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葉子、と。


石鹸

 

 月曜日午後六時。
 亨は今日の仕事をもう一度振り返った。
 大学の駐輪場の中央に高さ三メートル、間隔二メートルで、逆「ハ」の字の形に、長さ一メートルの蛍光灯を六つ取り付けた。
 まだ駐輪場は開いていて、白い灯りが一斉にともったところだった。配線も問題ない。亨は肯いて、帰る支度をはじめた。

 …今夜は過ごしやすく、熱帯夜はようやく終わり明け方の最低気温は22℃になるでしょう…

 仕事の時にいつも鳴らしているラジオのスイッチを、その声を最後に切った。


 同じ時刻。
 山際の家で亨の帰りを待つ葉子は、夕食の支度をしていた。その間はいつもラジオをかけっぱなしにしている。
 硝子のボウルを水洗いしていると、その音にAMラジオのモノラル音が被さった。
 葉子はその音で、瞬間、母親もラジオをかけっぱなしにして夕食の支度をしていたことを思いだした。その足元でうろちょろしていた自分の姿と。いつもエプロンの裾を握りしめては母に苦笑いさせていた。
 ざあざあざあ
 硝子に水が当たる高い音。家の硝子鉢は赤い朝顔の絵付けだった。そう、ラジオは確か歌謡曲の番組で、そのあとすぐにナイターだった。

 我に返って自分の手もとを見る。カット硝子のボウルが蛍光灯にきらきらと光っている。

 午後六時四十分。
 亨は仕事で使っているミニサンバーを駐車場に駐め、家に向かって歩いていた。嵐電の単線の踏切の向こうから若い女が歩いてくる。踏切脇の銭湯をでてきたところである。
 たぶん下宿している女子大生なのだろう。化粧気のない顔がいいな、と亨は思う。
 グレーのだぶだぶのTシャツに紺にオレンジの三本線のだぶだぶジャージ、素足にサンダルでぺたぺたと歩いてくる。
 すれ違いざまに彼女が使っているのは「あの石鹸」だとわかる。亨の口元が緩んだ。 

 亨は子供の頃、酷いアトピーだった。様々な療法を試したのだけれど、症状は重くなる一方だった。すっかり治った子もいるのに、
と母は神経質なぐらい様々な医院を回り続けた。

 とうとうこれ以上行くところがない、という病院で、亨の母は医師から決断を迫られていた。亨も聴いていた。
 「どうしますか。私の治療方針は今、言ったとおりです。いやなら今すぐお引き取りください」
 母は医師の説明に半信半疑のようだった。そして自分が見つけてきた特製の石鹸を使って云々、としゃべりだした。即座に医師の癇癪が爆発した。
「そんなものはいっしょ。なんでもいっしょ。高いだけっ。ふつうーーーの石鹸でいいの。普通の石鹸!!」
 その迫力に圧倒されたのか、亨がその間うつむいて萎れていたからか、母は半分泣きそうになりながらその医師の治療に従うことにしたのだった。
 以来ずっとその石鹸なのだ。その石鹸で治ったわけではないけれど、アトピーが完治した今でも使い続けていた。
 誰もが知っている「ふつうの石鹸」である。

 同じ時刻。
 葉子はほとんど夕食の準備を終えていた。日が落ちてから気温が一気に下がった。クーラーを消して、窓を開けていると涼やかな風が流れ込んでくる。
 葉子は腕を撫でてみる。久しぶりに汗ばんでいない。乾いた風でさらさらになっている。ふと、風の中に石鹸の匂いを感じた。踏切の角にある銭湯から風向きによって匂いが流れてくるときがあるのだ。
 …あ、うちといっしょ…
 葉子の口元も少し緩む。


 午後六時四十五分。
「ただいま」
「おかえり」
                         (了)


チノパン


 鮮やかな光が車の流れの上に、ぽんっと点き、亨ははっとした。
 対向車がヘッドランプをつけたのだ。町は群青色に染まる時間帯に入っていた。そしてそれを合図にするかのように道路上でヘッドランプが次々と点灯されていく。亨もボタンに手を伸ばした。
 薄暮の時間がずいぶん短くなった、と亨は感じた。
 夕暮れの空が橙からあっという間に群青に、そして闇へと流れるように変わっていく。
 亨はゆっくりとスーパーマーケットの駐車場に車を入れた。

