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葉子、と。

ひよ


 三月のある朝。冷たい風がゆったりと路地を流れていた。葉子は、水のない「川」に体を包み込まれていくように感じながら、いつもの角掃きをしていた。
 
 椿と木瓜の木が並んでいる澤田さんの庭のすぐ近く、日本画家宅の広い庭から、今朝もウグイスの声が聞こえる。自然に寄ってきたのではなく餌付けされたのだという。庭に集まる鳥はウグイスだけではない。メジロやヒヨドリ、雀なども集まっている。早朝であれば、鳴き声だけでなく金木犀の垣根の上や桃の木の上にそんな鳥たちの姿が見え隠れしていた。

 澤田さんは違う事情から、自分の庭で鳥の餌付けを始めていた。蜜柑を横に二つに切り、切った面を上にして木瓜の枝に突き刺している。その数、八つほど。
 黒い枝、まだ赤い新芽、濃い緑の若葉、少し残っている桃色の花。そのなかの蜜柑色がひときわ鮮やかに見えた。
 澤田さんの狙いは「ひよ」対策。(澤田さんはヒヨドリのことを「ひよ」という。)自慢の椿、「舞鶴」と木瓜の花を「ひよ」が食い散らかすからだ。しかも、「ひよ」は蜜を吸いに来るメジロの群れをを蹴散らす。そのことに憤慨していた澤田さんに誰かが蜜柑の方法を教えたらしいのだ。
 そうすれば「ひよ」は蜜柑に夢中になって花びらを食べないし、メジロにもそんなに悪さはしない、と。
 そのことはすぐに路地の人たちの知るところとなり、みんなこの餌付けの行く末を見つめていたのだった。

 今朝、葉子が木瓜の様子を見にいくと、いくつかの蜜柑がえぐられていた。鳥がついばんでいった証拠である。ひとつは完全に実が無くなっていて、皮が道に落ちていた。

…「ひよ」は、いるんやろか…

 背が伸びないように剪定された木瓜は、細かな枝がびっしりと混み合っていた。見えにくくなった枝の隙間に一羽の鳥が止まっている。濃い青みがかった黒が枝の色に似ているせいか、まるで「だまし絵」のように鳥がいた。

…「ひよ」やわ…

 鳥の羽ばたく音が横から聞こえた。聚楽色の壁に沿って数羽の雀が垂直に何度も昇降を繰り返している。
 「ひよ」は動かない。
 おそらくこちらの存在に気がついているのだろう、と葉子は思う。しかし、「ひよ」は逃げようとはしない。ウグイスやメジロだったらあっというまに逃げているだろう。
 「ひよ」がふいに体を震わせたと思うと、蜜柑の一切れにとりついた。くちばしをつっこんで実をついばんでいる。

…澤田さん、やったやん。餌付け、成功してる…

 葉子がさらにヒヨドリの動きを観察していると、「『ひよ』やね」と背後から声をかけられた。澤田さんが憮然とした表情をして立っていた。

「餌付け、成功したみたいですね」
「うーん、どやろ。これで花を食べてくれへんかったらええねんけど」
 と、澤田さんは心配そうだ。
「メジロがいつもね、五羽で来るん。それが怯えてしもうてねえ」
 確かに他の鳥たちの姿は見えない。

「『ひよ』は、あつかましい鳥なんやわ」
 澤田さんがそう言うと同時にヒヨドリが羽ばたいて去っていった。


 その日の夜、葉子が亨にその話をすると、亨は大好きな庄野潤三の小説の文庫を数冊、本棚から持ってきた。
「庄野家では牛脂をやったり水盤に水をはったりして鳥を餌付けしてるんやけど、ヒヨドリが全部食べてしまったり、水を全部飲んでしまうって書いてはるんや」
「へえ、どの本」
「どこにでもでてくるよ。薔薇と鳥とハーモニカの話はいつもでてくる」
「ヒヨドリって嫌われてるんやね」
「うん。嫌われてる。可哀想に、卑しい鳥って書くんやもん」
「『鵯』か…。ふーん…。そやけど、こんな街の中にもたくさん鳥がいるっていうことが、私にはおもしろいの。『ひよ』でもなんでも」
「ほら、庄野さんが書いてる」※注1
「なんて」
「『ひよどりは、たちが悪い』って。だけど蜜柑を半分に切る方法は庄野家でもやってるよ。メジロに吸わせるためなんやて。と、いうことは、あの木瓜の木にはメジロも集まってきているはずだよ」
「ありゃ。それじゃ余計にいじめられてるかも」


