見出し画像

デトックスの旅行

のび太のママが「たまには温泉に行きたいわ」と言ったことをキッカケに、のび太とドラえもんが自宅を温泉旅館に見せる回がある。
しかし母親業をやるようになった私は思う。
「たまには温泉に行きたいわ」は、顧客のどのようなニーズを表しているのか、もう少し分析するべきではないか。
温泉があるかどうかが重要なのではなく、温泉旅館に泊まって上げ膳据え膳してもらえる環境に行くことが重要なのではないか。
そしてさらに重要なのは、無限に母親業務が続く自宅から強制的に離れることなのではないか。

先日、風邪症状で仕事を休んだ。風邪症状の感染予防のために、食事を作ることもなく、家族のさわったおもちゃや文具を片付けることもなく、子どもを寝かしつけることもなく別室で寝た。私ではなく夫が、夫も休暇を取り、子どもを支度し送迎し夕食を作り子どもに食べさせ部屋を片付け子を風呂に入れ歯みがきを仕上げ寝かしつけた。

こんなにまったく何もせずに1日過ごすことなんてどれほどぶりだろうかと思った。普段であれば、多少体調が悪い日であろうと当然、少しでも具合が良くなれば即座に、家庭の次の段取り、その場その場でやるべき家事育児が目についてしまう。実施してしまう。会社を休んでも1日丸々休むことなどほとんどない。

旅行とは、非日常体験を目的にする。
その意味では、感染を恐れた有給休暇は、私にとって家に居ながらにして旅行であった。

その意味では、2年前に手術をして入院したのも、私には旅行であったかもしれない。
手術直後の1日、身体のあちこちをチューブに繋がれ、寝返りを打つこともできなかった。片手を慣れない点滴に繋がれ、片手は何やら計器に繋がれて、両手を動かすことも難しい。入院中に読もうとした文庫本もスマホもベッドからほんの30センチ先に置いたままで、私は点滴がぽたぽたと落ちるのを見た。
ほんのわずかな空気の流れ、風の流れを感じる。
頭の中が静かだった。

小さい頃、しばしば、頭の中が静かだった。
私は居間の陽当たりの良い大きな窓のそばに寝転がって、白いレースのカーテンが風で揺れるのを見ていた。下半分は陽の光が差し込みつつ、上半分は影を持ったまま、揺れるカーテンは陰影の模様をゆっくりとした周期で変え続ける。
そういうとき、頭の中が静かだった。

あれは何をしていた時なんだろう。
何もしていない時には違いない。
姉弟の存在感もなくて、親も近くにいない。いやおそらく姉弟もどこかにいて、母親は夕飯の支度、またはピアノを弾いていたに違いない。

周りが働いていて、何かしていて、私は子どもとして間借りしていて、だから私は何もしないことができる。

成長するにつれて、自分で生活するようになって、何もしない時を持つことが難しくなってしまった。

旅行が日常からの解放であるというなら、旅行とは人から行動の選択肢を奪って、間借りした場所に強制移動することなのかもしれない。
選択肢のない、能動的なことのできない、自由に振る舞えない間借りした非日常でこそ、逆説的だが、頭の中に広々とした自由を感じられる。

ああ、また、頭の中の静けさを感じたい。

#エッセイ #旅行 #旅

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?