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街函

火花



          

          朝顔

          白い服の老女は水遣りをし
          少女の写生は葉の曲線にさしかかる
          火花が降っている


          昼顔
          風のたまりに眠るふたりの女
          金魚の水に光が撥ねて
          影を火花が駆け回る
          
          夕顔
          少女の声は橙の窓のうち
          解ける花を待つ床の横顔に
          糸のような火花が弾ける


蝉の羽色


 ぼくたちの住まいを変えることになった。今までは二人でマンションに住んでいたのだけれど、老いの目立つ妻の母と同居することになったのだ。義母は西陣の家で独り暮らしをしていて、どうせなら二人の職場に近いことにもあるから義母の家にこないかという話になった。ぼくらは古い町家をリフォームし、これから引っ越す。結婚して5年。子供はまだいない。
 妻の圭子は染織製品の問屋で働いていて、ぼくはちいさな喫茶店をやっている。圭子は西陣へ、ぼくは下鴨へそれぞれ仕事に行く。結婚した頃はふたりともそんなにお金はなく、ましてぼくは開店したばかりの自分の店に有り金のほとんどをつぎ込んでいた。だからぼくたちは市の北はずれの山の近くのアパートに住んでいた。引っ越せば圭子は職場まで自転車ですぐになる。ぼくは帰り道の急勾配がなくなり、東西に移動するだけですむ。
 圭子の実家は典型的な京都の町家で、いわゆる鰻の寝床だ。町家はそもそもが中世の市民たちの節税の智恵から生まれたものだから、狭さに対する工夫はあるものの、使い勝手は悪い。特に老人には辛い段差がけっこうある。ぼくらは全面改装を施し、もちろん義母のためにバリアフリーにした。さて、いよいよ引っ越しという時になって義母から注文がついた。
「方違えをせなあきまへんえ」という。
 ぼくの店は下鴨の古い森の近くにある。名前は「縹」。圭子がつけてくれた。「縹」は「はなだ」と読み、染めの色の名前だ。色の名前を指定してくる客が「縹色」を「花田色」という当て字で書いてくることが多いのだという。ぼくの名前が花田哲史で、その逆を使ったというわけだ。藍系の色である。裏の神社の森とも雰囲気が合うから、と。
 むろんぼくの知るよしもなく、圭子にその色に染めた端切れを見せてもらって初めて知ったのだった。もちろん店内の小物は色の濃いものから薄いものまで「縹色系」のものばかりである。狭いカウンターだけの喫茶店で六人が座ればいっぱいになる。そんな店だから好きなジャズも小さな音で鳴らしている。
 今日、閉店間際の「縹」に仕事を終えた圭子が来た。客はいなくて閉店のテーマに使っているジョニー・ハートマンをかけながら洗い物をしているところだった。
「うーん、夜の入り口のような音楽やね」
「そうや、これから夜ってこと」「お茶や珈琲の時間はもうおしまいって?」
「そう」
「ほな、早めに例の『方違え』の説明をするわね」
 そういうと圭子は白い紙とペンを取り出した。白くて華奢な手がペンを握った。
「わたしたちのマンションがここだとするわね」そこにAと書き、丸で囲む。
「で、実家がここ」そこにBと書き、同じように丸で囲む。それを矢印で結んで
「これは南西の方角になるの。引っ越しする時にその方角に差し障りのある神様がいる時は、迂回して南のC地点に一度移動して、そこからBにはいらないとあかんの」と離れたところにCを書く。
「そんなん今でもやってんの」
「うちは昔から神社の人に頼んでいちいち決めてたんやて」
「ふーん、で、どうしたらええの」
「このC地点で一泊して欲しいの。そうしたら実家にはいるのは真西からになるさかい。それでお母さんの気がすむんやから、ね」
「ああ、ええよ。そやけどそのあたりに泊まるところあったかな」
「うん、おばさんのとこやったらどう、って」
「おばさん、て、大沢さんやん。ということは典子のとこ?」
「そう」
「ふーん」
「あ、典子はいないから。イギリスにずっと行ってるし」
 大沢典子は圭子のいとこで、ぼくと圭子と典子は同じ高校の同級生だった。圭子と典子はまるで双子のように似ていた。
 『方違え』というのは、その日時、移動する人、移動する場所で全く異なってくる。まるで陰陽師のような人が、いまでもそれを見てくれるのだ。昔ほど厳格ではないにしても、町ではそのような昔ながらの慣わしに従って暮らしの節々を決めている家が多くある。
 今回のぼくの場合、ぼくと圭子の二人が大沢宅で一泊するのだろうと思っていたのだけれど、圭子は実家に「戻る」だけだから、とぼくだけが一泊することになった。
 この家には高校時代に何度か遊びに行ったことがある。ぼくと圭子、ほかにも何人かのクラスメイトもいた。仲良し連中でわいわいとだべったり、ゲームをしていたぐらいのことなんだけれど。そんな中からぼくと圭子が二人でつきあいだし、そして結婚したのだ。
 典子はとても静かな女の子だった。活発な圭子とは好対照だった。二人に共通しているのは、何かひとつのことをこつこつとやり続けること。そしてその時の熱が、圭子は外に向かって発散され、典子は内へ内へと向かっているようにみえた。
「私も一緒に行く。おばさんに挨拶もせなあかんし。一人でさみしいんなら私も泊めてもらってもええんやけど」
「一泊だけやろ。そんな大袈裟なことでもないやん」
 簡単な着替えとタオルを持って、ぼくは圭子と大沢宅へ向かった。鴨川の近くにある古い大きな町家である。家にはおばさんが独りで住んでいる。ご主人は3年前に他界されていた。二人いる息子は仕事の関係で京都の外に住んでいて、典子はイギリスに英文学の研究のために再度の留学を続けていた。
 店を早めに閉めて、圭子と二人でおばさんの家に着いた時は午後8時を回っていた。 典子のお母さんは小さくて華奢な印象の人で、高校の時によく遊びに来た頃より歳をとられたけれど、雰囲気は同じだった。
 広い玄関をあがり、すぐ右手の応接間に通された。壁に土田麦遷の絵が掛けてある。
「ひさしぶりやねぇ。二人ともすっかり落ちつかはって。 お母さんのとこに帰るんやて、そらええことやわあ」
「母ももう歳やし、少しずつやけれど身体もしんどなってきてるみたいやし。わたしらもそろそろ引っ越そうか、いうてた時やし、時期がおうたんやね」と圭子。
「ほんまにねぇ、うらやましいわ。うちなんかわたし一人やろ、なんやさみしいなあ。典子が帰てきてくれたら、また変わるんやろけど」
「典ちゃん、いつ帰ってくるのん」
「一応、来年なんやけどな…」
 おばさんとぼくはテーブルを挟んで座り、圭子はおばさんの横に斜めに座って体をおばさんに向けていた。さっきからおばさんの作務衣の袖にそっと触れている。
   