 それから数日、葉子はなんどもヒヨドリを見た。蜜柑は日々、減っていき、とうとう全部食べられてしまった。亨がいうようにメジロたちも「ひよ」の目を盗んで吸いに来てたのかもしれないけれど。
 その朝、澤田さんは追加の蜜柑を枝に刺していなかった。ヒヨドリが現れていない木瓜の木を前にして、葉子は何か雰囲気が違うと感じた。うるさくはないのだが、視界の中がなにか賑やかなのだ。
 目を凝らした。
 「鈴木さんの椿」のなかにメジロが五羽隠れていた。名前を知らない黒い小さな鳥もいる。聚楽色の壁の向こうからウグイスの声がした。雀は相変わらずその壁の前で昇降を繰り返している。何かが通り過ぎた気がして横を見ると、朝日に輝く道の上を鳥の影が二つ走っていく。見上げると鳩だ。その視線の先の屋根の上にはカラスが留まっている。

 …鳥がいっぱい!
 …あ、たぶん『ひよ』も戻ってくる。…

 葉子は小走りに家に戻った。親戚が送ってくれた甘夏を思いだしたのだ。横に二つに切った甘夏を持って木瓜の前に戻ると、澤田さんが心配そうに花を見ていた。
「蜜柑、切らしてしもうてねえ。あっ、いやあ甘夏やね」
「これ、枝に刺しましょう」
「すっぱいのん食べるやろか」
「鳥って味覚あるんですかね」
「どうなんやろ」

 葉子はずぶり、と大きな甘夏の半分を枝に突き刺した。木から離れると、いったいどこにいたのかすぐにヒヨドリが飛んできた。
「あらま。もう『ひよ』が来た」
「いやあ、早いなあ」

 葉子は愉快だった。
 木瓜の花やメジロたちの事を忘れていた。ためらいなく、くちばしを甘夏に突き立てる「ひよ」の姿が愉快だった。
 澤田さんも苦笑いをしている。

 木瓜の花が終わると、ヒヨドリはまたどこかへ飛んでいくのだろう。澤田さんは、もう蜜柑を枝に刺さなくなるかもしれない。


…「ひよ」、うちにくる?
 葉子は心の中でちいさく呼びかけていた。
                                             (了)
 
※注1 「せきれい」庄野潤三(文春文庫)


桜を持って


 ゆるやかな朝風とたっぷりの光を浴びて、葉子と亨はベランダから通りを眺めていた。

 ここ数日で季節は一気にすすみ、冬の残滓はすっかり消え失せていた。じりじりとすすんでいた桜の開花も八分からほぼ満開に。街中が浮き立つような雰囲気。

「あれはどこから持ってくるんやろ」と、葉子。
 早朝の散歩をしている人たちに混じって、いっぱい花のついた桜の枝を持って歩いている人たちが、ぱらぱらと。その人たちだけはトレーニングウエアではなく、普通の服装をしていて、少し俯き加減に歩いていたのだった。目印のように桜の花がきらきら輝くので余計、目につく。

「一人だけなら花泥棒と思うけど、結構沢山の人が持ってるし、そうやないみたいやね」
「波多野君が言ってたけれど、桜って枝を折ると、そこから腐りが入って枯れてしまうんやてね」
「うん。だから桜の枝を折るのは余計に悪質なんや。花屋さんで用意する枝つきの花は別やけどね」

「誰かがふるまってはるんやろか」
「『ふるまう』って…」
「例えば、桜の木が切られてしまうとか。で、最後の花を来はったひとにプレゼントするの」
「ははあ、誰かが接ぎ木や挿し木で増やしてくれるかもしれへんしね。そやけど、それやったらトレーニングスタイルで歩いてはる人も、みんな、もらうんとちゃう」
「そういえばそうやね」

