた土壌でも繁殖し、乾燥や病気にも強いという優れた作物である。植えつけ後、6~8か月は20度以上の気温が必要だが、特別な技術も不要かつ低コストで収穫でき、米よりもカロリーが高くビタミンが豊富なため、貧しい人たちには最良な食料としてパン・デ・ポーブレ(貧者のパン)と呼ばれることもある。5人家族で3度の食事を摂る場合、1か月に約20kgを消費すると言われ、そのためには1人当たり400㎡の栽培面積が要るとのことだ。

煮る揚げるのイモ料理として、粉からはピロン(粥状の料理)やケーキなど、現代料理にも幅広く活用できるマンジオカ。南米原産の古くて新しい、地球に優しい未来の食料がマンジオカと言える。


おおうらともこ
1979年兵庫県生まれ。
2001年よりサンパウロ在住。
ブラジル民族文化研究センターに所属。
子どもの発達にときどき悩み励まされる生活を送る。

月刊ピンドラーマ2023年3月号
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