 この時刻のスーパーマーケットは主婦は殆どいなくて、学校帰りの学生と仕事を終えた人が多い。閉店時刻が近いので、惣菜や弁当に値引きシールが貼られるのを待っている人もいる。
…トマト、チーズ、ボンレスハム、マヨネーズ、レタス、ミルク、バナナ…
 亨は、時折、胸ポケットからメモを取り出し確認しながら買い物を済ますと、レジに並んだ。前の人の山のような買い物をぼんやり見るでもなく眺めていて、昨晩のことを思い出していた。

 明日は葉子のお母さんとハイキングに行くことになっている。行き先は洛西のお寺巡りである。この母と娘は歩くことが大好きなのだ。電話で秋の七草の話をしているうちに、洛西のお寺にならあるかもしれないということになったらしい。確かに町中で見かける「七草」はススキと撫子ぐらいのものだ。
 昨晩、食事の時に葉子が訊いた。
「亨さんは、どうする?折角、仕事が休みだし、家で休んでる?」
「うーん、洛西か。長いこといっていないなあ。たしか富有柿の広い『畑』があったなあ。行ってみようかな。気分転換になるかもしれないし」
「うん。いこいこ。お母さんも喜ぶわよ」
「義父さんも来るかもな」
「そうやねえ。今頃向こうでもこんな話してるわよ。きっと」

 そしてみんなで食べるサンドウィッチを作って持っていく、と葉子が言い、その材料が多いのと、葉子が夕方、ヨガ教室に行く日でもあるので、亨が仕事帰りの買い物をかってでたのだった。

 レジの順番が回ってきた。レジスターについた中年の婦人がぺこりと頭を下げる。
「いらっしゃいませえ」
 レジスターを打っている殆どの人がパートなのだろうなあ、と亨は思う。そういえば葉子もパートにでる、と言っていた頃があった。生活に困窮するほどではないけれど、電器店の仕事が不景気のあおりをくって暇になった時分もあったのだ。
 今は今で、大型店の圧力が常にあるし…。子供ができたらどうしても「二馬力」で稼ぐ必要がでてくるかもしれない。

…そういえばあのころから…
 亨は物思いにふけりながら、大きなレジ袋を二つ持ち、駐車場に歩いていった。あたりはすっかり夜で、テールランプやヘッドライトが尾を曳いて流れていた。

 買い物のメモを書いたあと、葉子はハイキングに着ていく服を思いついたらしく、クローゼットからチノパンを出してきた。
「あーあ」と落胆した声。
「これを穿いていきたかったんだけどなあ。もうよれよれやね」
 うーん、と亨は畳の上に置かれた膝が抜けて少しすり切れているチノパンを見て唸った。
「毎日、こればっかり穿いてからねえ。仕方ないな…」と葉子。
「あのさ、毎日同じユニクロのジーンズ穿いて、現場にでてくる若い子がいるんだよ。毎日同じなのに全然ぼろにならないというか、いつも綺麗なんだよね」
「ふんふん」
「なんでだろうと思って訊いたらさ、同じのを六本揃えて毎日着替えるんだって。その方が長持ちするし、綺麗だし、結局経済的なんだって」
「毎日着替えて毎日洗濯なんだ。…うん。おしゃれな人はそうだよね。同じ麻のスーツをいくつも揃えて着る人の話を着ていたことある。そうかあ…」

 車のエンジンが唸る。
…何が毎日着替えるだよ、俺あいつになんにも買ってあげてないよな…
 亨は車をスーパーから商店街に向けた。

「ただいま」
 亨が帰ってきた。
「お帰り。遅かったわね」
「うん、最後のところで少し時間かかっちゃって」
「あ。ごめんごめん。書き直したからわかりにくかった」
「ううん。ちゃんと買ったから」
 亨がテーブルの上にどさりと荷物を置いた。

「まあ、たくさん。あれ?これは?何?」
「えっ。チノパンだよん」
「あ?あ。なんで?」
「もう、よれよれだったもんね」
「いや…その…それは有り難いんだけど、なんで六本もあるの」