「あ、この着物あんたとこの生地でこさえたんやったね。気に入ってるんよ」
「うん、すぐわかった。あ、着てくれてはるって。嬉しいわぁ。ありがとう」
「哲史さん、この子の会社で染めはった生地でね、私は作務衣。典子はシャツをつくりましてん。普段はこの方がずっと楽でねえ。あんたも確か…」
「私と母はシャツです」
「珍しいね、この色」
「これはね『蝉の羽色』ていうんよ」
「蝉の羽?」
「うん、蝉の抜け殻の色ともいうんやけどね」
「ああ、そういわれるとわかるなあ」
「典ちゃんにこんな色がある、いうて話ししたら、もの凄く興味持ってくれて、おばさんにも話してくれてね」
「私、昔から着物ばかりやったの。おぼえてはるやろか」
「ええ、高校の時、よう上がらせてもろてたでしょ。うん、憶えてますよ」
「それがなあ、主人が入院してから、毎日、病院へ通わなあかんようになってねえ。ところが和服やと動きにくいんです。で典子に言われて、初めてズボンを穿きましてん。それがまあ楽でねぇ。世の中にこんな楽な服があるのやわてと思いましたえ」
 おばさんと圭子が顔を見合わせて笑った。
 それからおばさんはスラックス姿で自転車に乗り毎日病院通い。家ではほとんど作務衣を着ることになったという。それでも和装や染めには興味があって、圭子の持ってくる生地もよく見ていたのだ。
「そうやねえ、あの時は典子がえらい乗り気やったねえ」
 おばさんのご主人は癌で亡くなった。見つかってから僅か一年しか時間は残されていなかったという。典子はイギリスでの研究生活をいったん切り上げて帰国し、母と共に父の看護にあたっていた。近くに住む親族たちも放って置くはずもなく、圭子も、圭子の母も大沢家のバックアップにまわっていたことを思い出す。おばさんは毎日病院に詰めていたから、家のことは典子がほとんど仕切っていた。圭子と一緒に典子の「陣中見舞い」にいったこともある。
     
