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ボードリヤールの「差異的消費」

昨年末から今年の始めにかけて
行われていた読書勉強会にて、
『武器になる哲学』を読み進めて
いたところからのネタを、
少しばかりご紹介させてもらおうと
思います。

50個ある「キーコンセプト」
うちの36個目に、
フランスの哲学者であり思想家で
あるジャン・ボードリヤール

「差異的消費」が取り上げられて
いました。

彼の主著である、
『消費社会の神話と構造』(1970年)
において、消費に関するユニークな
定義が展開されておりまして、
それが「消費とは記号の交換」だと
いうものです。

ここで「記号」というのは、
「私はあなた達とは違う」という
「差異」を表す記号だとのこと。

分かりやすいところで言うと、
「ポルシェ」を買うということや、
「タワマン」に住むということは、
「私はお金持ちなのです」などの
「記号」を得るために対価を支払う

行為だと考えるわけですね。

高級ブランドでなかったとしても、
「無印良品」を買うことで
「私はモノの価値が分かるのです」
といった「記号」を得たり、
「田舎住まい」をあえてすることで
「私は都会から一歩距離を置きます」
という「記号」を得るようなことも
考えられます。

このような「記号」を得て、
私は他者とは異なることを示すのが
「差異的消費」
であり、
なおかつ現代社会ではどのような
選択をしても、選択されなかった
ものとの相対的な関係で必然的に
「記号」が生じてしまう
、いわば
「記号の地獄」に生きているという
のがボードリヤールの主張なのだと
山口さんはまとめてくれていました。

同じ章の前半で、山口さんが古典的な
マーケティングの枠組み
についても
紹介してくれており、そこで消費の
目的
を次の3つにまとめています。

①機能的便益の獲得
②情緒的便益の獲得
③自己実現的便益の獲得

私は便益より、ベネフィットという
言葉を使うことの方が多いのですが、
いずれの言葉も少々とっつきにくい
ですよね。
分かりやすく説明したいときには、
消費者にとっての「嬉しさ」
言い換えることが多いです。

これら3つの「嬉しさ」は、
市場が成熟するに従って、
①から③へと消費の目的が移って
いく
と言われているのですね。

車を例にとると、最初は「移動」
いう純粋に機能的な側面に関して、
速く移動できるとか、
安全に移動できるとか、
運転がしやすいといった嬉しさを
消費者は求めます。

しかし、時間の経過とともに、
機能面では差がつかなくなってきて、
色や形がかっこいい/かわいいとか、
安心して乗れるとか、
情緒的、精神的な側面の嬉しさへと
消費者の関心が移っていくのですね。

やがて、
「この車に乗るのが夢だった」
「この車こそ成功者の証」

というような、消費に自己実現を投影
するような場合すら出てくるわけです。

こうした状況を踏まえての、
ボードリヤールの指摘は、
大変に鋭いと感じました。

①で消費者個人が満足してしまっては、
市場は頭打ち
になってしまいます。
経済が成長していくには、②や③の
ように、「社会性」のある「差異化」に
重要性を与え、「差異の総計の最大化」を
することがマーケティングには決定的に
重要
だというのです。

そして、

これは当然のことならが、非常に大きなルサンチマンを社会に生み出すことになります。

同書における山口さんの指摘

ルサンチマンとは、
「嫉妬」「やっかみ」のこと。
つまり、差異を強調するような
マーケティング活動は、
人々を嫉妬に駆り立てる
「悪徳」なものだと解釈可能

内容なのですね。

差異の強調、言い換えれば「差別化」
するのは、マーケティング活動の基本
して捉えて来た身からすると、
自分が断罪されているようで、
なんとも気分がすぐれません。

少々見方が一面的過ぎるという反論は
成り立つ気もしていますが、
断罪されても仕方ない側面があることも
また事実
でしょう。

マーケターが持つべき「倫理」
ついて、思わず考え込んでしまい、
筆が進まないままに一ヶ月ほど放置
してしまいました。

ただ、人々に意図的にルサンチマンを
植え付けるようなマーケティング活動が
未来永劫続くとも思えませんし、
決して望ましくもありません

この「倫理」の問題は、
答えが得られるか現時点では
何とも分かりませんが、
更に考察を進めて行きたいと思います。

己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。