やりたくないことをやってイライラしててもな

こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは

珍しく解熱しない。38°あり身体中いたいけど、思いついたので書いてます。



やりたくないこともやらなきゃいけない、と口酸っぱくミミダコで言われてきたので、やりたくないことをやることが、人生のスタンダードだ、と思ってしまっては人が多いと思います。

私も自愛を知るまでは、やりたくないことをやるのが、人間だし、常識だし、なんなら美徳だし、素敵な人生と間違った価値感を持っていました。

でも、自愛をして、自分の気持ちを肯定することに努めると、お仕事を務めるのと同じくらいですよ、お仕事は誰でも割と全うしますよね。それくらいかそれ以上自分のどんな否定的な思いも、クズな考えも、あり得ないほど湧きでる感情も、肯定しまくるんです。

そうすると、なぜか知らないうちに、自分という枠がとろけたのではないか、のように、緩んでいくのです。ですから、もともとの自分の感覚も徐々に蘇ってくるのです。

この感覚というのは、言語化できませんし、言葉として表せないものなので、私たちは目に見えるものを主体として生きてきた長い遍歴があるため、無意識のうちに排除するか、二の次にしているのですが、のちのちに5次元意識で生きるには非常に重要なポイントになります。ポイント以上ですかね。語彙がなくて、、、。

で、自愛をしてると、思い込みだった!ということに出くわすのです。やりたくないことをやってる自分てなんのために生きてるの?という問いが、押し寄せてきます。その時に、仕事のため、生活のため、家族のため、老後のため、人生にはそういうことも必要だから、と、これまた自動思考を走らせるわけで気づかないフリをしてしまうのですね。

気づいてるんですよ。本当はね。でも、気づかないフリをして、変えようとしない道を選択しているわけですね。

変えるのは、労力かかってたいへんだから、が大きな理由ですかね。

脳も潜在意識も現状を変えるの嫌うから、、、。自動思考運転、だから、現実が変わらないっていうんですよ。

でもね、この現象が変わらない、とされてる現象さえも、なんと、自然発生なわけです。

現実を変えようと思考すると、変えようとする現象が延々と現れ、延々と現れるのでもがき苦しむ。そして一層悩みが深くなる。

しかし、変えようとするのを思考でやめた時、もがき苦しみから解放され、現象が変わる方向に向いていった。というのもよくある話です。

この時、やりたくないことをやってない人は変わるのが早いと思います。やりたくないことなのに、鞭打ってやり続けると、なんかしれないけどムカつくとか、イラつくとか、些細なことで感情が揺れ動くのではないかなと思います。

ある人に対して腹が立つ、でも大人としてあるべき態度をとろとして、些細な感情は押し込まれます。出さないことを選びます。しかしそれが日常でしたら蓄積されてしまいます。いつか、爆発する。

その矛先は、罵詈雑言を浴びせても自分には跳ねっ返りはないだろうと信じる場所で。

その些細な感情の一因は、常識や、慣習などの制限という呪縛に絡まって、やりたくないこともやれ!という教育によるものではないかと思います。ひょっとするとこれさえも思い込みかもしれませんが。しかし一つ言えることは、やりたくないこともやらなきゃ生きていけないでしょ!という思い込みは、人生を海に例えたとしたら目の前がとても狭い視野になっていて、まるでタイタニックの氷山見えなかったよ…と同じ。

私たちは、人生を冒険していますが、やりたくないことをやるために、生まれて生きてきたわけではありません。よね?

特に、アセンション、覚醒、目覚め、高次元の存在、5次元意識などを知った以上は。

つまりこうも言えますよね。やりたくないことをやめるために、アセンション、覚醒、目覚め、高次元の存在、5次元意識などを知った、とも。

ではなぜ、やりたくないことを、知るきっかけに出逢ったのか?

それは、本来の自分として、生きるために本当にやりたいことをやるため、だと思うのです。

しかし、本当にやりたいことって、例えば使命や天命、天職なんかもそうですけど、自愛をしていないと見つからないと思います。

私もずいぶん悩みました。そして天命、使命、天職探しをし続けていました。なぜならそれらを見つけたら、絶対的な揺るぎない幸福と多幸感で人生万々歳だ!とおもっていたからです。

これも、昭和の自動思考のルーティンな思い込みですね。

ほんと、昭和世代ってきついんですよ。自己犠牲の自動思考と呪縛に振り回されて、ほどきたいのに解けない、、、グルグル回ってませんか?