 圭子と典子、双子のような二人。
 狭い肩幅。細い首、ちいさな顔、細いからだ。ちいさな手と足。姿勢はいつも胸をはっていて、一重の涼しげな眼と真っ黒な髪。
 そんな二人が並ぶと、ずっと一緒に暮らしている双子の姉妹のように感じられるのだった。        
 家に行った時、たいてい典子はオーバーサイズの白い長袖のシャツに黒のパンツだった。それに黒のズック靴が、典子のトレードマークのようなお気に入りのスタイルだった。
 

  その二人の細い眼が光る時がある。
  例えば圭子が、典子の目の前で「哲史君、いっしょに祇園の何必館にクレー展みにいかへん?」といって初めてのデートを提案した時の、圭子の眼。
 例えば圭子から「わたし哲史君とつきあってるねん」とぼくの目の前で聴かされた時の、典子の眼とか。
 人に対して好きといういう時、唇が震えるものなのだということは圭子を見て知ったし、相手が信用できるかどうかわからない時は眼の底まで覗き込むように見つめるのだということを典子で経験した。



 町家の二階の奥の部屋にぼくは案内された。四畳半の畳部屋に布団が敷かれていた。他には電気スタンドが枕元にあるだけである。ちいさなバックからウォークマンを出して何か聴こうかと思ったけれど、聴く気がしない。文庫本でも、と思ったけれどそんな気にもならない。
 一晩過ぎればいいのだからさっさと寝ようと思い、着替えて布団の中に体を滑り込ませ、部屋の灯りを消した。
 その途端、はっ、とした。
 あまりに闇が濃かったのである。それこそ墨を塗り込めたような闇だった。
 町家の真ん中で、おばさんは階下にいて、二階の電灯は全部落ちている。そして襖の閉められたこの部屋には窓が無い。町の音も全く聞こえてこなかった。
 こんな闇は久しぶりだった。考えてみれば店も部屋も、夜に外から光の干渉が少なからずあった。夜、月明かりすら入り込まない部屋で眠るのは、雨戸を閉めて寝る習慣のあった母親と暮らしていた頃以来だった。


 最初は落ち着かなかったけれど、やがて眠りに落ちた。
 その夜に、夢ともうつつともつかない経験をした。
 夜半であることは間違いなかった。気がつくとぼくの左掌は誰かの掌に握られていた。 ちいさな手。骨の張り方、つるりとした皮膚の感覚。…圭子、と思った。
 圭子は実家に帰って行ったけれど、まったく不安のない心持ちの原因は、この掌が圭子のものだからだ、と思った。驚かそうとして…子供みたいな…。体を寄せて圭子に向き合おうとして、戸惑いが全身にひろがっていった。体が動かないのである。
 夢なのか。しかし、掌の感触はリアルなものだ。眼を開けた、はずである。ただ眼を開けているのか、夢の中で眼を開けているのかわからない。強引に手を引き寄せようと意識した。するとぼくの体に女性の体がぴたりと寄り添った。
 ちいさな体。細い体。肩に髪の感触もある。全体は圭子だと頭の中では判断している。長い髪。圭子は短い。…典子?
 まさか。
 掌は握られたままだった。じっと掌に神経を集中した。これは圭子なのか、それとも典子なのか。
 …わからなかった。
  