 葉子が首を傾げると、耳のうぶ毛が朝日に輝いた。亨の人差し指が反射的にのびて、こわれものに触れるように耳を撫でる。
 葉子は首をすくめ、亨の懐に入って体をあずけました。
「柔らかいなあ、耳」
 葉子は黙っています。
「笑ってる?」
 亨は葉子の耳をそっと噛みました。
「ふふふ。さあ、ご飯にしましょ」
 葉子が体をするりと反転させて部屋へ戻り、一人残った亨は、まだ桜を持った人たちの行く先を見つめていた。
 合計したら十数人、みな山の方向へ。
 

 夕刻、葉子と亨が並んで山沿いの桜並木の坂を歩いていた。
 日が長くなり、亨が帰宅する頃も夕映えは残っていて、散歩しよう、と亨が提案したのだった。
 歩いているのは公式には「きぬかけの路」といわれている道路で、金閣寺から始まり龍安寺、仁和寺、鳴滝から広沢の池、嵯峨野、大覚寺、嵐山と市の北西部の山沿いを横断していくので、多くの市民たちからは「観光道路」とよばれていた。
 信号や交差点が少ないので移動には便利で、亨の乗っているような営業車もよく利用する道でもある。もちろん観光客も歩いている。

 朝、桜を持った人たちが向かっていたのは、この道が貫いている山の方向だった。亨が説明しながら歩く。
「うちから見える道の行き先は龍安寺山か住吉山になるやん。たまたま今日は仕事が福王子のほうやったから、山沿いになるこの道を走ったんや。そしたらまだ桜を持って歩いている人が二人ほどいたねん」
「まだいたの」
「うん、ずいぶん若い子やった」

 ふたりは東から歩いていきました。道は山裾にあわせて大きなカーブとアップダウンを繰り返しています。衣笠山の裾から龍安寺山の裾に向かっていく坂道の下で、電柱が白く輝いているのがみえた。
「最初にあれが目に入ったんや」
 二人は黙って歩いていった。もうしゃべらなくても二人とも何が起きたのか思いだしていたので。
 電柱の際に缶コーヒーと自動車の雑誌がおかれ、ガラス瓶にいろんな種類の花がさしてありました。もう一つの瓶には桜が数本さしてあります。

 去年の春、夜中に交通事故がここであって、若い男の子が亡くなったのだった。道に飛び出した酔っぱらいを避けて電柱に激突したのだ、という。

 聞いたことがないほどの沢山のサイレンが山から響いてきて、亨も葉子も、それこそ町内ほとんどの人が外に出たほどだった。同乗の人が車体に足を挟まれたために、特殊車両がきたのと、ガソリンが流れ出し火災とスリップのおそれから道路は全面閉鎖された。
 今、二人が歩いている山肌に赤いライトがいくつも、長い間、反射していた。「山火事か」という人もいたぐらいに。
「信号が少ないし道も広いからスピードがでてしまうんや。山肌に沿ったカーブだから死角も多いし…」
 その時、亨がそういって唇を噛んでいたのを葉子は覚えていた。

「もう一年たったんやね」
「早いね」
「桜が五本さしてある」
「このどこかにお墓があるんやろか」
 亨が深い影に入り始めた山を見上げました。
 山には各寺の墓地があり住吉山には市営墓地があります。観光道路とはいうものの、お寺は亡くなった人を供養する場所でもあります。この道はそういう場所を繋いだ道ともいえるのだった。

「朝、桜の枝を持っていた人たちも誰かのお墓に向かっていたんやろね」
「この人かもしれないし」
「違う人かもしれない」
「誰かが呼びかけて、桜を用意したんやね」

 電柱を離れ、二人は西へ向かって歩いた。夕陽を浴びた二人の影が長く伸び、そのなかに散った桜の花びらが吹き寄せられては沈みます。歩いても歩いても影の中に花びらが吹き込んでいきます。
「今度、雨降ったら桜、終わりやろね」
「晴れてよかかったね、今日」
「うん」

 風が少し強くなるたびに、影の中から花びらが舞い上がり、二人の背中に貼りつき、そしてまた影の中にはらはらと落ちていきます。追いすがるように、じゃれるように舞う花びらも、やがて二人の影から離れ、動かなくなるのだった。

                          (了)

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