 つまりこういうことだった。
 葉子はメモの最後にサンドウィッチの「パン」のことを書いたのだけど、スーパーのパンだとまずいから、近くのホームベーカリーナイトウのパンにしようとして、
「ナイトウサンチノパン 六」と書きなおしたのだ。
 カタカナがあだになった。

 亨は昨晩から古いチノパンのことばかり考えてたので、メモのチノパンに反応してしまっていた。さらに悪いことにトラッドの専門店「ナイトウ洋装店」の前を毎日亨は車で走っていたのだ。
 もちろん「六」とは「六枚切り」のことである。しかし亨には毎日着替える「六本」にみえてしまったのだ。

 葉子がけらけら笑っている。
「よくお金があったわね」
「……ぷぷ。ほんまになあ」
 亨は銀行のATMの前で神妙な気分になっていた自分を思い出し、笑い出した。

「そういえば洋装店の主人が少し変な顔してたかなあ。ははは」
「ぎゃはははは」
「…。その六本、プレゼントだと思って受け取ってよ」
「ええもちろん。ありがと。二本ぐらいお母さんにあげようかな。そんなにチノパンばっかりはかへんもん。かまへん?」
「うん。だけどサイズは?」
「私とお母さんいっしょだから。そういえば、亨さん何で私のサイズ知ってたの」
「そりゃあ『夫』だもんね」
「…あ、そうか」
「そうそう」

 月がくっきりと出ている。明日の天気はよいようだ。
                             (了)

一応、ぼくの母ですから


 亨と葉子は、月に一、二回ほど、家の斜交いにある割烹で夕食をとっていた。
 背の高いご主人と息子さん、その二人に挟まれた背の低いおかみさんとで切り盛りしている小さなお店である。名前は「竹村」という。
 近所ではあったけれど、会釈をする程度でほとんどいくこともなかった。それが店に通うようになり、出会えば軽い立ち話をするまでになったのには、きっかけになる「事件」があったからである。

 この家に引っ越してきてまだ日の浅かった、ある夕暮れのことだった。
 買い物帰りの葉子は、群青色に染まりだした路上に、白い割烹着がじっと動かずにいるのをみつけた。近づくにつれてそれが「竹村」のおかみさんであることがわかってくる。さらに近づくと、おかみさんは猫を抱えていた。猫はまったく動かない。

「どうしはったんです」
 葉子が声をかけた。
「急ブレーキをかける音と、どんっていう音がしたから表に出たらこの猫がはねられてましてん」
 おかみさんの目は潤んでいた。
 おかみさんの話だと、この猫は店の裏口にいつもごはんをもらいに来ているのだという。
「最近、子猫を生んでねえ。どうやら裏隣の茶道教室にある竹林の奧らしいんやけど、そろそろ連れてくるかなて、おもてたのに」
 深い溜息をつきながらおかみさんはその場にしゃがみ込んでしまった。お店の戸が、からからと開いて、主人があらわれた。困った顔をして妻のその姿を見ている。店の中は忙しいようだ。

「ちょっと待っててください」
 葉子は立ち上り、自分の家に駆け込んだ。そして、大きなバスタオルを持ってその場に戻った。おかみさんは茫然としたままでいる。
「さあ」
葉子はそういって野良猫を引き取った。誰かがしなければならないことだ、と葉子はとっさに思ったのだった。

 この野良猫の葬送をかってでてから、二人は割烹「竹林」に通うようになった。また、歩いていて、それまで経験したことのなかった会釈を町の人から受けるようにもなった。
 町の人たちはどうやらこの顛末を見ていたようなのだ。

 次の週の土曜日にふたりは「竹村」にいった。
 カウンターに着くと、さっそくおかみさんと葉子は残された子猫たちの話を始める。亨は正面にかかげられた「お品書き」をみて注文を考えていた。するとカウンターから裏の調理場へいく暖簾のよこに、自分の家のものと同じ殺虫剤を見つけた。
「あ、あれうちでも使ってますよ。もう売ってないんですよね」
 それは最近発売中止になった薬剤ではなく氷点下40℃のガスで虫を殺すというもの。
「そうなんですよ。薬で殺さないからっていうんでね、裏のほうでも使えるかなって。だけど火事おこしたくないし、もう使いませんけど」と主人。
「だけどそれあんまり効きませんでしたよ」と亨。