 いつのまにか眠りに落ちて、いつものように目が覚めた。襖が閉じられた真っ暗な部屋でスタンドの電気をつけると朝の六時になっていた。昨晩のことを思いだし、手をじっと見つめる。
 たぶん夢なのだ。何故ならあんなことがあったら恐怖があるはずなのに、全くなかった。なにか「親しい手」とさえ感じていたのだから。
 階下に降りると、おばさんが朝食の準備をはじめていた。
「おはようございます」
「おはよう。よう寝られた」
「ええ」
   
顔を洗い、昔、土間だった台所から上がったところにある茶の間で食事を待ちながらラジオを聴いていた。おばさんはテレビをほとんど見ない。まして台所に立っている時は画面を見ることができないからラジオを背後でずっとならしている。茶の間と台所の間に置かれたちいさなラジオから今日の天気やら昨日のニュースが流れていて、ふたりの耳がラジオを挟んでむかいあっているようだった。
   
「また暑くなるようやねえ」
「ええ、迂闊に外にはでられませんねえ」「ほんまにねえ」
     
 ワカメのみそ汁とごはん。浅漬けに納豆。海苔と梅干し。ちいさなみりん干しも。ぼくらは向かい合って朝食をいただいていた。
「哲史さん、お魚、上手に食べはるんやねえ。うん、上手やわ」
「そうですかね」
「うちの子らでも、まあ最近の若い人たちはみんなそうなんかもしれへんけれど、お箸の使い方がへたでしょう。哲史さん、上手ですよ」
「はは、いやあそうですか…」
「それに指もきれいなんやねえ。あの子、あんたのそういうところが好きになったんやわ」

「圭子はなんにもいうてくれませんけれど」
「ああ、圭ちゃんやのおて、典子が、ですよ」
「え、典子…さんが、ですか」 
「ふふ、気いつかへんかった?うちの娘も可哀相なこやなあ」
「……。」
「ごめんごめん。冗談冗談。典子は、あなたと圭ちゃんの結婚をとても喜んでいたしね、うちの人にもいろいろとあなたのことを褒めていたのよ。真面目な人や、いうてね」
      
 典子の父、つまり圭子の伯父は西陣の織物製造会社の社長で、喫茶店や水商売は「仕事」に非ず、という考え方の持ち主だった。圭子は伯父から何度かぼくを「まともな職」につけるようにできないのかと言われていた。圭子の父は、気にするな、と言ってくれていたが…。典子までそんなふうに言ってくれていたのだ。
 その二人の男は、今ではとも他界してしまった。二人の男の住んでいた古い町家には妻と娘だけが残り、ぼくは今日からその町屋に入っていく。
        
 ふと、おばさんの手をみた。白い、ちいさな手。すらりとしていて指が長い。圭子の手と同じかたちをしている。
        
「あの、変なこと聞きますけど、典ちゃんもおばさんと同じ手でしょうか?」
「うん?どうして」
「いや、おばさんの手こそ綺麗ですよ。それとなんだか圭子の手にも似ているような気がして」
「そうねえ」おばさんは自分の手を眺めた。
「わたしと純子(圭子の母)さんもよく似てるでしょ。圭ちゃんと典子ほどじゃないにしても。だからたぶんわたしたちは四人とも同じかたちの手をしてるかも」
 一瞬、夜の、握ってきた手が頭に閃いた。
「へえ、そんなに綺麗?」
「ええ」
「じょうず、いわはんねんね。『へえおおきにい』」
 おばさんがおどけて舞妓さん真似をしていった。
 ふふ。
 ははは。



「ただいま…で、いいのかな」
「おかえりぃ。なにゆうてはんの、自分の家やないの」
 義母さんが迎えに出てくれた。お昼前。圭子は仕事にいっている。
「荷物かたずけますね」
 この日が来るまでぼくは家にはいることができなかったから、自分の部屋に段ボールが山積みになっている。
「なんや圭子がちょこちょこやってました。服とかは私ができるから、いうて」
「あ、そうですか。助かるな」
「まあ、お茶でもどおどす」
 基本的には大沢家と同じ造りの京町家の家。だが老人には厳しすぎる部分の多い建物は、バリアフリーを主眼に大改造が施されている。真っ暗な建物中央部は、天井板の一部を切り取り強化硝子の瓦にしてある。大沢家のような真っ暗な部屋はないし、全体がとても明るい。土間ではなく板の間の続きになっている台所で義母さんがお茶を入れてくれている。 
「哲史さんは初めてやったねえ。できあがりの家に入るのん」
「工事中には何度か見に来ましたけど、完成後は…そうですねえ」
 玄関脇の和テーブルと椅子のある居間でお茶をいただく。膝の悪い義母さんのために「椅子づかい」の家具が多い。土壁にちいさな竹筒がかけてあり、白い朝顔が一輪いけてある。
  
