漫画『明日、私は誰かのカノジョ』を読んで、愛着の問題と見捨てられ不安について考える
サイコミという漫画アプリで『明日、私は誰かのカノジョ』という作品を読んでいる。
ドラマ化もされたので、ご存知の方もいるかもしれない。
既刊は15巻。
まさにいま最終章を迎えているのだが、最近の内容は私に刺さりすぎて読むたびに心を揺さぶられている。
「血の繋がった親ですら信じられないのに、
恋愛感情なんていう脆い絆で関わっている
他人をどうして信用できるんだろう」(第207話より)
これは今回の主人公・雪の心の内である。
ここからも察しがつく(?)通り、雪は愛着障害を抱えているように思われる。
実際作中では幼少期に深刻なネグレクトを受けている描写もあった。
全員がそうとは限らないかもしれないが、愛着障害を抱えている人は対人関係の在り方が歪になる。
人と深くかかわるのを恐れていた雪にとって、おそらくはじめての彼氏となった太陽。
彼もまた親とうまくいっておらず、それぞれの傷を少しずつ開示し、惹かれ合うのにそう時間はかからなかった。
しかし雪はネグレクト、太陽は過干渉を受けて育った。
愛情や関心の撤去と過分な付与は対局に位置する。いや、過干渉を愛情の過分な付与と単純に称するのは性に合わないか。
過干渉はなかなか理解が得られがたい問題のように思うが、苦しむ人にとっては愛情ではなくまぎれもない支配である。
では愛情と支配の境目はどこなのか?と尋ねられたら私は明確には答えられない。
ただ、じわぁと浸食されるような居心地の悪さを感じる。私のためを思って言ってくれているんだな……などとは素直に思えない。
それってあなたがしたいだけ/してほしくないだけでしょ?という疑念が湧いてきたら愛情ではなく過干渉。根底にあるのは支配や操作願望だと漠然と私は考えている。
作中では、再会した母親から手酷く裏切られて落ち込む雪と、母親にはじめて反抗ができた!と喜ぶ太陽が最悪のタイミングでぶつかり合う。
いつもならもっと興味を持って話を聴いてくれるはずなのに、と思う太陽は雪に「態度がおかしい。他に男でもできた?」と詰め寄る。
やっとまた母親を信じてみようと思った矢先の深い失望をうまく伝えられないでいる雪に対して、太陽が示した反応は「疑い」だった。
異性関係に敏感ですぐに疑念を持つ、というのはまさに太陽が自分の母親から向けられ……嫌悪してきた反応である。
嫌だ嫌だと思いながら、そう感じる親の部分をしっかり取り込んで大切だと思う相手にこそ、ぶつけてしまう……。
憎んだり疎んだりしながらも結局は親に似てしまう、愛着障害特有の何とも言えない哀しさが描写されていた。
何度も母親に裏切られている雪には、わかりやすい見捨てられ不安も見受けられる。
「仮に関係が良好なら今度はこの幸せが
いつまで続くんだろうって不安で気が狂いそうになる。
また捨てられるんだったら、
いつか終わる関係ならもう今ここで自分から捨てたい」(第207話より)
雪には人はいつか離れていくもの、という考えが刷り込まれているために「関係が良好であっても」落ち着かず、苦しい。
すれ違いが生む、ささやかな別れの予感でさえ見捨てられるという恐怖を刺激する。
一方で太陽にも見捨てられ不安は感じられる。
これまで誰にも言えなかった自分を認めてもらえた、受け容れてもらえたという喜びは、雪との間に物理的/心理的な距離ができることを一切許容できない。
そうした予感は、普段は穏やかな彼の攻撃性を瞬時にして引き出してしまう。
親とのうまくいかなさ、見捨てられ不安という共通点があったからこそ2人は惹かれ合ったのかもしれない。
しかし人間関係のベースとなる母親とのかかわり方をよくよく見てみれば、ネグレクトと過干渉。
そして「見捨てられたくない」から好きな人から遠ざかり遮断する雪と、「見捨てられたくない」から好きな人にはとことんしがみつき執着する太陽とは考え方……というか在り方が真逆なのである。
どんなに「好き」という気持ちがあったとして、どう考えても相性はよろしくないだろう。
これ以上傷つけ合わないためには、恋愛関係を解消するのが良いのでは?とお節介な私は思ってしまうのだが。
まだ物語は終わっていない。
どんな結末に向かうのか純粋に楽しみだし、今後の自分自身の対人関係の在り方の参考にもしたい。
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