 亨はビールを注文し、横目で葉子を見ながら、話を始めた。
 亨と葉子の家に十日以上も蠅が居続けていることである。

「殺虫剤の毒性が気になるから、と今までは極力、殺虫剤を使わないようにしていたんですけどね、あまりのしつこさに葉子が『切れて』、この殺虫剤ならいいだろうと早速購入したんです。まだ蠅とのバトルはが続いていて、今のところ蠅はまだ死んでいないようなんですよ。
 ノズルから噴射されたガスがかかったはずなのに、息を潜めていて、いきなり不意打ちを食らわすように飛び回るんです。いやあ蠅が強いのか、その殺虫剤がダメなのか」
「うーん、うちでは効いたようにおもいますけどね」

 隣から、子猫に名前をつけようとか、誰かが飼ってくれたらいいのになどという声が聞こえてくる。

「もうその蠅は自然死するんとちゃう、っていったんですよ。だけどこいつが聞かなくて」
「ふふ」
「いやそれがもっとおおかしいのは、名前が付いちゃったんですよね」
「蠅に?」
「そう。いつのまにか『あの蠅、まだ生きてる』って、仕事から帰ったら確かめるようになっちゃって。そのうちだんだん『あの蠅』じゃ済まなくなって」
「そうなんですよ。いつも対峙しているでしょ。そしたら愛着ってわけでもないんやけど、うーん、結局蠅に遊ばれているんですけどね、ただの蠅じゃなくなっちゃって」
 いつのまにか葉子が話に加わった。

「へえ。なんて名前つけたんです」
「思いつきでね、タマヨってつけたんです。みつけたら『こらあタマヨ』って追っかけ回してます」
「あははは、『蠅のタマヨ』ですか。なるほどねー。そりゃあ強いはずですよ。しぶといですよ。あー、それはまず死にませんぜ」
 と、主人が声を強くして断言する。妙に強調するなあとおもって、亨が何気なくおかみさんを見ると。
「それ、私の名前…」
「ありゃ」
「ありっ」
「あはははは」
「おかみさん、ごめんなさいほんとに偶然なんです。名前かえなきゃ。うーんそうカズエ。カズエにかえますっ」
「奥さん、それ、隣の奥さんの名前っ!」
 全員、大笑いである。息子さんまで向こうの調理場から顔を出して笑っていた。

 それからしばらくして「蠅のタマヨ」は姿を見せなくなった。どうやら成仏したようである。
 葉子はおかみさんと二人で朝夕姿を現す子猫たちに給餌の世話をするようになった。特に夕方、店が忙しくなる頃に姿を現すので、おかみさんの手が離せないときは携帯に連絡が入り、葉子が店の裏に出向いていくのだ。

 夕飯の刻だった。
「ねえ亨さん聞いてくれる」「うん」
「今日、猫のご飯をやりに『竹村』の裏にいったのね」「うん」
「ステンレスのお皿に缶詰を分けて入れてたら、息子さんが顔を出したの。で、『タマヨ』どうなりました、ってきくから、もう死んだみたいですっていったのよ。そしたら息子さん、うちにもしつこい蠅がでましてんっていうのよ」
「ひょっとして名前つけたんとちゃう」
「そうなのよっ。それも『ヨウコ』ですって」
「ははははは」
「それもね、にこにこしてさらりというのよね。これって仕返し?」
「ふふふ。やっぱり『息子』なんだなあ。お母さんが好きなんだよ」
「いやそれってマザコンやないかしら。息子さんのお嫁さんになる人大変やわ」
「いや、やっぱり息子はお母さんの味方をするんだよ」
「亨さんもそうなの」
「まあまあ。一応、ぼくの母だから、さ。それはそれ。大事なのは葉子に決まってるやん」
「ほんまかしら」
「ほんまです」

 割烹「竹村」としばらくお付き合いが続きそうである。

                             (続く)



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