「ご苦労さんどしたねえ。『方違え』なんてやらはる家はほとんどないし、せんでええんがための神社さんもあるんやけれど、この家が昔からお世話になっている『お方』がいはりましてねえ」
「いいえ、おばさんともいろいろお話しできましたから。そんな苦になんて」
「良子さん、何かゆうてはりました」
「典子さんのこととか」
「典ちゃんいつ帰ってくるんやろねえ」
「もう少し向こうにいるみたいですよ」
 頷きながらお茶を飲む義母さんの手を見ていた。同じ手に見える。まして義母さんも「蝉の羽色」の作務衣を着ていたから、何度かおばさんと錯覚しそうになった。
「今日から三人やねえ」
「はあ、よろしくお願いします」
「いいえぇ、こちらこそよろしゅうに」
 
 午後三時。荷物の片づけはだいたい終わって、たまたま手にした古い雑誌を思わず読みふけっていた時だった。遠雷がなった。
 階下に行こうとしたら、かあさんが上がってくるところだった。
「洗濯物取り込みましょうか」
「そう、なんや降ってきそうでしょ」
 二人で急いで物干しまでいった。夏だから洗濯物のほとんど乾いている。物干しにぼくが立った時、ちょうど物干しに黒いしみがばらばらと広がった。
「さあ、急がないと」
 ぼくが大急ぎで洗濯物を取り込んでは部屋にいるかあさんに渡していく。
「はいっはいっ」と、なんだかはしゃぎながら受け取ってくれる。
 部屋の中で仕分けていて、ふっと手が重なった。
 ほんの瞬間だったけれど、それは夜の中で握りしめた手に驚くほど似た感触だった。
「どうしはったん?」
「えっ」
「ああ、そのハンカチは主人の。ねえ、いついれたんかバッグに入っていて。まだ、ね、哲史さんが使えるな、おもてね。ええ、それはこっちにもろときます」
「はい」
 俄雨はもうあがっていた。


「そういうことがあったんや」
 そういいながら、ぼくは圭子とかあさんの顔を見た。ぼくらは夕食の後、三人で手早く片づけを済ませると、そのままダイニングテーブルを囲み、椅子に腰掛けてお茶を飲んでいた。かあさんの生活のほとんどが椅子を使うようになって膝と腰が楽になった、という話の後で、ぼくが夜中に手を握りしめられた話をしたのだ。
    
 圭子が顔をこちらに向けた。
「全然怖くなかったの」
「最初はびっくりした。けど怖くならへんかった。圭子の手と同じやって感じたしね」
「わたしの」
「そう。お前と手を繋いでいるような感覚やったから。夢かもしれへんけど」
「まあ夢でも私と会いたいのお。うれしい」
 半分、茶化すように圭子が言った。
「ふふふ。まあ まあ」
 かあさんが静かに笑った。
「そうやで。いつでも一緒にいたい」
 それはほんとうの気持ちだった。
「そやけど夢じゃないとしたら…」
「ふふ、おばさんかも」
「そんなことないやろ」とかあさん
「わからへんよ。おばさんもあんたのファンやし」
「哲史さんはそれだけあんたが好きなんよ。夢の中でもあいたいやて…私もいちど言われてみたかった」
 かあさんのその一言でぼくの夜の経験は封をされたようだった。
 かあさんが早めに寝るから、といって自室にさがり、二人だけでダイニングテーブルに座っていた。この話をしている途中からずっとテーブルの下で圭子がぼくの手を握っている。
「私たち四人の気持ちがあんたの手を握りしめにいったんかな」
「なんのために」
「ずっーと一緒にいたいから」
ぼくらはそのまま立ちあがった。

 圭子のちいさな手にきゅっと力が入った。
                                                             (了)

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