それも、シナリオですが、、、。

で、探したあげく、ないんですよ。ほんとにやりたいことって。なぜなら、好きなことを仕事にして生きる!なんて文言はやってましたけど、やはりその文言に振り回されているってことなんですよね。

好きなこと=やりたいこと、をやるから幸せで多幸感万々歳!というのも、

条件付きですよね?

そんな条件つけなくても、生きてるだけで幸せで多幸感があるのが、本来の私たちなんです。

しかし、これに気づくまでの道が、、、長かった。遠路はるばるようこそおいでなすった、、、といれてるみたいみたいに、

夜明け前は一向に開かないし、人は離れてくし、自分のことも全然知り得ないし、常に崖っぷち。

てもそれこそが、ハイヤーセルフ=魂=創造主がしたいことだったわけです。

そうやりたいことって、すでに、やってたんですよね。でも、やりたくないことをやり続けるというと、無理を強いている最中ですから、やりたいことやってる、とは到底思えませんよね?

なんでこんな理不尽なんだ!なんで私ばっかこんな目に遭うの?これもそれもあの母親のせいだ!返せ私の人生を!あんな宗教やってたからって「い・ち・ど」も幸せを感じたことなかった!嘘つき宗教!とか、なんで離婚する羽目になった?宗教のせいだ、アイツのせいだ?なんで見抜けなかった?なんで不倫されたのに慰謝料もらわなかった?くうううう、きいいいいい、

っていう憎しみをバネに、やりたくないことをやって、わざと嫌われるような振る舞いをして、私なんかいないほうがいいを確立させるという、自分を奮い立たせていたのです、私はね。

そんなことを、自愛は慈愛として、私を包み込んでくれました。

自愛とは自分のこと嫌いでもいいんです。嫌いな自分も、いいよ、と肯定し許すことが自愛です。嫌いなものはきらいなんだから。そのままの好みなので。憎しみがあってもいいよ、と。

憎しみを持ってはいけません、相手や気持ちをくみとるのです、相手の幸せをひたすら祈るのです、という修行者の宗教の教えから、憎しみを持ってもいいんだよ、という新たな観点に、私は救われました。

でも、嫌いと思うのも、勘違いだったりすることに後々気づくことも多いですね。

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まず、やりたくないことをリストアップします。どんな些細だと思うことも。
洗濯畳むのやだ、
皿洗うのはやだ、
満員電車の通勤やだ、
朝ごはん作るのもやだ、
おはようございますっていうのもやだ、
話合わせるのもやだ、
全部めんど。笑

こうして書いたものに順番をつけていきます。
これならやめれそうって。

リストアップしたら、リストアップできた自分を称賛することを忘れずに。

そして、朝ごはん作りたくない、と息子に言うのが一番怖かったですが、言い出すのに何日もかかりましたが、気持ちをゼロポイントフィールドにもっていき、つまり今この瞬間はニュートラルなわけです。今この瞬間に自分は生まれ変わったのだ!と宇宙にセットするイメージで、ネガもポジもない、ゼロに居ると設定するのです。

そして、あのさ、朝ごはん作るのしばらくやめたいんだけど→うん、いいよ。俺平気だから。とあっけなく終わりました。

そして言えた自分に称賛し、一層の自愛=慈愛で包んであげるのです。

この息子は言うという怖さを通り越したので次々とやりたくないことをやめていけました。ただし、本当「やめた後もできたことを称賛するのです。そうでなければ、まだまだ残っている劣等感や罪悪感で覆われて、望むこととは反対の声を相手に投影してしまうからです。

やりたくないことをやりたくない、と言っても反対されることもありますが、その時はまだ好機ではなかったと、でも言えたことが素晴らしい!と仕切り直して、称賛するのです。

決して、やっぱ無理じゃん、、、とネガティブさんにならないことですね。

ここでも、展開が分かれるのです。
失敗ではなく、好機ではなかっただけなのを、失敗ととり、自分を責めネガティブさんの殻にとじこもるのか、

好機ではない、あ〜練習だね、ととり自分を称賛しポジティブさんの道を堂々と歩むのか、

自分の選択によって人生は作られていることを、まざまざと見せつけられたのです。

リストアップしたやりたくないことをすべてやめていくのに3年くらいかかりましたけど、並行して自愛をしているので、5次元意識の真理に辿り着いたころには、そっか、これがハイヤーセルフのやりたいことだったのね!と安堵しました。

貴重なお時間を使って最後まで読んでいただきありがとうございます😊
あなたにも幸多き日々を
YES❣️


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